考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

「法と教育は、実は相容れない」(タイトル変更、しかも追「々」記有り)

2008年03月05日 | 教育
と、法学部出身の先生が言っていた。

 よくわかる。

 法の仕事は「線引き」である。線引きが目的である、ということである。グレイゾーンが存在しようと、とにかく、状況を鑑み「線を引く」。法が司法であるとは、有罪無罪でもなんでもを決定する「裁判」に帰結するということだ。

 しかるに教育は、常にグレーゾーンが存在する、簡単に線を引かない世界である。目的が線引きではない。これが重要なのである。メンバーの成長を図る。目的は、ただそれだけである。大事なのは、いかなる方策を取ろうと、成長を企図するものでなければならないということだ。

 だから、生徒が「校則違反してるわけでないのに、なんで叱られなければならないのだ」と言い出してその主張が通ったり、先生が「きっちりと指導したいから、誰の目にもはっきりする基準を設けてくれ。スカート丈は、何センチと決めた方が、だれにも公平で指導がしやすい」と言い始めたら、その学校は、教育機関でなくなってしまう。
 校則にしろ、スカート丈にしろ、「線引き」に判断をゆだねているからだ。だから、学校が教育機関としてあるために、学校によっては、生徒の判断に任せるために、わざと校則を細かく決めないところもある。生徒や保護者それぞれの「学校だから、これはちょっとまずいんじゃない」などの判断に秩序を委ね、「一律どうの」という指導をわざとしないでいる。自分で考えること、「良識を育てるための指導」なのだ。スカート丈にしても、「絶対に先生から注意を受けないスカート丈」が存在する。先生から五月蝿く言われたくなかったら、その丈にしていればいいだけの話である。短くなったら、ヘムの分を出せばいい。卒業生に譲って貰うという手もある。(良識ある生徒はそのようにする。)

 法律も校則も、その共同体の成員が「最低限に守るべき事項」を明文化したものである。だから、「法律(校則)にさえ触れなければいいさ。(このスカート丈ならギリギリで通るはずだ。通らなかったら、通さない先生が悪い。)」「抜け穴を探せ。(先生、教室の掃除をしろとは言ったから掃いたけど、ゴミ捨てまでしろと言わなかったじゃないか。だから、捨ててないよ。)」などということを全てのメンバーが言い出したら、その社会は共同体としての機能を失う。

 共同体の維持は、明文化されない「不文律」が「常識」や「モラル」として遵守されているからできるのだ。判断基準の全てを法律や校則による共同体は、相当に住み心地の悪い社会になるだろう。なぜなら、構成員には、常識もモラルもないということを意味するからだ。それで、人間が共同体のメンバーとして生きる上での常識やモラルの育成の役割を担っているのが公教育であったり、家庭教育だったり、地域社会だったりする。
 もっとも、「常識」や「モラル」は時代によって変わる。常に「正しい」とは限らない。なぜなら、大抵の「常識」は「多数決」だし、「モラル」は、社会全体の許容度と関わるからだ。「モラルが崩れる」というのは、社会の許容度が高くなってきたと言うことで、現代社会がさまにその状況なのであろう。それでも、「共同体」無しで生きることができない社会的動物である人間が、「選ばれた少数派」だけでなく、かなりの人間がそれなりに心地よく生きていこうとするには、集団と個の対立を孕みながらも、「共同体としてのルール足るモラルの育成」は必要不可欠であろう。

 「それを学校でやっても良いことかどうかの判断」は容易い。「それ」を全てのメンバーが行ったときでも学校が機能するかどうか、である。「社会」もそうである。「私」と同じことを全員がやったときに、気分が良いかどうか。(内田先生が「ひとりでは生きられないのも芸のうち」のどこかに書いていたのがまさにそうだ。)
 私が議論したいのは、芸術の選択教科で、音楽か美術かというレベルの話ではない。例えば、予習を前提とする授業であっても、生徒の中には、「オレだけだったら先生の言ったとおりの予習をしなくても良いだろ」ということが多い。大抵は、指名されても答えられない。このような生徒が5人10人いると、授業は進まない。一人二人なら、さほどでもないが、じゃあ、「なぜ、「オレ」だけがしなくて許されるのか」ということである。オレが予習をしなくても授業が成立するのは、他の予習をしてきている人たちのお陰なのである。この事実に気が付かない人はかなりいる。掃除をさぼりたがる生徒がいる。それでいて、綺麗な教室で生活するという利だけをむさぼる。これは、公平や平等から外れる考え方である。

 しかし、現実の「社会」では「外れる人」が必ず出てくる。時に能力的に、時に体力的に、どうしても外れてしまうことがある。今はそうでなくても、誰しもがそうなる可能性がある。
 しかるに最初から「外れること」を是認していたら、人間には、生まれたときに既に社会生活が営める能力が備わっているわけではないのだから、この育成を図らなければ「外れる人」の割合がもの凄く増えてしまうのは間違いないことである。ヒトは、もともと、個性、個性と連呼しなくても、したいことやしたくないことは個体によって大きく異なるものである。乳幼児を見ればすぐわかる。だからこそ、ヒトは「外れない能力」を幼いときから時間を掛けて少しずつ育んできた。それなりの年齢に達したときには共同体のメンバーとして迎えられるように、「なるべく居心地の良い社会」を構築できるメンバーになれるようにと育まれてきたのが「(マトモな)常識」や「モラル」だったのだ。
 
 ところが、常識もモラルも、「個人」にはそれなりの負担を強いるから、幼いときから忍耐強く鍛えなければ獲得できないという現実が厳然とある。これに対処するのが教育の果たす役割なのだ。なぜなら、なるべく高い能力を持つメンバーが多ければ、その共同体の居心地が良くなるからだ。これは知的能力、体力、あらゆる事柄に当てはまる。なぜなら、「高い能力を身に付けた者」は、その一部を「そうでない人」に分け与えることができる。だから、学校の仕事は「なるべく高い能力の育成」を目的とすることになる。「高い能力」とは、決してそれを持つ者だけが享受すべきものではないのである。(この点、「能力主義」「自己責任」という名のもと、大きな「勘違い」がまかり通っりはじめたように私には思われる。)

 私は、今、「なるべく」を連発して書いた。「なるべく」には限りがない。教育とは、「天井知らずの目標」を求めることなのである。「この程度できていたらいいだろう」という「標準値」の認識は各人によって異なる。しかるに、その集積が、民族、国家などの大きな共同体の規範意識や常識、モラルとなって、社会の居心地の良さを決定する。日本人の目で世界を見渡せば、標準値が高いようにみえる国家と低いとしかみえない国家があるだろう。別に、国そのものが標準値を決めているのではない。(そーゆーところもあるかも知れないけど大抵は低いところだろうね。)全ての判断は、結局は各人の意識に掛かっているのだ。だから、各人が、「この程度でいいさ」と思うのと、「ちょっともっと良い方が良いんじゃないの?」と思うのでは、社会の方向性が根底から変容するのである。だから、未来社会の成員を育てる教育に「線」は引けない。線を引いてはならないのである。これは、教育が法と相容れないということである。


78 コメント

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あはははは。。 (heisan)
2008-03-08 05:51:16
おはようございます。
以前ご紹介したapjさん(@山形大)のところからリンクされている,酔うぞさんのところで,私がほりさんの記事を参考にコメントをしたのですが,そうしたらapjさんのところで記事を書かれてしまったようです(いや,べつに悪いという意味ではありません(笑)。ただ,私の察する限りでは,apjさんのところは「非常に」閲覧者が多いような気がするので,なんとなく注意が必要かなと思った限りです。)。
ご参考いただければと思います。

apjさんの記事:http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=8204
酔うぞさんの記事:http://youzo.cocolog-nifty.com/data/2008/03/post_113f.html
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あ、どうも (ほり(管理人))
2008-03-08 14:06:00
heisanさん、コメントをありがとうございます。

ウチの方にまでいらっしゃった方は少ないですよ。
アクセスip数も、全然かわんないし。いつも(?)より、若干少ないくらい。pv数は、ちょっと多かったけど。

う~ん。。。apjさんのところのコメントを拝見すると、法律と法学の違いがのべられてあったりして、社会科オンチの私には難しくてわかんないです。Specificな問題は、私、わかんないから。
でも、法律と法学は同じジャンルに属してて、学校⊂教育です。法学や法律と教育の関係は、「具体的な教育の一部分」として「法学や法律を教える」という分類の仕方(考え方)をするのがいいのではないのかな。

私が言いたかったのは、あくまでも「教育の根幹は何か」ということで、たぶん、法学の根幹にあるものと質的に全く異なるものだと思うんですよね。記事の中の先生も、ちょっと入りにくい法学部出たての先生だったんだけど、抽象的な話は分かるかな、って感じだった。(すぐに転勤になった。)
だから、私が言いたかったのは、apjさんのおっしゃる「法との付き合い方を教えてはどうか」という個別的な観点ではないんですよね。これは、かなり具体的。私のは理念的。

ちょっと今から記事を書きます。
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補足 (ほり(管理人))
2008-03-08 15:32:10
apjさんには、どうせなら、以下の部分の引用して貰いたかったな。

「メンバーの成長を図る。目的は、ただそれだけである。いかなる方策を取ろうと、成長を企図するものでなければならないということだ。」

「だからこそ、ヒトは「外れない能力」を幼いときから育んできた。それなりの年齢に達したときには共同体のメンバーとして迎えられるように、「なるべく居心地の良い社会」を構築できるメンバーになれるようにと育まれてきたのが「(マトモな)常識」や「モラル」だったのだ。」

ここから特に

「ところが、常識もモラルも、「個人」にはそれなりの負担を強いるから、忍耐強く鍛えなければ獲得できないという現実が厳然とある。これに対処するのが教育の果たす役割なのだ。なぜなら、なるべく高い能力を持つメンバーが多ければ、その共同体の居心地が良くなるからだ。これは知的能力、体力、あらゆる事柄に当てはまる。だから、学校の仕事は「なるべく高い能力の育成」を目的とすることになる。」

言いたかったのは、こういう部分だから。法律について言いたかったわけではないから。
でも、引用されていたのが、「教育」に関する部分でないのが、私としては何とも言い難い。
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Unknown (heisan)
2008-03-08 22:22:43
> ウチの方にまでいらっしゃった方は少ないですよ。

どうやら杞憂だったようですね。
最初見たときはびっくりしてしまったので,慌てて書いてしまいましたが(^^;


> apjさんには、どうせなら、以下の部分の引用して貰いたかったな。
> でも、引用されていたのが、「教育」に関する部分でないのが、私としては何とも言い難い。

まだ両方の内容を読み込めていないのでなんとも言えないのですが,少なくとも,引用して欲しい部分と実際に引用される部分が違うということが,そもそも(真意が)伝わってないのかな,と思います。
また時間のあるときに読んでみます。
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いろいろありますね (ほり(管理人))
2008-03-09 00:52:30
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>どうやら杞憂だったようですね。

でも、apjさんのUPが7日23時過ぎてたから、7日のアクセス数には出てこないのかも。でも、今日も、他にどなたからもコメント頂いてないから、まあ、そんなものでしょう。

>そもそも(真意が)伝わってないのかな,と思います。

「真意を伝える」って、難しいですね。ちょっとしたコトバの使い方次第で、意図と違うように解釈されることはよくあります。
書き手(私)は素人だし、大体、誰も誤読も何もしないなら、国語の試験は存在し得ません。(あ、これも、どこかに既に書いてるな。)高校の時、定期テストの現代国語で100点どころか、どんなに勉強をしても90点を超えたことがなかったからなぁ。必ず、1題はまるっきり見当はずれの間違いがあったから。ケアレスミスは当然あるし。(笑)できる子は95点取ってたからなぁ。。まあ、私の能力の限界ね。(苦笑)

それから、私の言いたいことって、かなり上位概念について述べることが多いから、日常でも、理解してもらえないことも多いです。

校則を通して「法律」などに関する学習をさせるというような個別的な科目的なspecificな学習については、(まあ、法の分野でなかったとしても)私は関心がないから。

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アクセス数 (ほり(管理人))
2008-03-09 01:09:32
どっと増えてました。(苦笑)
ip数とpv数の割合で言うと、けっこうコメント欄も読んで下さったって感じかな。

ウチに来る方って、大抵は、コメント欄も読んで下さってるみたいだけど。
一体どういう方が読んで下さってるのかなと、ときどき思います。
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違和感 (Brainwasher)
2008-03-10 13:07:27
初めまして。
apjさんのところから飛んできました。
初めに申し上げると、apjさんの意見に納得してからここにきたので、意識の方向付けがある程度なされている恐れがあります。

最終的な結論というか、向いてる方向にはあまり異論はありませんが、どうもほり様の文章を読んでいると違和感が残ります。
何故かがはっきりしないのですが、とりあえずコメントでははっきりと目につくところがあったので列挙してみます。

> う~ん。。。apjさんのところのコメントを拝見すると、法律と法学の違いがのべられてあったりして、社会科オンチの私には難しくてわかんないです。Specificな問題は、私、わかんないから。

「難しくてわかんないです」との言は、コメントの態度として不誠実ではないでしょうか。
理解を放棄するなら、コメントしなくてよいのではないかと考えます。
「Specificな」と度々出てきますが、Specificが日本語的に一般的になっているのなら申し訳ありませんが、不特定多数が目にする、読んでもらうための場ではなるべく平易な日本語を用いるべきではないでしょうか。
とりあえず、私は「Specific」が何を指しているか辞書で見た限り、意味を特定できませんでした。

> それから、私の言いたいことって、かなり上位概念について述べることが多いから、日常でも、理解してもらえないことも多いです。

上位概念について述べると、なぜ理解してもらえないのでしょうか。
今回の記事は上位概念について述べているために、理解してもらえなかったのでしょうか。
言葉遊びになってしまうかもしれませんが、概念が抽象的になればなるほど理解しにくくなっていくことは理解できます。
しかし、「だから理解してもらえない」ではやはり不誠実ではないでしょうか。
#理解する気の無い人間に対して無制限に誠実である必要は当然ありませんが。

コメントに対してではありませんがタイトル変更および追記された、とのことですが変更前と変更後が明示されていると、思考の変遷、重視している部分の明示になるのではないでしょうか。

かなり余計なお世話ですが、「誰の目にもはっきりする基準を儲けてくれ」では「設けてくれ」が正しいです。

酷く不躾なコメントになりましたが、どうにも違和感がとれなかったためコメントさせていただきました。
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ご意見ありがとうございます (ほり(管理人))
2008-03-10 22:51:20
Brainwasherさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

>最終的な結論というか、向いてる方向にはあまり異論はありませんが、

ご賛同をありがとうございます。

でも、違和感を抱かれたことについては、どのように申し上げたらよいのか逡巡します。

私のブログは公開の場ではありますが、基本的にここは、私の日頃の「愚痴」をなるべく論理的に書き連ねたり、自分の思考を深めたりする場です。
それで、タマタマ私の作文を読んで、何かを得たい方は得て頂ければ良いし、私も嬉しいなぁと喜んでいますが、必ずしも訪問者の皆さんがそのような方ばかりと思いません。それで構わないし、他にしようがないと思っています。
これがこのブログのスタンスです。

>理解を放棄するなら、コメントしなくてよいのではないかと考えます。

私は、「書いているうちに分かってくること」があると思っています。上記の私の言、「わかんない」についても、わかんないんだけど、でも、「わかんない」と表明することで、何か「分かること」が出てくることがあると思っています。
で、今回も、法律と法の違いについて自分なりに思うところが出てきて、タイトルの変更などに繋がったのだと思います。
人間の思考はどんどん変わりますから。

>「難しくてわかんないです」との言は、コメントの態度として不誠実ではないでしょうか。

>しかし、「だから理解してもらえない」ではやはり不誠実ではないでしょうか。

「不誠実」という表現でBrainwasherさんがおっしゃりたいことがよくわからないのですみません。

私の話は、よく思考が飛ぶし、舌足らずだったりすることがあります。面倒だなぁと思うと省略するし。(想像して下さい、ということになります。)

人間の理解の仕方はいろいろなので、「わかる(理解できる)こと」と「わからない(理解できない)こと」は厳然と存在します。しようがないです。そのうち分かってくるかもしれないし、分からないかも知れないし。
でも、だから、人生、生きる価値があるのだろうし。

Spesificは、余りでてこないかもしれませんが、まあ、私は英語の先生をしてるし、書いてて「これって、specificだな。私が言いたいのがちょうどこの言葉で表せるな」と思ったので、そのように表現しました。(言わば自分の勉強です。)
私は、自分のブログの読者を「不特定多数」と認識していません。また、たとえ読者が不特定多数であったとしても、読む人が知らないコトバがたまたまあったとして、それで何か問題があるのでしょうか。
私も他の方のブログや本などを読みますが、知らない言葉はたくさん出てきてます。でも、それって、当然だと思っています。時に、書いた人が間違って使っているときもあるでしょうし、単に自分が知らないだけのこともあるだろうし。だったら、次に出会ったときに「あ、これか」と思えばいいだけの話です。

Specificは、私もなかなか理解できませんでした。やっと(といっても、かなり昔だけど。)使えるようになったのかな。

>変更前と変更後が明示されていると、思考の変遷、重視している部分の明示になるのではないでしょうか。

gooの場合、変更をすると、前のがなくなってしまします。だから、もう、残っていません。

私は、しょっちゅう推敲をします。文章がどんどん変わっていくことがあります。
コメントをいただいたりする場合、コメントをいただいてから変更をするのは一時期少々気が引ける気もしていましたが、このブログは、ひとさまのために作っているのではなく、あくまで自分の思考を深めるためのものなので、一応「追記有り」と表示はしますが、思考が深まり、文章がより良くなれば良いと思って、手を入れることがあります。
その上で、お付き合い頂ければ幸甚です。

幸いなことに、私は読者に恵まれており、それで、これまで何も問題なく過ごしてきました。これからもこのスタンスで行きたいと思っています。

>酷く不躾なコメントになりましたが、どうにも違和感がとれなかったためコメントさせていただきました。

いえいえ、どうもありがとうございます。
たぶんapjさんのところから、他の方もお見えのようですので、これを機会にこのブログのスタンスをはっきりさせることができて、私も良かったです。

また、添削をどうもありがとうございました。(誤字脱字、たくさんあります。)早速直しておきます。

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Unknown (執事)
2008-03-12 05:56:41
軽くお久しぶりです。

「わからない」は良いか悪いかっていう、言葉狩りみたいなレベルで考えると噛み合いませんよ。

Brainwasherさんは、コメントで議論する時の作法について述べられているのだと思います(違ったらごめんなさいw)。その場合「分からない」は思考停止や逃げのワードになります。

ほりさんはご自分で書いておられるように、自分の考えを深めるために書いているのですよね。マクロの、組織・国家レベルでの話はしていない。

個人的には、一度首を突っ込んだなら(あるいは、巻き込まれたなら)責任を持つべきだと考えています。書いたことに対して「わからない(でもだからって私が間違っていることにはならないもんね)」って返されたら失望ですねー。

だから、分からなくても考えて書いて欲しいと思います。別にそうしなくても、それはそれで全然おっけーですけど。それはスタンスの問題。
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それはですね。。 (ほり(管理人))
2008-03-12 20:55:43
執事さん、コメントをありがとうございます。

「作法」といわれると、そうですね。

「不誠実」とは「無責任だ」という意味ですね。

私は何かを思いついたり分かったりするのに、時間がかかります。
それで、物事の理解のために、最初に必要になるのは、まず、「自分が何が分からないのかがわかる」という過程だと思っています。で、私の場合、「書いて表明することによって、あるいは、書いた後で、『自分が何がわからないか』、あるいは、『その解答への糸口や解答』をひょいっと思いつく」ということがしばしば起こります。(だから、記事もコメントも、「いろいろ考えた後で考えたことを文章にする」ことがない。「書く=思考」。ん?当たり前かな?)

今回、タイトルを「法律」から「法」に変えたのは、問題にしたいのが、個別の「決まり」、法律でも条例でも校則でも、何でもに関することではなく、「決まり」の大系を「一つの総体」として捉える考え方が自分の思考に合ってると思ったからです。で、法の本質と教育の本質の違いを述べたかったというわけ。

で、執事さんのコメントに触発されたのか(?)、でも、てっとり早くウィキペディアで調べただけだけど、私が「法」に関心を持つとしたら、「法哲学」に関わることだということです。

法哲学は、大別すると、法価値論、法概念論、法学方法論の3つにわけられるようですが、apjさんの書かれた内容は法概念論と法学方法論に関わり、私が問題にしたいのは、法価値論と法概念論に関わることだったのではないか。それで、私はこの3つを羅列的な関係だと思いません。法学方法論は、法価値論と結びつくことがある(と書いてあった)し、成り立ちから言って、これは当然だと思う。

ですから、私の中での問題意識は、「教育とはなんぞや」VS「法とはなんぞや」という上位概念に関わることで、教育の方法論と法学の方法論について述べたかったわけでなかった。この点、apjさんは、方法論について述べておられるように思いました。方法論は下位概念です。上位概念が抽象的である一方、下位概念は具体的なので、それだけより多くの人にとってわかりやすいものになります。(私の思考法は、かなり階層的です。)「抽象化」は進めば進むほど、わかりにくいものです。

で、また少し戻る?けど、「わかんない」と表明することの自由というか可能性?というかについて述べましょう。
「「わからない」を表明をすることが次の段階に来るであろう「分かること」」につながる可能性を私は意識しています。で、ひとさまから見れば無責任に映るでしょうが、私は「わからない~」を連発することに全くためらいがない。

「わからない」がおっしゃるとおり「逃げ」にもなりましょうが、「分かる」への「意識化第一歩」という考え方を取ることができるからです。なぜなら、生徒の勉強にしても、分からせるためには、まず、「わからん」「ここがわからない」と認識させることが第一ですから。(「わからん」だけのときは、「わかりたくない」「わからなくていい」の意味であることも、もちろんあります。今回は、こっちの意味に取られたのだろうな。)

ところで、この頃、ここに作文を書いてて、自分の好みではない、相対性たる「法」「人間関係」に関与するものが自分の中で浮上してきています。その過程に置いて、私はわざわざこんな記事を書いたのだと思います。今までだったら、たぶん、避けていたはずだから。記事やコメントで「わかんない~」「好みじゃない」を連発してたから、逆説的に意識化され、浮上してきたのかな。(笑)

で、話がまた戻るけど、「方法論」には私はあまり興味がないのですよね。
「方法」は、私の言葉で言うと、ベクトルの矢印の大きさをいかに速くのばすか(ゆっくり、とか着実に、でもいいけど)等の「作業的な側面」に関わると思ってます。
しかし、ベクトルには、「方向」があり、これはつまり、「次元」、即ち「その目的・理由」という「意味や意義」と言った観点に関わってきます。
(勉強で言うと、「どうやって勉強するか」と「何のために勉強をするのか」の違いです。)

ところで、同じベクトルであっても、どんな座標軸上で見るかによって、ベクトルは方向も大きさも全く変わります。(お馴染みさんには、聞き飽きた事項だと思いますが。)xy平面上の線分は、z軸が関わると「平面」であるかもしれない。

私の根源的な興味は、「次元」に関わる部分にあります。
勉強の本当の目的は、次元を増やすことだと思ってます。でも、近頃の勉強は、作業能力の育成ばかりなので、嫌気がしている。プリント学習なんて典型。(←これ、あちこちに書き散らしてる。もー、ホントにイヤ。)
次元は、物事の「前提」に関わることです。(よって、結局は「人間とはなんぞや」に帰結する。)だから、法に関しても、個別の法律より法哲学の分野になるのだろうな。それで、タイトルが変わったということです。

話があっちこっち行ってる気がするけど(整理して考える余裕がまだない。)、「わかんない状態」から「わかる状態」に至るにも、「どの程度の理解か」「どこまで分かったか」という程度問題に過ぎません。
この点、「わかる」と「わからない」を二者択一のようにとらえる方が多いように思います。(マーク試験の悪影響ね。)これは大きな誤解だと思っています。
なぜなら、二者択一では、学問は学問たり得ないからです。
学問とは、水に浮かんだ部分をかいてもかいても、かいた分だけ浮かび上がってくる「氷山」だからです。(私はこのたとえをよく使います。リアルワールドでも結構賛同を得てる♪)だから、「完璧にわかる」はあり得ない。「ここまではわかったが、これ以上はわからない」が、まともなあり方です。

学校の勉強も学者の学問も、基本は同じです。でないと、人間は人間たり得ないでしょうから。(ここ、少し飛んでるけど。)

ただ、「分かる」ためには、たぶん、時間がかかります。で、時間を掛けても、分かるかもしれないし、分からないかもしれない。それはわからない。
まあ、だけど、私は、「わからないことを保持する能力」(笑)は、かなり持ってると思うので、機会があったら、何かでてくるかもしれない可能性は否定しない。

そもそも「法学なんて、全然興味がないや」と思ってたのに、いろいろここに書いているうちに、これまで全くなかった志向性が出てきている(それで、この記事を書いた)のは自分でも不思議に思うほどだから。

今のところ、分かったのはここまでです。(笑)

でもね、読み返してみるとね、上記ぜーーーんぶ、今までこのブログに書いてきたことの言わば「焼き直し」だよなぁ。。。
思考の具体的対象が「法」になっただけの話で、思考の方法、考えの根幹は全く変わらないもの。これまでの私の思考大系に、「法」がやっと場所を見付けて入り込んできた、というかな。これって、私にしてみれば、大きな変動だけど。。。

・・・あ、脳味噌、限界。今はこれ以上ムリ。

よろしく。(←?)
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