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考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

平常点の欺瞞

2010年05月29日 | 教育
 成績は、高校の場合、試験の点数と平常点で計算されることが多いだろう。自分が高校生の時はどうだったのか知らないが、「下駄を履かせる」という表現をよく聞いた。私の高校は50点が合格点で、当時の「噂」によると、試験に落ちて追試で合格をした場合は50点で合格になると言う。通常の試験の合格は51点以上だ、ということだった。ホントかウソかは知らない。幸いというか何というか、私は赤点を取ることはなかったから詳細を知らない。通知表に試験の点数がそのまま書かれていたときもあったのかも知れないが、よく覚えていない。「下駄」については、かなり確実な記憶がある。物理で、どういうわけか私がいたクラスの平均点は他のクラスよりひどく悪かった。とにかく、1学期の試験の平均点は45点程度だった。このままでは合格点に達しないので、先生は下駄を履かせた。しかし、ふつーに上げ底にすると、最高点が100点を超えてしまうので、指数関数か何かを使って下に厚く上に薄い下駄を履かせたようだ。帳尻を合わせるのに随分苦労をしたらしい。授業中に何かそんな話をなさった。というわけで、クラス平均程度の私の点数は、やはりクラス平均でありしかも学年平均である60点台になったと思う。

 何年か前、「平常点を入れよ」というお達しがあった。平常点は「推薦入試」が、普段の学校の成績はよいが、どうしても入試などの試験に弱い生徒のためにあるようなものだと私は解釈した。
 しかし、「進学校」に平常点は必要がない。
 実に矛盾がある。ノート点にしても、小テスト点にしても、「普段の学習点」と通常捉えられるものが、なんということはない、通常の試験の点数とそう変わりないからである。それどころか、成績の良い生徒ほどメリットを受け、できない生徒との格差が広がるからである。
 たとえば小テストで「look forward to -ing」を出したとする。できる生徒とできない生徒が出てくるとする。小テストできちんとこれが書けた生徒と書けなかった生徒がいるということになる。前者は、小テスト点として平常点がもらえるとする。(勿論、一つの熟語だけで点がもらえるようなものではないが。)できなかった生徒は、もらえない。できなかった生徒は勉強をして試験に備える。試験でも同じ熟語が出題されたとすると、小テストで点をもらった生徒は、一つの材料で、試験でも更なる点をもらうことになる。二重に得点するわけである。小テストができなかった生徒が獲得するのは試験の点だけである。「だったら、成績の良い生徒が良い成績が付くわけだから、それはそれで良いではないか。」ということになるが、可哀想なことに小テストでも、試験でもできない生徒というのが必ず存在する。彼らの点数は、平常点も試験点もない、ということになる。それで、下位層の学校はともかく、一般に進学校と言われるような高校に入ってくる生徒で、「小テストではできるが試験だとできない」という、平常点が当初意図したと思われる生徒は、実に、存在しないのである。つまり、こうした点の付け方において、上下の差は広がる一方ということになる。これは成績を付ける側として、実に困ったことになる。差が小さくなるならわからないでないが、わざわざ点差を広げるための点の付け方を何故にする必要があるのだろうかと思う。それでも「成績の良い生徒が、より良い成績が取れるのだったら、それでいいではないか」と思われるかもしれないが、彼らは自主的な学習で「look forward to -ing」を覚えたという時点で既に大いなる恩恵を受けているのだ。わざわざ「小テスト」という形式の他人による評価を受ける必要なんてない。
 もう少し、詳しく説明しよう。おそらく、より高いところを目指そうとする生徒にとって、ちんけな小テストの点を気にするような勉強をさせていては、かえって天井にぶち当たろうということだ。この理屈、わかる人は十分にご理解いただけると思う。勉強なんて、そんなものである。志が高い場合は、低いレベルでの「合格というご褒美」はかえって邪魔になる。人間だから、どうしても何かしら満足感を感じてしまって、合格などでも「これでいい」と言われると更なる勉強に進みにくくなるのである。低い山に登る努力ばかりしていたら、高い山に登るということがどういうことかがわからなってくるのだ。低い山に登る努力と、高い山に登ろうとする努力は違うのである。これが最大のデメリットである。目に見えないし、こうした努力の質の違いは、自分自身が体験するか、あるいは、高い山に登ろうとする人を時間をかけて、さも自分が体験するかのように間近に見ないことに理解し得ないのである。だから「いかにして生徒を伸ばすか」という観点で、指導者如何によってはかなり具合が悪い事態が起こりうる。
 
 「小テストでできなかった生徒が試験でできるようになったら、それで良いではないか。その生徒たちは、小テストがあったからこそ定期試験でできるようになったのではないか?」とおっしゃる方が見えるかも知れない。落とし穴である。小テストでできる問題なんて知れている。普段から、ちゃんとした勉強の仕方を教えてやっておけばいい。小テストは、自分ですれば良いだけのは話である。その方が、どのレベルの生徒もより高く伸びていくものだ。小テストは、「手厚く親切な指導」であるだけに、また、おまけに先生が手をかけて行うものだから、これを否定するのは「先生、仕事を怠けているんじゃないの?」と言う風に解釈されかねないから、手を尽くしているように見えながら、結局、自主性も応用力も育たない、結局は指示待ち人間しか育てないことにつながる。(←こういう言い方をすると、必ず、指示待ち人間になるのは小テストだけが理由でなかろう、とおっしゃる方がみえるが、「小テストが要因の一つになっている」のである。)そんな育てられ方をした生徒が気の毒でならない。大学教育だって、上手くいかないだろう。企業も大変である。高校生として今いる生徒は、大学生になり、すぐに大人になるのである。小学生であるまいし普段の勉強まで「先生、ほら、見てて。」と言わないと、それでその評価を得ないといられないとしたら、困ったことである。かつ、不思議なことに、「勉強とはこうやってするものだ」と教えておくと、そのときは言う通りにしなくても、つまりは、小テストで追いまくったその場限りの勉強をさせ続けるのとでは、確かに小テストをした方が点は上がるだろう。ところが、彼らは自立できないだろう。(中学でもそんな勉強しかしていないものだから、高校に入っても小テストをしないと勉強をしない生徒に育っている。)それなら、多少出来のは悪くても、大学生になって「見て、見て」と言わずに済む生徒を始めから育てた方がよほど良いではないか。

 ノート点にしても、きちんと勉強をする生徒の大部分はノートもきちんとしている。真面目なのにできない生徒もいるが、そういう生徒はしようがないのである。「平常点」は、そんな生徒のための曖昧模糊とした努力点として大事に取っておくのが良かろうというものだ。何でも厳正に数値化すればいいわけでない。
 と、「不公平だ」と言う声が聞こえてきそうである。
 「数値」は厳正に思われるが、「数値の根拠」はいかなるテストであろうと、実のところ、恣意的で曖昧模糊としているものである。「公正な採点基準」と言っても、問題1の配点と問題2の配点の割合を変えれば、成績はすぐに入れ替わる。合否も変わる。問題2はできなくても問題1ができた生徒にとって問題1の配点が高ければ有利である。易しい問題も難しい問題も同じ配点の試験と、難しい問題の配点がもの凄く高い試験はどうか。時間がかかる難しい問題もあっという間にできる易しい問題も同じ10点だったら、生徒の勉強はどうなるか。受験態度はどうなるか。試験時にすでに配点が公表されている場合とそうでない場合でどうか。

 平常点にしても何にしても、生徒を真の意味で賢く育てたかったら、あまり点数点数と言わないのが、本当は賢いやり方ではないかと思う。生徒に点数ばかりを気にさせる勉強をさせると、目先に点にばかりに気が行って、能力はかえって伸びなくなる。(この理屈も、実はなかなか理解されない。)
 今は、どういうわけか、やたら細かい点数で表示したがる、させたがるが、本当に能力の伸長を図るつもりだったら、成績は少し曖昧さがある数値の方が、実のところは教育的配慮に富む指導ができるのではないかと思う。試験で生徒が良い点を目指すのは良いことである。試験は一種の「ゲーム」だからだ。しかし、どこかに「このテストの点数なんて本当に重要なものでない」と思う余裕があった方が勉強はちゃんとできるものだと思う。「点を取れ」と言いながらも「点が取れなかったら悔しいと思え」と言いながらも、どこかで「勉強で大事なのは点じゃないよ」という矛盾があった方が、いかなるレベルの生徒にとっても、将来に長く続く能力を最も大きく幅広く伸ばすと思う。そもそも勉強であっても何であっても矛盾ないものはなく、すっきりしないものだからである。

4 コメント

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Unknown (Unknown)
2010-05-30 08:40:45
何によって成績をつけているのかを生徒にいう必要はないのでは?しかし、何によって成績をつけいるのかを教師側ははっきりともっていなくてはいけない。説明できなくてはいけない。
授業での小テスト・・・やればよい。しかし、それは成績をつけるためのものではない。生徒自身のためのものである。小テストの点数を成績にさも関係させるに臭わせる教師側に問題あり。
言わなければよいだけの話である。
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おっしゃるとおり (ほり(管理人))
2010-05-30 09:56:43
Unknownさん、コメントをありがとうございます。

まさにおっしゃるとおりですよ。
何によって成績を付けているかを言わなければ、生徒は何でも一生懸命に勉強します。
でも、近頃は、評価基準を明確に相手に示すことになっているみたいだなぁ。ホント、おっしゃるとおり、教師だけがちゃんとわかっていればいいんですよね。

とにかく、かなりの点で、今のシステムは、子供が学ぶことを阻害する方法がよしとされるみたい。
子供が学ぶのは、「わからないから」なのに、何でもかんでも「わかりやすい方が良い」という「明確さ」を重視するからこんなことになっちゃうのだろうな。
逆なんですよ。

ところで、コメントをくださる場合には、HNを付けていただけませんか? Unknownさんばかりになると、区別付かなくなってしまうので、よろしくお願いします。
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Unknown (tonbo)
2010-05-30 16:28:10
HN書き込み忘れてすみません。

たぶんですが、今のシステムは子どものためというよりも、教師を監視するため・・・でも、その背景には悲しいかな、教員という立場にあぐらをかいていた教師が多く存在していた事実があったから。だと考えますが。(しっかりと評価をどういう基準でしたのかを説明できない教師)
でも、今のシステムは頑張っていた、そして、頑張っている教員の首を絞め、子どもを苦しめている。そして、あぐらをかいていた教員が、がんばるようになったかというとそうでもなく、尚、悪い。子どものことを考えているような振りをして、実は、教員を監視したいからスタートしているからでしょう。
教員もいろいろな方がおいでます。でも、8割が頑張っている方でしょう。あとの2割の方のために今の現状になったような。あとの2割の方は、管理職や委員会が中心になり、指導していけばいいと思うのに。
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評価の基準 (ほり(管理人))
2010-05-30 18:02:27
tonboさん、コメントをありがとうございます。

>(しっかりと評価をどういう基準でしたのかを説明できない教師)

なずべき説明が、「数値」など客観性がある、誰が聞いても納得できるような明確な説明でないと、多くの人が納得しなくなったという事情もあるのではないかと思います。

「先生の言うことをちゃんと聞いたか、聞かなかったか」「態度が悪い」などは基準として認められなくなったのではないでしょうか。
「>あぐらをかく」というより、そんなのも理由にあるような気がする。

人間は、そもそも客観的な数値で表現できるわけないのになぁ。
正直言って、成績なんて、付ける方も受け取る方も「いい加減さ」を持ち合わせている方が、正常で健康的な気がします。
だけど、日本人が成績や評価に第一に求めたのが、「能力の伸長」ではなく、「公正さ」だったのでしょう。
で、「厳正な評価」を求めた結果が、「マークシートのセンター試験」という、「客観的数値」になったのでしょう。根っこは同じだと思います。
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