小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源50

2014年10月20日 21時55分27秒 | 哲学
倫理の起源50




 さて一般に、義に殉ずるといった態度は、褒め称えられることが多い。「何かしら自分を超越したものに価値を見出し、そのためには自己犠牲もいとわない」という心掛けや行動は、人々の尊敬を勝ち得て美徳とされる。それは、この種の心がけや行動が、自己利益を捨てて他者のためを考えている、つまり共同性への奉仕の精神を表現しているからである。 けれどもよく考えてみよう。人の背負う共同性も複雑である。この「何かしら」とは具体的に何を指すのか。それを言うのでなければ、先に述べた矛盾はそのまま持ちこされてしまう
 たとえば、自分の子どもの命を救うために身をもってかばうことは、非常に賞賛される。しかしでは、人道的な使命感から、病に苦しむ辺境の子どもを救うために現地に赴いた医師が、自分の子どもが本国で事故に遭い死に瀕していることを知ったとしよう。彼はどういう行動をとるのが賞賛に値することになるのだろうか。
 また、その「何かしら自分を超越したもの」が、そのときは崇高なイメージを与えていたが、時間の変化とともに、「過てるもの、それほど価値のないもの」としか感じられなくなったとしたら、はじめの思いはどのように救われるのか。
 たとえば国家のある強制が正当なものであるかどうかという判断を抜きにして、無条件に国家の命令に従って死ぬことが「崇高な」ことであるとしてしまったら、その国策が間違ったものであると認識されたとき、自分は無駄死にしたことになり、妻子も無意味な犠牲に供されたことになる。そういうことがあり得るという冷厳な事実を、「超越的なものに殉ずる心」を賛美する精神は隠蔽するのである。
「自分を超越したもの」というとき、この言葉のなかには、神、人類、国家、社会、企業、家族、幼子、友人、恋人などの観念がみな含まれるだろう。さらには、「正義」とか、「美」(ex.芥川龍之介の「地獄変」)とか、「真実」(ex.カントの「ウソ論文」)とか、「善」(ex.身を犠牲にして線路に落ちた人を救う)などのように、抽象観念もこの「超越的なもの」に属している。要するにそこには、自分を形成しているアイデンティティのあらゆる要素が含まれているのだ。だから、どういう状況下でどういう観念要素に殉ずることを意味しているのかが語られないかぎり、それはいつも現実性を欠いた抽象的な意志表現で終わってしまう。ある特定の観念要素に殉ずる態度だけを抽出して、その「崇高さ」や「美しさ」を称えていると、その態度を貫くことによって他の実在や観念を犠牲にせざるを得ない事実が忘れられるのである。
 たとえばずいぶん昔の話になるが、ある青年が、停戦間もないカンボジアの平和維持活動にボランティアとして参加し、ゲリラ兵に撃たれて死亡したことがあった。戦闘がくすぶっている地域での平和の確立という目的のために命を失ったのである。この時彼の父親が現地に赴き、息子の遺体を祖国に持ち帰らずに荼毘に付したのだが、父親は、その煙が立ち昇っていくのを見るうち、「息子はどこか浄化された崇高なところに昇っていったのだ」という深い感慨を漏らした。
 この感慨そのものは、子を失った親のやり切れない思いを、自ら鎮魂しようとする心情としてよく理解できる。そういう心境に達したことにウソ偽りはあるまい。しかし、事件の国際的な意味の大きさも手伝ってか、全国紙の多くが、これを「父親の美談」として盛んに書きたてた。折から戦後的父親の父性の欠如などが一部で嘆かれていた時期である。そのためこのお父さんは、父性の模範として一挙に有名人になってしまった。大多数の人々が、この父子の生き様を絶賛した。
 私は当時、この事件について依頼原稿を書いたのでよく覚えているのだが、はじめからマスコミのこの扱い方にはどこか胡散臭いものを感じていた。そのときの気持ちをここに再現する。
 第一に、こういう美談が表通りをまかり通ると、愛する息子を返してほしいという親の切なる自然の感情が抑圧される。何かそういうことを言ってはいけないような雰囲気が醸成されるのである。当時、このことをはっきり指摘したのは、私の知る限り、評論家の中野翠氏だけである。
 第二に、この息子さんは丸腰で危険地域に踏み込んでいた。彼は本来遭遇すべきでない理不尽な災難に遭ったのであって、特定の直接的な平和行動の結果として死んだわけではない。もし直接的な平和行動の結果として死んだのなら、世界平和のために身を犠牲にしたという大義名分は、より成立しやすいだろう。したがってその場合には、父親の深い感慨を「美談」として称える周囲の態度は、それなりに正当な根拠を持つことになろう。
 だが事実はそうではなかった。彼が命を落とした地域がかなりの危険地域であることはわかりきっていた。日本政府も百も承知であったはずである。するとここには、単に息子さんの行動目的が崇高であるから父親がその死を昇華されたものとして受け入れ、周囲がその父子関係のあり方に感動して賞賛するという物語によってはけっして完結しえない、もっと重要な問題がそっくりそのまま残されることになる。
 その問題とは、国家共同体がなぜそのメンバーの命を守ることができなかったのかという問題である。言い換えると、公共的な人倫のいかんを問う意識がこの一連の流れには抜け落ちているではないかということである。この人倫のあるべき姿は、単に心情論理によって完結しうるものではなく、現実的な法制度やその実効性ある運用を必然的に要求する。つまり、共同体がそのメンバーを守れないのは、国家としての制度が不備であるからなのである。公共性にかかわる倫理学は、こうして法や社会制度に直接接触し、しかもそれらの精神を包含できるのでなければならない。
 より具体的に言おう。
 国民の生命を守るのは、国家の最大の役割である。国防の意義はそこにこそあるのに、当時の自衛隊はPKO活動に縛りをかけられていて、危険地域で平和維持活動をする民間人を十分護衛することができなかった(いまでも十分にできない)。それは単に機械的な制度の不備を意味するのではなく、国家の人倫精神が欠落していることを意味する。私はこの不当な事態に対して、だれもがまず怒るべきではないかと思った。
 ちなみに言えば、この欠落は、何も戦後平和主義のイデオロギーにその究極の根拠を求めれば片づくわけではなく、戦前・戦中においても、日本人の国民性がはらむ問題点として指摘されるべきなのである。ところが、当時、戦後イデオロギーを批判し続けてきたはずの保守系の新聞でさえ(むしろ保守系が率先して)、自ら巻き起こした美談の大風に煽られて、まったくこの点を指摘しようとしなかった。
 この一件は、要するに、「男らしさ」とか「凛とした父性」といった美意識の弥漫によって、現実の死の不当性が合理的に検証されずに隠蔽されてしまった例である。少し角度を広げれば、これは、特攻隊精神なるものを過度に美化することによってあの戦争の失敗を糊塗しようとする心情にも通ずる。
 誤解を避けるために断わっておくが、私は、実際に死を目前にした個々の特攻隊員たちが、若くして死ななければならない事態を受け入れるために苦しみ悩んだ末にたどり着いた澄みきった心情や、その遺族が味わった深い悲しみを斟酌しなくてもよいと言っているのでは全くない。それは畢竟、実存の問題、もっと言えば文学の問題であり、そういう問題としていくらでも追究し、どこまでも掘り下げる意味がある。
 だが、もしそれが単に澄みきった心情や深い悲しみへの共感にのみ終わり、若者や遺族をそのような実存の状態に追い込んだものは何かという問いを忘れたり軽視したりするならば、それは国家という公共体が備えるべき人倫への問いを忘れることと同じなのである