小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源48

2014年10月03日 12時42分10秒 | 哲学
倫理の起源48



 さらに次のようなことが言える。
 個体生命尊重の倫理は、ただそれ自身のうちに本質的な限界があるのみではなく、他の人倫関係、他の倫理との間に齟齬をきたすことが多いのである。それは、この倫理がまさに「個体生命」というだれにとっても共通な人間把握概念を核として打ち立てられているために最も抽象度が高いからである。それゆえ、個々の具体的な生(実存)が呼び起こす課題に克服の答えを提供することができない。
 このことは、これまで述べてきた人倫精神の四種の基本原理(性愛、友情、家族、職業)との関係をいろいろと思い浮かべてみれば、すぐに納得がいくだろう。
 たとえば幸いなことに先進国では最近あまりこういうことは言われなくなったが、妻が難産で苦しみ、死産の可能性があり、母体も危険であると指摘されたとする。医師は、母体を救いたいならば死産を覚悟すべきであり、逆に健康な赤ちゃんを得ようとすれば母体を犠牲にする確率が高いと言う。夫はどういう選択をすべきだろうか。
 どのような選択をしようが、それは当事者の心情にゆだねるほかはないので、そのこと自体は倫理学的にはさして問題ではない(私自身は妻の生命を第一にすべきだと思うが)。だがこういう場合に、個体生命尊重の倫理が無力さを露呈せざるを得ない(選択を指示できない)のは明瞭である。
 またたとえば、森鴎外の『高瀬舟』について考えてみよう。
 流刑に処された罪人を大阪へ送る高瀬舟に、ある時、弟殺しの罪を着た喜助という男が乗せられた。他の罪人と異なり、晴れやかな顔をしているので、付き添いの同心が訳を尋ねる。親を失った兄弟は仲よく助け合って暮らしていた。弟が病で働けなくなり、兄の喜助のためを思って自害をはかるが、死にきれずに苦しんでいる。喜助は医者を呼ぼうとするが、弟が死なせてくれと頼むので、思わず刺さった刀を抜いてやると、そこに婆さんがあらわれて殺害現場として目撃されてしまう。
 この話は現在、安楽死の是非問題として扱われているようだが、そういう社会倫理的な捉え方はこの話の文学性、言い換えれば、登場人物たちの特殊な「情」の展開に込められたものが読めていない。現代の安楽死は、医師の医療行為としての倫理性が問われるが、医師が安楽死を決行した場合には、たとえ法的な罪に問われなくとも、晴れやかな顔をするはずがないからだ。
 この作品には、互いを心から思いやる兄弟愛(一種の友情)が深く絡んでいる。喜助が晴れやかな顔をしているのは、罪の意識がないからではない。一種の近親殺行為であることは十分自覚されているのである。だから彼は、余計な申し開きをせずに縄にかかったにちがいない。喜助にとっては、弟が自分のことを思って自害をはかったことが明瞭なので、その心意に対する謝恩の気持ちのようなものが彼の心を浄化して、素直に刑に従わせているのである。罪の自覚はあるが、後悔の念はすでに洗い流されている。犠牲となった弟は、彼にとっていまは仏さまに似た位置にいる。弟の行為そのものを通して、彼は仏さまに出会ったのである。
 さてこういう場合に、個体生命尊重の倫理を押し出すことに何か意味があるだろうか。喜助のいる場所は一種の宗教的な境地であって、弟を救おうとすれば救えたはずだなどと言い立てることは、余計なお世話なのである。

 個体生命倫理の限界について以上のように考えてきて、やはりここでも、他の倫理との根本的な矛盾を指摘しておく必要を感じる。
 性愛倫理や友情倫理や家族倫理が、その対象を厳しく選択し、部外者を排除するものであることは、論を俟たないだろう。
 なるほどこれらが自らのなかに個体生命倫理を含んでいることは確かである。それは、すでに述べたように、もともと個体生命倫理というものがだれにでも当てはまる最も抽象性の高いレベルにあるからである。たとえて言えば、イワシもアジもサバもサンマも「魚」というより抽象的な概念に包まれ、それぞれの種は「魚」という共通の特性を併せ持つようなものである。
 しかし、イワシは魚であることをやめることはないが、人事社会にかかわるものごとはそう簡単ではない。性愛や友情において、その特定の相手の生命を大切に思うことは、同時に自分にとってどうでもよい他人の生命を軽んじることにつながりうるし、むしろその心情倫理の実現を通して、特定の他人の人格や生命を傷つけることさえある。家族の一員を守るために、誰かを殺さなくてはならない場合もある。
 そればかりではない。職業倫理も、この個体生命倫理と矛盾することがある。職種によっては他者の生命を犠牲にすることを使命とするからである。もっとも典型的な例は、命令に従順で有能な兵士。さらに、忠実に法に従って死刑を宣告する裁判官、死刑執行人、やや間接的だが、武器や兵器の熱心な研究者・製造者・販売人など。
 ノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルは、兄の死の際に自分の死と間違われて報道され、その際自分が爆薬の発明者として新聞で「死の商人」呼ばわりされたことを気にして、ノーベル賞の一部門に平和賞を設置することを決めたと言われている。もしそうだとすれば、彼はこの賞の創設に、個体生命倫理からくる贖罪意識を込めたのだろう。
 また個体生命倫理は、公共性の倫理とも矛盾することが多い。もし公共体としての国家が、外敵から己れを守るために個人の命を捨てることを要求する場合には、進んでそれに従わなければならない。たとえば、共和国の思想を練り上げたジャン・ジャック・ルソーの祖国スイスの憲法には、はっきりとそういう意味のことが書かれている。
 そうして、こういう事態はどの国でも戦争時には起こりうることであって、しかも祖国のために命を犠牲にした者は、称えられたり祀られたりするものである。共同体全体によるこの称賛や鎮魂の営みには、残された生者によってはけっして矛盾か解決できないことへの遺恨の念と死者に申し訳なかったという思いとが忍び込んでいるだろう。

 こうした根本的な矛盾に、何とか倫理学的な言葉を与えようとすれば、次のように考えるほかはない。
 すなわち、個体生命倫理には、それを受容できる条件あるいは制約というものがおのずからあって、この条件あるいは制約から独立に、それ自体として存立させることはできない。またそうすべきではない。その条件あるいは制約とは――

この倫理が必ず何よりも優先するというのではなく、いつも特定の具体的状況との絡みでその優先性が問われなくてはならない。「ひとりの命は地球よりも重い」はしょせん言葉であって、犠牲やむなしとして決断と行動に踏み切らなくてはならないこともある。
 刑法で違法性を阻却される正当防衛や緊急避難による殺人はこの最もわかりやすい例である。また国家の行動としての戦争は、それが正しいか間違っているか、賢い判断であるか愚かな判断であるかにかかわりなく、犠牲者を生む。世界平和は人類の願いだが、願いの実現を待つわけにもいかないのが世の習いであれば、私たちはこの犠牲の発生を覚悟しておかなくてはならない。

この倫理は、常に当事者(命を奪われるかもしれない者)にとってのありうべき未来との関係において考えられなくてはならない。この関係では、当事者が今後生きていても、他者を害さないかどうか、また当人が充実した生を送りうる可能性がいかほどのものかという判断が必ず関与してくる。
 たとえば矯正の見込みがないと考えられた凶悪犯罪者への死刑執行、脳死状態の患者からの臓器摘出、末期患者の延命措置中止などは、この判断がネガティヴにはたらいた例である。これらの殺人行為は、たとえ本人の事前の同意があった場合でも、他者からの強制性が大なり小なり作用することを避けられない。また、子どもや若者、女性の生命を優先させる例などは、同じ判断がポジティヴにはたらいた例である。

 
それぞれの個人が互いに他者の生命を尊重しうる範囲と限界がおのずから存在する。どんな有力者も、「他者」一般の生命をおしなべて尊重することはできないという事実を認識しなくてはならない。
「他者」という概念は、自己とか個人とかいった概念の対立項として便利に用いられるが、実際の生においては、その中にいくつかの次元の違いがあるということを常に見つめながら用いる必要がある。この次元の違いは大ざっぱに言って三つある。すなわち一つは、夫婦親子兄弟、親戚、友人、恋人、頻繁に出会う知人、隣人などの「身近な他者」であり、もう一つは、行路で出会って別れてしまう「見知らぬ他者」であり、最後に法的な人格というレベルで取り上げられる「一般的な他者」である。
 人は日常的人倫において、はっきりとは語られないこの次元の違いを理解し、その理解に応じてそこに軽重の差別を施しつつ道徳的な行動をとっているのである。先に引いたヒュームの言葉も、この避けがたい事実を指摘したものと考えられる。

  
人はそれぞれの生を歩み、いずれははかなく別離してゆく存在であるという人間の深い自覚が、この倫理に影響を与えている。個体生命倫理そのものはなるべく貫かれるべきであるし、個々の個体生命の限界を超えて維持されるべきであるが、しかし絶対的ではない。いずれ誰もが死ぬということは、すべての人がよく知っているので、だからこそ、①~③で述べたように、この倫理をただ何よりも優先されるべきものとして前面に押し出せば済むのではなく、あるケースによっては死んでも仕方がないという諦念をいつも傍らに引き寄せておく必要がある。そのことによって、かえってこの倫理にそのつど具体的で適切な位置を与えることができるのである