考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

感覚を敏感に

2009年10月19日 | 教育
 何も芸術とかそんなのではない。
 勉強をするときには、感性豊かに、感覚を鋭敏に保たなければならない。外界を捉えるのは、すべて感覚だからだ。
 音読をしたり、正確に写したり、全部、そう。間違わない、というのは、とても消極的で型にはまって、まあ、あまり良いことを言う人はいないと思う。でも、正確さは、きちんと見たり聞いたりしていないと出来ないことだ。
 勉強ができない生徒は、意外に、この点に関して「横着」なのである。違いに気がつかないまま、次に進もうとしたりする。だいたいで良しとする。こうした基本的な力が不足している。
 「基礎基本」というが、どんなスポーツでも球技などでも何でも、一流の選手の基本的な動作や所作は、初心者の基礎基本とまるっきり異なるだろう。それで、また美しいはずだ。無駄がないからだろう。集中すべきところで、集中するみたいな。力も何もかも。
 猫背の剣士というのは考えられないのと同じではないかなぁ。
 勉強をするにしても同じだろう。文字をしっかりと書く。もちろん、しっかりかくことそのものが目的ではないが、しっかりと書く。
 昔、数学の先生は皆、円を描くのが上手だった。そのように言われていた。黒板であっても、きれいな○を描く。若い数学の先生が言っていた。「そんなことはないですよ。」ちょっと前に試してガッテンでやっていたような気がするが。自分が描く文字は、自分の脳の中の形らしい。(そこまでしか見てない。)だとしたら、○が上手に描けない数学の先生の脳の中の○は○ではないということになりそうだ。脳の中の図形が○でないのに、○についてちゃんと思考できるのだろうか。
 考えるというのは、脳の中のモノを外部に出すことである(と思っている)。だったら、意識無意識に関わらず、脳の中がきちんと整理されていないと、しっかりとした思考もできないのではないか。きちんと整理することこそが、独創性にいたる近道ではないのか。だって、きちんと考えればだれでも思い付くようなことが永遠の真理だったりするからだ。と考えると、きちんと○を描けない数学者の思考は、真に独創的な普遍的な正しさに到達するのだろうか。
 数学は例えとして出しただけだけど、どうなのかな。もちろん、私としては、色々な学問において、同様なことが言えるのではないかと感じている。(これ、文字の話というわけではないよ。)

2 コメント

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Unknown (わたやん)
2009-10-20 23:06:41
囲碁棋士の張栩四冠が奥様(同じくプロ棋士)との初デートでいきなり囲碁のレクチャーをして「精巧な碁盤を頭の中に置けばいつでも勉強ができる」と語った…というエピソードを思い出しました。数学だったらここまで考えたらもう後は手筋通りだから考えなくていい,というのがよくあるのですが,私の囲碁はヘボなので頭の中で黒・白・黒…と並べた石が気がつくとボヤけたりズレたりしてしまうのです。強い人は頭の中の碁盤がもっとクリアに見えてるんだろうな(私のはちょっと霞がかかってる),と思います。
やっぱり (ほり(管理人))
2009-10-20 23:23:34
わたやんさん、コメントをありがとうございます。

生徒に、「イメージしろ」とよく言ってます。
文章の内容がどういうことか、でも、何でも。
ただ、アタマの中の漠然としたモノをクリアにするのって、とっても難しい。でも、それをしないことに前には進まないようですね。クリアになれば、また見えてくるモノが変わるのが面白い。
長い道のりだなぁ。

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