考えるのが好きだった

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部活は子守の一種だと思う

2005年12月27日 | 教育
 部活中心の学校生活は、ホントのところはおかしいと思っている。部活は卒業認定に関わらない。本来の学校は、勉強をするところである。

 土曜日が休日になって喜んだのは、部活動(の好きな先生や生徒)である。
 それで平日には7限目とか0限目という授業あるいは課外学習の時間帯が生まれた。生活時間帯が日ごとに異なって、実に不合理な学習計画である。先生も生徒も親もやればいいと思っているから、こうなる。いかに生産的に計画するかという視点がない。だから、授業中、寝る。(しかし、親は知らない。)教員だって、実は、体力的にきつい。かつては6日間で行われていたのと同じ授業時間数を5日間で行っているうえでの課外学習だったりする。誰も口に出して言わないが、授業が薄まる可能性がある。(しかし、親は知らない。)その分は精神力で頑張りきるなど、視点を取り違えてはいけない。課外学習は土曜日の方が、実は、もっとも効率がよい。かつての学校と同じだと思えばいい。だから、地域等によっては、そのようにやっている。(課外に関しては、保護者がお金を出しているはずだ。)しかし、部活をやりたがる先生が多い学校は、「グランドを十分に使いたい」という理由で、全員は関わらない部活動のために、全員が関わる学習が間接的に大きく犠牲になっている。平日の授業時数等があるという理由で表面化しない。直接には見えないからわからないだけだ。

 部活動の意義を認めないわけではない。
 どんな学校でも、勉強について行けなくなる生徒は必ず出てくる。部活動などの学習以外の活動がそういった生徒を支えることがある。同じ活動であっても、学校への吸引力という点で、学外の「クラブ」は同等の働きをしないだろう。
 休日でも平日でも、勉強もせずにただ時間を潰すかのように、「なんか刺激的な面白いことないかなぁ~」とふらふらしている生徒は多い。彼らと比べたら、部活動に取り組む生徒は、やりたいことややるべきことがあるという点で輝くもの持っている。しかし、あくまで副次的な意味合いでの重要性である。
 部活動とは、勉強と対になった裏番組のようなものである。そこのところを本末転倒させてはいけない。

 教員採用の点で、部活動の顧問が出来るかどうかで採否が決まる?場合がないとは言い切れないような気がする。これはあくまでも推測であるが、底辺校では部活動の面倒を見ることが出来る人を求めるフシがあり、公立高校の底辺校は意外に多い。もちろん、この理由は、学校が勉強をするところとして認知されたり期待されたりしてないから、つまり、学習活動が学校本来の主軸をなしてないから他のことで釣る、と言うことだ。

 しかし、「だからといって何の問題があるの?」と言う人は多いと思う。生徒が喜んでやっているのだからそれで良いじゃないか、と。
 運動部は「見た目が派手」で、若さはち切れんばかりに活動する生徒の姿は見ても感じ悪いものではないからだ。一般的に、町の人が見れば、特に高齢者には好印象を与えるだろう。彼らは強靱な肉体で未来に向かっている。それこそ何かの災害でもあったら、体力あふれる彼らは頼りになりそうでもある。
 対して、勉強をする、というのは、見た目も地味である。傍目からは何をしているのかわかりにくい。その上、「成果」もわかりづらい。また、「成果」は、給与などの個人に還元されることが多いと世間的に思われる。老人が、自分が頼りにしている薬の一錠が、かつての高校生の勉強の成果であったと思うことは決してないだろう。人間の想像力は、まだそこまで進化していないのだろう。だから、「見た目」と「今すぐ」に弱い。
 よって、文化的文明的な生活の基盤を為す勉強の価値は認められず、虐げられる。

 部活動関係を授業とリンクさせて卒業認定の単位修得にかけている場合は別である。しかし、そうでない場合は、部活動を優先すべきでない。

 しかし、なぜ、学校生活の中心に学習がないのか。

 勉強が好きで高校に進学する生徒は少ないからである。よって、社会人にも少ないと考えられる。高校教員になった人でも、自分の教科以外の理解度は余り大したことはないと思う。だから、ついつい「気持ちがわかる」。よって、「そりゃ、これだけするのは無理だよなぁ」というコトバがぽろりと出る。頑張らせるのは大変だからだ。また、近年は、「頑張るのはいけないことだ」と思いたがる人も多く、「そんなに頑張りたくない」という生徒の気持ちの巧くリンクさせる。「頑張りすぎるな」の曲解である。
 また、勉強は、ある程度の素養はあって当たり前だと思われる、ないと困るだろう、という程度の価値は認めるが、それ以上のより積極的な価値は認められないという理由がある。これも、上記、人間の想像力に限界があるせいだろう。

 「高卒で当たり前だろ」という感覚がある。これは、高校で得た知識というより、過程としての「忍耐」に価値をおいていることが多い。(そう言えば、美容専門学校の人が、高卒者と大卒者を比べると、高卒者は続かないことが多い、と言っていた。大卒者は「受験勉強に耐える」(+「大学単位修得」)という経験をしている分だけ違うのだろうということだ。)
 それで、「忍耐」ならば、勉学以外でも育成できるという考え方も出てくるわけだ。部活動がその筆頭にあげられる。しかし、部活動は、「好きでやる」のが基本だから、嫌いな勉学ほどの「忍耐力育成」効果はないだろう。
 勉強は、まともにすれば人間に「落ち着き」がでることが多い。部活動はそうとも言い切れない。ただ、何かが好転する「きっかけ」になることはある。
 学校の勉強の目的に「落ち着き」は挙げられようが、「きっかけ」は目的そのものになり得ない。よって、この点でも部活動は副次的なものである。

 「子守」は対処法でされることが多い。「教育」は目的的になされる。「部活動」そのものに視点をおけば部活動も「教育」になりうる。しかし、「学校」という教育の仕組みの中での位置付けは、あくまでも副次的なものであるゆえ、対処法としての「子守」としての側面が強いと思う。

 以上、なんとなく書いた。 

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