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3単元のsの重要性?

2009年03月19日 | 教育
 日本人はしばしば間違えても、ネイティブスピーカーが決して間違えないものに、3単現のsがある。それから、冠詞と前置詞。3単現のsは純粋な文法で、冠詞と前置詞は英語そのものの語感に関わるから別物扱いすべきだろうが。
 しかし、英語を勉強させるとき、特に中学校からコミュニケーションが入り込んで、生徒の英語で3単現のsを理解していない者がものすごく増えた気がする。冠詞、しかも、aもそうである。This is a dog.レベルの文でも冠詞が抜ける。思うに、アクティビティ中心の授業で、こう言ったことが全く重視されずに、単語だけを並べて英語にして、「通じた」と言っているような気がする。簡単な意思疎通なら、言語無しで出来る。それをわざわざ言語を用いてやろうというからには、きちんとした言葉で覚えていくのが筋だろう。だから、「ネイティブの人が絶対に間違えない事項」は、けっこう大事じゃないかと思う。私もうっかりすると、3単現のsを忘れてしまうけど、これって、もの凄くいけないことだと思う。(自戒も。)

 で、英語も昔の英語では格変化がたくさんあったと聞いたことがある。フランス語は律儀にも、今でも主語を必要としながら格変化で主語がわかる仕組みになっている。源氏物語が敬語表現で主格が何かを示すのとはえらい違いである。ところが、英語は、昔はあったという格変化が、(外来語や外国人?の流入がからんでいるようでもあるが)3単元のsを除いて他は消えた。それだからか主語がしつこく残っている。だったら、格変化をなくしたときに3単現のsだって止めてしまえば良かったのに、なぜしつこく残しているのだろう?
 で、思うのは、高校生の時から、私は3単現のsを重宝に思っていた。なぜなら、これで主語を迅速に確定できたからだ。だから、ひょっとして、ネイティブの感覚だったとしても、「三単現のsは、主語を明確に示すため残した」と言う仮説は立てられないのだろうか。(だって、あまりにも便利なんだもの。)もちろん、主語が複数だったらどうなるのかという疑問はある。実際に、高校生の時、主語が複数で、その後に後置修飾で知らない単語がたくさん並んでいたり、或いは名詞と動詞の両方意味がある語が並んでいるとき、呼応する動詞がどれかを見付けるのが難しかった。でも、3単現のsでわかるものが多かったから随分助かった思いが強い。英語は階層的な構造で修飾する。だから、主語と動詞が離れると、構造がわかりにくくなる。ひょっとして、呼応をはっきりさせるという機能的な役割としてsが残ったという仮説はネイティブの感覚でも成り立たないのかなぁ??
 でまた、日本人は、冠詞や前置詞が苦手だったりするが、もののニュアンスを正確に表現するには、これほど重要なものはないのではないか。
 そんなことを考えると、「コミュニケーション」の名の下に、いい加減な英語で勉強している初学者は、大事な大事な英語の感性(の基盤)が育たなくなってしまうのではないかと心配に思う。いったん身に付いた言語の感性は、それこそ、そう簡単に取り除けない。文法もそうだと思う。それで、かえって、コミュニケーションのギャップを生む要因にならなければいいのだけれどね。


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