小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源14

2013年11月18日 20時19分30秒 | 哲学

倫理の起源14




次に『パイドン』を調べてみよう。

 周知のように、『パイドン』は、青年の心を惑わしたとして死刑の判決を受けたソクラテスが、死の間際に彼の死を惜しんで集まった友人や弟子たちの前で、自分が死んでいくことは少しも哀しいことではなく、むしろ魂が汚れた肉の世界を離れて永遠のふるさとに帰っていくことなのだから、喜ぶべきことなのだという説をねばり強く展開した作品である。
 一編の主題は、ひとことで言えば「魂の不死と不滅」の証明にあると言えるが、この作品では、前二作に比べて、現世に対するイデア世界の優越性がさらに強調されている。この優越性を強調することは、ソクラテス(プラトン)にとって、単に認識論的な問題として「魂の不死」や「イデア世界の実在」が真実であるからという理由だけではなく、倫理学的に重要な意味をもっていた。
 というのは、作品の終わり近くになって(57節以下)、ソクラテスは、魂が不死・不滅であればこそ、われわれはこの世にある間に魂に対する真剣な配慮をないがしろにしてはいけないという道徳的な教説を、しきりに展開するにいたるからである。
 それは、感覚で把握できるかぎりの世界をはるかに超えた大地全体のモデルを示すことによってなされる。つまり、魂が可視的な世界から不可視の世界にまでずっとその歩みを続ければこそ、死後の歩みが生前の行状によって善くも悪くもいかようにも変わりうるゆえに、生きている間に身を清く正しく保っておかなくてはならないというわけである。
 これは、世界の多くの宗教に共通した因果応報説的な論理だが、ソクラテス(プラトン)は、宗教家としてではなく、まさに哲学者として、人が道徳的に生きるべき根拠を、「魂の不死と不滅」という事実から引きだしてこなくてはならなかった。言い換えると、この問題を論理的に証明してみせることが、彼(ら)にとって必須の課題だったのである。『パイドン』におけるプラトンは、肉体の快楽や欲望の追求に明け暮れる「醜い」人間界に、もしかろうじて倫理性が成り立つとすれば、その成立の可能性は、一にかかってイデア世界の厳たる存在と、その世界をわれわれが味わいうる条件としての「魂の不死・不滅」にこそあると考えたにちがいない。
 作品をソクラテスの論説という面のみに限ってていねいに追いかけてみると、全体を便宜上次のように五つに区分するのが適切に思われる。

①4節から13節まで。
 ここでは、哲学者はなぜ死を怖れないのかが論じられる。
 哲学者は、ただひたすら死ぬこと、死をまっとうすることを目指しており、それは、魂を肉体の結びつきからできるだけ解放しようとするからである。肉体的なものに煩わされていれば、われわれは真実に触れることができない。ただ純粋な思惟のみによってこそ真実在に触れることができるのだが、生きているうちにはそれは不可能である。
 死によって魂は肉体を離れ、純粋に魂だけになり、生きているうちにできなかったことが可能となるのだから、それこそは哲学者の望むところである。生きているときにできるだけ死に近くあるようにつとめてきた者が、いざその死が訪れたとき怖れたり嘆いたりしては、滑稽ではないか。死に臨んで嘆く者を見たら、それはその男が知を愛する者ではなくて肉体や金銭や名誉を愛する者であることの証拠ではないか。

②14節から34節まで
 ここでは、「魂の不死」の証明が三つなされる。
〔証明1〕およそあらゆる相反する性質を持つものは、一方から他方が生ずるというようにできている。小さいものが大きくなる、あるものが悪くなるのは善いものからである等。
 ところが生の反対は死である。ゆえに死んでいるものから生きているものが生ずるのであり、生きているものから死んでいるものが生ずるのである。
 しかもこれは循環をなしている。なぜなら、いったん死ぬと死者はその状態にとどまってふたたび生き返らないのだとすると、すべてはやがて死に絶えて、生きているものは何一つなくなってしまうから。したがって魂は不死である。
〔証明2〕学んで新しい知識を得るということが可能なのは、じつは想起による。ところである知識を想起するには、それをいつか以前に知っていたのでなければならない。われわれが学ぶということは、もともと自分のものであった知識を再把握することである。 たとえば、互いに等しく見える事物と等しさそのものとは同じではない。等しい事物を初めて見たときに、等しさそのものよりは劣っていると考えるとすれば、あらかじめ等しさそのもの(という規準)を知っていなければならない。このことは、美そのもの、善そのもの、正義そのものなどについても同様である。だからわれわれはこれらすべてについての知識を生まれる前に得てしまっていたのでなければならない。
 ゆえに魂は、肉体に宿る以前に、知力を持って存在していたのである。真、善、美など、これらのイデアが存在することと、魂がわれわれの生まれる前にも存在したこととは同じ必然性をもっていて、前者が否定されれば後者も否定されるのである。
〔証明3〕同一で変化しないものは非合成物であり、変化するものは合成物である。真実在は前者に当たり、それにあずかるさまざまな事物(たとえば美しい花)は後者に当たる。また、真実在は不可視であり、さまざまな事物は可視的である。前者の単一で不変で不可視なものは、思惟によってしかとらえられず、後者の合成され、移ろいやすく可視的なものは知覚によってとらえられる。
 ところで魂は、肉体に比べて、それ自身不可視的であり、肉体から離れて自分だけで何かを考察する場合には、純粋で永遠で不死で不変な存在(真実在)へと赴き、常にそれと共にあろうとする。また魂は、肉体に比べてより神的でもある。魂は、神的で、不死で、英知的で、単一の形をもち、分解することなく、常に不変で、自己同一的であるものに最もよく似ている。肉体はこれと反対である。ゆえに魂は不死である。
 この三つの証明のあと、肉体が魂にとっていかに重荷であるか、また哲学だけがこの肉体という牢獄の巧妙さを知っており、哲学者の魂は、快楽や恐怖や欲望を強く感じるとき、その結果としてうけとる悪こそは最大の悪であると考えるなどのことが述べられ、肉体からの魂の解放こそが哲学者の仕事であることが強調される。

③35節から43節まで
 ここでは、聞き手のシミアスが呈した疑問にソクラテスが答える。
 シミアスの疑問は、「魂は一種の調和であるといわれているが、もしそうなら、その調和を作り出している諸部分が狂いを示したら、魂は不調和となり死んでしまうのではないか。しかも調和を作り出しているのは、楽器などの物質的なものである。すると、物質的なもの(肉体)のほうが魂よりも長生きするということにならないだろうか」というものである。
 これに対してソクラテスは、「魂=調和」説そのものが誤りであることを説く。いわく、すでに魂が肉体よりも先に存在していたことをわれわれは認めたのだから、魂は肉体の構成要素からなる一種の調和などではない。またある魂は知性と徳とをもち、善き魂と呼ばれ、別の魂は愚かさと不徳とをもち、悪しき魂と呼ばれることがあり得るが、こうした魂のさまざまなあり方を考慮に入れた上でなお、魂が調和であるという説を支持しようとすれば、調和が自分の中に不調和を分けもつというおかしな結論に導かれてしまう。

④44節から56節まで
 ここでは、聞き手のケベスが呈した疑問にソクラテスが答える。
 ケベスの疑問は、「あるひとつの肉体から魂が離れるとき、その魂がいくら一時的に不死で長生きであったとしても、多くの肉体に宿るうちに、ついには疲れ果てて力を使い果たし、最後の肉体が死ぬとき滅んでしまうということはありうるのではないか。そうすると、自分の魂がこのたびの肉体からの分離において完全に滅びてしまいはしないかと、常に怖れなければならないのではないか」というものである。
 これに対してソクラテスは、その問いに答えることは容易ではないとした上で、長考思案の後、まず自分の研究履歴を語る。
 自分は若いころ、いまでいう自然科学的な探求に熱中したが、その研究は、事物の合成や分解や変化の原因についての説明の点で彼を納得させなかった。たとえば1と1とが近づけば2になるというとき、両者が近づくことがその原因だとされるが、他方では1を分割することによっても2が生じるので、今度は分割が原因だとされる。
 こういう説明に満足しなかったソクラテスは、万物の原因は知性であると唱えているアナクサゴラスの説を学んでみたが、それにも失望した。アナクサゴラスは、ある事象の原因を、その事象を事象たらしめているさまざまな可視的契機と取り違えていて、事物を秩序づける原因を、空気とかアイテールとか水などのくだらないものを原因としていたからである。
 そこでソクラテスは、事物の真相を知るために新しいやり方を考えた。それは、純粋な美そのもの、善そのもの、大そのものなどが確実に存在するというロゴスを前提として、その前提と一致するものを真とするというやり方である。要するにイデアの存在から出発して物事がかくある根拠や原因を説明するという方法である。これを認めてくれるなら、魂の不滅を証明することができると彼は言い、ケベスがこれに同意する。
 ちなみに、この箇所(前の三つのパラグラフ)は、プラトンの根本的発想を知る上できわめて重要である。そればかりではなく、哲学というものが本来何を探求する学であるのかという点について、ソクラテス(プラトン)が、それまでの考え方に対するラディカルな「視線変更」を断行しているという意味でも見逃してはならない急所なのである。しかしこれについては、後に述べる。
 ともあれ、以上の前提を納得してもらった上で、ソクラテスは数を比喩に用いて、それを「魂の不滅」の証明に援用する。
〔証明4〕たとえば3は「奇数そのもの」ではないのに、奇数という性質を持つが、それと反対の性質である偶数をけっして寄せ付けない。しかし3と2とは別に反対ではない。このように、相反する性質どうし(奇数そのものと偶数そのもの)が互いに相手を受け入れないだけでなく、相反する性質を持つ特定の事物(3)も、たとえ自分と反対ではなくとも、それが自分と反対の性質をもっているような事物(2)であれば、それをけっして受け入れない。
 さて、「魂」は、肉体に生命をもたらすという性質を持つが、生命と反対の性質を持つものは「死」である。このようにして、ちょうど「3」が「2」を、自分と反対の性質を持つものであるがゆえに受け入れないのと同様に、「魂」は「死」(という性質)をけっして受け入れないのである。ゆえに魂は不死であるばかりでなく、不滅でもある。
 なおこの証明の途中で、聞き手のだれかから、〔証明1〕では、小さいものから大きいものが生ずるように、一般に相反するものにとって、それぞれが自分と反対のものから生ずるといわれていたが、いまの説明はこれと矛盾するのではないかという異議が出される。これに対してソクラテスは、あの時は反対の性質を持った「事物」について語っていたのだが、いまはこの反対の「性質そのもの」について語っているのだと弁明する。何となく屁理屈めいた弁明に聞こえるが、プラトンのイデア原理からすれば、ここでの弁明は妥当である。

⑤57節から63節まで
 ここでは、ソクラテスは、先に触れたように、われわれにとって可視的な世界を超えた、大地全体のイメージを神話的に繰り広げてみせる。そして死後、魂は、生前の行状に応じて、いろいろなところに送り込まれ、苦を味わったり幸福になったりすることが説かれる。委細は省略するが、これは世界のどこにも見当たるような、一種の因果応報説である。ソクラテスが若い弟子たちに対して垂れる最後の訓辞は以下の通りである。

 で、こういうわけだから、その生涯において肉体にかかわるもろもろの快楽や飾りを、自分とは異質的なもの、むしろ害をなすものとして、それらから離れ、学ぶことの喜びに熱中し、魂を異質的なものによって飾りたてたりせず、魂自身の輝きで、つまり、節制、正義、勇気、自由、真実などで飾り、そうして運命の呼び声に答えてハデスへ旅立つ日を待つ人は、自分自身の魂について、心を安んじてしかるべきだ。

 以上見てきたように、『パイドン』におけるプラトンの筆致は、死の問題を扱うに至って、現世否定的な色合いを濃厚に示す。
 まず①において、哲学者だけが特権者として聖別され、他の現世的な欲望に追われてこの世に未練を残す者たちは、はっきりと、人間として低い存在であると規定される。哲学者(知を愛する者)と称する存在が、ふつうの人々とちがって、死を怖れ悲しまないのは、ふだんからふつうの人々よりも死に近いところにおり、死に親しみ、そして死とは何であるかについて絶えず思いをめぐらせているからというのである。これは、死が何であるかを考えようとしない人々よりも、死について考えているぶんだけ、哲学者のほうが偉いと言っているのと同じである。
 この種の自己権威づけは、たとえば日本の仏教などにも見られる現象であるが、仏教の場合は、寂滅涅槃の境地を最上とするので、そこに到達できるものならばだれでも仏になれることになっている。厭離穢土を唱える点では、ソクラテスと共通しているけれども、哲学者・僧侶(いまで言えば知識人)という存在の特権性を、これほど露骨に強調するわけではない。念仏さえ唱えればどんな凡夫でも阿弥陀様に迎えられて浄土にいけるという思想さえある。
 また仏教は、本来、魂の不滅を積極的に主張することはなく、死後、魂が寂滅せずにこの世の境界をさまようことは、むしろ好ましくないことと考える。生死の繰り返し、輪廻転生は、この世から容易に解脱できない魂の迷いをあらわしているのである。
 これに対して『パイドン』におけるプラトンの「哲学者こそ死を歓迎する」という思想は、二つの点で、仏教などとはちがった、非常に強い野心と情熱によって裏付けられている。
 ひとつは、この世では、金儲けや色欲や名誉欲に執着する人間に比べて、知識を求める存在だけが立派なのだという価値観を貫くことである。このことによって、生来の哲学者的種族は、自己価値を認められて救いを得ることになる。
 そしてもう一つは、ふつうの人々は、感覚によってたしかめられる世界を実在と信じているが、それはまったくの誤りで、純粋な思惟によって把握できる世界だけが真の実在世界なのだという信念を押し通すことである。
 前者が道徳的価値観の一例(ハイデガーと同じように誤った一例だが)であることは見やすい道理だが、じつは、すでに述べたように、またのちにもっと詳しく説くように、後者の信念も、ふつう哲学というものがそうであると思われているごとく単なるニュートラルな世界認識の是非を扱っているのではなく、いかにもプラトンらしい倫理学的関心と深く結びついているのである。そしてそのように、哲学の意匠をまといつつ道徳を語るという形式にこそ、プラトンの「思想の詐欺師」たる面目が躍如としているのだ。
 彼のこの野心と情熱は、②以下の、魂の不死と不滅を論理的に「証明」するという方法に顕著にあらわれている。魂の不死と不滅が、哲学的・論理的に証明されれば、道徳の根拠は、まさしくプラトニズム的に基礎づけられることになる。なぜなら、魂がもしほんとうに不死であり不滅であるなら、人はどうせ死んでしまうのだから現世で何をやろうと自由だという考えは通用しなくなるからである。
 さて問題はその「証明」である。私の考えでは、この四つの証明のうち、どれひとつとして論理的証明の名に値するものはない。一つ一つ吟味してみよう。

 まず〔証明1〕では、あらゆる相反する性質を持ったものは、小さいものから大きいものが生じ、眠っている状態から覚醒が生じ、そして逆も真というように、一方から他方が生ずるという具合になっている。よって生から死が生ずるように、死から生が生ずるのであると説かれていた。これは、あとでソクラテス自身がことわっているように、反対の性質を持った「事物」について語られている。
 とすれば、この場合、何か特定の「事物」の存在がまず前提として疑いなく認められていて、その上でその「事物」の状態の変化を語っていることになる。たとえば小さかった子どもが大きな大人になる、というように。そしてむろんここでは、その「事物」そのものの自己同一性自体は疑われていない。小さかった健ちゃんも、大きくなった健さんも、同じ健である。
では、生と死の場合はどうであろうか。生から死が生じ、死から生が生ずると言い切るためには、特定の魂という「事物」が、まず肉体が生きているか死んでいるかの区別とは無関係に存在し、しかるのちその魂の状態が、互いに反対のものに移行するということが認められなくてはならない。言い換えると、魂がまずあって、それが肉体に宿ったり離れたりするという相反する状態変化を経験するのでなくてはならない。
 ところが、まさに魂という「事物」が、肉体の生死という状態とは無縁に存在するかどうかということこそ、ここで証明しなくてはならないことのはずであった。したがって、死から生が生ずるかどうか、つまり魂が生まれる前から存在していたかどうかは、証明不可能なのである。ソクラテスは論点先取の誤謬を犯していると言える。
 次に〔証明2〕では、知らなかったはずの知識が教えや気づきによって得られるのは、もともと持っていた知識がそのとき「想起」されるからにほかならず、この事実は、魂が生まれる前から知力をもって存在していたことの証拠となると説かれていた。
 ところが、この名高い「想起説」そのものが、一種の仮説である。ソクラテスは、知識が獲得されることの不思議さについて永年思索を重ねてきた後にこの仮説にたどりついたのだが、これは、イデア論者におあつらえむきの仮説だと言える。そのことをソクラテス(プラトン)はじつのところよく知っていて、この「証明」の箇所では、次のように述べている。

 ぼくたちがいつも話している美とか善とか、すべてそのような真実在が存在するならば、(中略)それらの真実在が存在すると同じように必然的に、われわれの魂も、われわれが生まれる前に存在していたことになる。しかし、もしそれらの真実在が存在しないならば、いまの議論はまったくなりたたないことになるだろう。(中略)そして、これらの真実在が存在するということと、われわれの魂がわれわれの生まれるまえにも存在したということとは、同じ必然性をもっていて、前者が否定されれば後者も否定されるのではないか。

 この記述から察しられるのは、「イデア=真実在」という超経験的な観念が、一種のあらまほしき「理念」あるいは「ゾレン」であって、ソクラテスみずからも、この世の人間のひとりであるかぎり、どれほど純粋な思惟のうちに沈潜したとしても、それの存在を明瞭にはたしかめられ得ないひとつの作業仮設であるということだ。
 問題とすべきは、ではなぜソクラテス(プラトン)がこうした理念(仮設)を立てたのか、その動機は何かということなのだが、それは簡単にいえば、魂は不死なのだから、生きているうちに魂をよく世話することを怠ってはいけないという、すぐれて倫理的な動機なのである。しかしこれについては、のちにもっと詳しく論じる機会があろう。
 ちなみに言っておくと、ここでのソクラテスの困惑にみちた自己暴露は、カントが純粋理性の二律背反を説き、神の存在や世界の始まりなどは純粋理性によっては証明することができず、それらは実践理性の要請として認められなくてはならないとして、純粋理性(認識能力)に対する実践理性(道徳への配慮)の優位を説いたのと、同じ思考の範型であると考えられる。だがこれも、カントについて触れるときにもう一度問題にすることにしよう。
 とまれ、ソクラテス自身も自己暴露しているように、「魂の不死」説と「イデア」説とは、互いが互いを支える形になっていて、いっぽうが崩れれば、他方も根拠を失うのである。したがって、想起説を媒介としたこの「証明」も、論理的には証明ではないことになる。
 なお、想起説そのものについてであるが、経験を超えた世界の存在を信じることができれば、想起説はたしかに魅力的なものとなる。しかし超経験的世界を想定しなければ、知識の獲得・発見は根拠づけられないだろうか。
 この想起説を人々に納得させる方法として、ソクラテスが年端のいかない子どもに、ある正方形の2倍の面積を持った正方形を書き示すにはどうしたらよいかという問題を出し、その子がちょっとしたヒントで見事に解いてみせたというエピソードが有名である(答は、対角線を一辺とする正方形を書けばよい)。
 しかし、この例でも言えることだが、その子のなかで未知から発見に至る過程で確認できるのは、人間の知識世界では、言語や図形という物質的なもの(記号)の連鎖によって伝達がなされており、その連鎖を構成している基本要素をその子がすでに経験によって学習し終えているという前提である。それまで持っていなかった知識が根づくのは、人間の経験世界の中で用いられている言語その他の力を彼が徐々に習得し、そのことによって、人間世界で真理とされていることに同化しうる能力が芽生えるからである。基礎的な記号理解がなければ「発見」はありえない。「神的なひらめき」など本当はないのである。つまりここで起きていることは、言語の獲得と生活経験の累積との照合可能な対応関係の成立である。したがって、想起説を持ち出さなくても、経験論的に知識の獲得は説明可能である。



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