考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

制服の役割は雰囲気作り

2008年03月08日 | 教育
 中学高校と、セーラー服の非合理性には参った。5月には暑い、6月の衣替えは過ぎると今度は梅雨寒で寒い。風邪を引く。実に、寒暖の調節ができない服である。襞スカートは、風が吹けば舞い上がる。また、当時のことだから、たった1枚の制服をずーーーっと着続ける。昔と今では、洗濯の回数、質に関する常識が違うけど、それでもやっぱり清潔という意味でキレイと言い難い。
 全くもって、不愉快なとんでもない代物である。
 大学生になって、私服を着るようになったとき、何を着て良いのかには困った。(でも、半年ほどで慣れた。)この点、制服は楽だった。「着るもの以外のことだけ考えることができる」という観点において「非常に機能的」だった。「不快さ」を我慢すれば、勉強でも部活動でも何でも専念できた。

 制服は学校によって異なる。あれこれあるが、形、色の多少には、実のところ、何の意味もない。ただし、(学校で何か(持ち物とかそんなものの類の話)あったときに私は時々言うのだけれど、)ピンクを始めとする暖色系パステルカラーのセーラー服を学校の制服として採用している学校は絶対にない。
 制服とは何であるかを考えるとき、これは重要だと思う。

 制服の役割は、「場の雰囲気」を作り出すことであって、着る人個人の快適さや好みを反映するものでないのである。(だから、私立学校は、これを逆手にとって、生徒好みの制服を作って生徒集めをするところがある。私立学校でも、何十年と制服が替わらない学校もある。そういう学校は、たぶん「良い学校」である。)この点で、制服は、かなり「集団と個の対立」に関わる。(本来的に集団と個の利害は対立することが多い。)

 (あ、ここまで書いてて制服に関する記事をこれまでにも書いた気もしてきた。コメント欄でかな? わからん。。。)

 制服とは、かように「個」にとっては実に「非合理的」なものである。それでも、制服は「ない」より「あった」方が学校という「集団」には「落ち着き」が出てきて、これは逆にそれぞれの「個」にとっての利として返還される。(ただし、目に見えない。後述する。)時に個人の健全な意志が蔑ろにされることはあっても、それでも学校は学校らしく機能する。

 なぜなら、制服の機能は、「落ち着きのある統一感を出す」ことだから。「みんな一緒」であることを肯定するものだから。

 小さなこと(といって、イマドキはそんなに細かくないと思うけど。)まで決まっているのは、「どっちでもいいこと」である。ほとんど理由はない。大事なのは目的が「みんな一緒」であることで、これこそが制服の果たす最大の役割だからだ。
 でないと、学校は、極端な例だが、そもそも「授業」なんて成り立たないのである。授業だって「みんな一緒」に受ける。国語の時間に数学の勉強をしていると叱られるのが普通だ。(叱られなかったら、先生が学校の役割を理解してないということである。)食事の時間も決まっている。「ハラ減った」といって、いつでもどこでも食べて良いところではない。(ところが、近頃、これが大分アヤシイ。ゴミ箱の中にはお菓子の袋。学校によっては、ゴミ箱に入っているだけマシだろう、という判断になる。)学校とは、そもそも「みんな一緒」でしか行動できない、「個」にとっては、実に理不尽極まりないところなのである。

 ところが、授業を始めとして、学校の生活環境は、「みんな一緒」であることで初めて成立する。それが、「利益」として「個」に還元されることそのものである。しかし、「個」の方は「そんなの当たり前じゃん」と思うのが常で、これこそが益だとはまさか夢にも思わない。だから、荒れた中学からそれなりのレベルの高校に入学してくる生徒は、「授業がちゃんと受けられる。騒ぐ子がいないから先生の話がちゃんと聞ける」ことに感動をする。荒れた中学には「みんな一緒」がなかったのである。

 「みんな一緒」の前提で「学ぶ」。公教育として、それが多分、最も効率的に教育を施すことができるのである。制服はその象徴、かつ極めて具体的な存在なのである。


4 コメント

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Unknown (heisan)
2008-03-08 22:54:19
これまでの思考法を制服に対して適用した点が新しくて面白いと思います。
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いつも同じ(笑) (ほり(管理人))
2008-03-09 00:58:27
heisanさん、コメントをありがとうございます。

基盤が同じだから、違うことが書けない。(笑)

ブログを書いてて思うのは、「私は根底で何を考えているのか、私の中には、どのような『体系』が内在しているのか」ですね。それを明らかにするのが、自分の仕事(?)かなと。他の人にはできないことかなと。

ベクトルもそうだし、「集団と個の対立」もそうだし、「感覚世界と抽象世界」もそうだし(これは養老先生とかぶる)。。。まあ、そんなところかな。
結局、関心があるのが「人間とは何か」だから。

また今後ともどうぞよろしく。
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Unknown (fryingpan)
2008-03-09 16:56:27
ファッション的観点から制服を捉えがちだったので、ほりさんの論説は意外でした。できましたら、生徒が制服を着崩すことの意味についてもお聞かせ下さい。
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オトナの真似と偽物の「自分らしさ」かな (ほり(管理人))
2008-03-09 19:36:57
fryingpanさん、コメントをありがとうございます。

今でこそ、さまざまな制服がありますが、昔々は、助詞はセーラー服、男子は詰め襟。それが、「中学生になる」という一種の憧れと覚悟だったように思います。(「学校教育を考える」の「小中一貫教育と通過儀礼」にあるけど。)
それが、社会が豊かになってきて、「ファッション」になってきたのでしょうね。

「服」ってのは、そもそも、身体を拘束するものでもあるでしょうね。「身を守るもの」から、そうなったのかなぁ。。詰め襟なんて、典型だと思ってます。首は特に「急所」だから。

過去記事で「襟元の防備・無防備」(06年10月)というのがあります。それで襟元をはだけることについて述べてます。まあ、要は、社会が豊かになって、ヒトが動物としての感性を失いつつあり、無防備になってきたということです。(これが何故無防備かは、その記事に推測を書いてます。)

着崩すのは、社会全体が豊かになって、ラクな方向にラクな方向に、と流れているので拘束を嫌がるのでしょうね。それはオトナの社会にも入り込んでる。というか、高校生の時に制服を着崩すことを覚えた人たちがどんどんオトナになってると言うことでもあるでしょうが。

私くらいの年齢対象(って、いくつ?・笑)の女性誌なども、いかに着崩して「自分らしさ」を出すか、というスタンスで記事(というか何というか)が組まれてますね。保護者会への服装は、今まではこうだったけど、今はここまでOKとか。もちろん、カジュアル路線です。
(これは「ハレ」と「ケ」の区別がなくなってることとも関係があるでしょうね。)

生徒も、同じように思ってるんじゃないのかな。
まずは、ラクにするため、胸元のボタンを外す。オトナの真似をして、胸元を開ける。で、ネックレスとか。それが「自分らしさ」だと思ってたり、「かっこいい」と思ってたり。制服は、元来「お仕着せ」ですから、お仕着せのまま着るというのは、ダサイ、という感覚があるのでしょうね。

まあ、似たような格好(崩し方)が「符牒」だったりもするだろうし。オトナでも、知らない人と話をするとき、まず、判断材料として、「格好が自分と似ているか否か」というのはあると思う。

個性は、「服」とか「化粧」などの外見で表現するものだと思ってるのかなぁ。中身空っぽのときも多いから。
だから、他人がどう考えているか、気になる。その場の雰囲気が重要になる。「空気読めるか読めないか」が最重要課題、つまりは相対的な価値尺度が大事なわけで、自分そのものは中空だから「絶対性を持つ自分」なんて、完璧にないんだよね、たぶん。

↑あ、でも、これ、誤解されそうだな。

内田先生だと、自分は他の人間との関係で決まる、みたいな考え方だから。でも、私が言いたいのは、そういうのとは、大分違う。内田先生は、「自分の資質などを含めたすべてが他人にとってのどのような位置付けになるか」で共生関係を意味してる(と思う)けど、私が言いたいのは、内田先生の言の否定ではないから。もっと外見的なことかな。「おしゃれが私の全てです」みたいな感覚。

聞いた話だけど、小学生高学年か中学生かの男の子がクラスの女子がおしゃれのことしか話題にしないのを聞いて、「女ってバカだ。おしゃれの話しかしない。」と言ってたらしい。
でも、これも、「おしゃれがカネになる」という拝金主義と結びついてるから。「高校生に売りつける商品」で食べてる人や会社って、結構多いんじゃないのかな。

北杜夫氏の娘さんの齋藤なんとかさんのエッセイに、外資系に転職した友人が、いかにリッチか書いてたけど、その人たちは皆、ブランドファッションの会社で、日本戦略チームとして働いている。飽きやすく、ブランド品好きな10代~の日本女性は、(私に言わせれば、)まあ、格好の「獲物」のようです。上記の「友人」は、私に言わせれば、売国奴です。「それが仕事ができる」ことに繋がるというのは、抵抗があるな。(まあ、「稼ぐ」のは仕事なのだろうけど。)

着崩す子どもたちも、自分はそんなつもりがないけど、「ファッション市場」の「良い顧客」(実は、「カモ」)たるべく修行中の身だと言うことなのかな。

今は「環境問題」が問題になってるけど、ゴミの多くが「衣料品」であるという話を聞いたことがあります。でも、「ファッション」という言葉になると、これが非常に肯定的に捉えられる。
お金になるからでしょうね。「日本のファッションを世界に売り出す戦略」っての、いつだっけ?報道されてましたっけ。「東京ガールズファッションショー」だっけ?あれなんて、ヤンママたちで、コドモを放って行った人、それなりにいたんじゃないのかな、とか、(根性の悪い)私は思ってしまう。外国人のプレスかバイヤー(か、わからんけど)も多く来ていたらしいけど。

ああ、そうそう。もう一つ理由がある。
昔は、「ちゃんとした格好」ができるのは階層的に限られていたはずです。落語で、「羽織」を大家さんに借りに行く店子ってよくあるような、そんな感じ。
「羽織」は、「ちゃんとした格好」を作り上げるものだから、たいていの人は必要がないから持ってない。
で、(以下、顰蹙買いそうだけど、)喩えて言うと、言わば、「羽織を持ってない層」が、「羽織」を持つようになって、「羽織」の意味も使い方も知らず、「羽織」をふつーの日常着と同様に扱い、着崩すことをし始めたのかな、とかとも。
上記、ちょっと書いた、「服装による『ハレ』と『ケ』の区別を知らない人」が大勢を占めてるというか。着るものほど経済力を示すものはないから、人口比でいったら、もともと「区別しない人」の方が圧倒的に多かったはずだから。(・・・顰蹙買いそう。)

ちゃんとした「所作」とか「言葉遣い」や「ご飯の食べ方」の習得には時間が掛かるけど、服はお金があればすぐできる。(↑上記、自分はできてない・笑)
清子さん(だっけ?)のご飯の食べ方は、たいそう上品だそうです。(これを見たことがある人のちょっとした知人からの又又聞き?ですが。)

↑上記、余り読み返しもせずにダラダラ書いてます。
(支離滅裂かも。だったら、すみません。)
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