考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

受験まっしぐら?

2008年09月16日 | 教育
 高校も最高学年になって秋口にさしかかると就職試験がすぐそこで、大学受験受験準備にも気合いが入ってくることになる。進学校なら、学校行事はさっさと済ませて(←別に、いい加減で良いというわけではない。)、受験体制に入る。毎年のことである。
 で、「受験生になりきれ」などという言葉が聞こえる。(まあ、これ以前からもそうだけど。)これから、受験一辺倒、みたいな様相を示し始めて、まあ、これはこれで良いと思う。フラフラするヤツが出てくると困る。
 しかし、勘違いをして、この教科は受験に関係があるからしっかりやるが、これは受験に関係がないから、と授業に参加しない生徒が出てくるのにはむっとする。相当、腹が立つ。なぜなら、そういう生徒は、学校の授業は受験のため、と思い込んでいるからだ。

 そんなわけない。12月には、定期試験がある。それに落ちたら、卒業できないんだぞ。だったら、授業中にしっかり勉強をするのが一番良い。どうせ試験前には勉強をしなければいけないのだから。それで馬鹿を見たら、ホントに馬鹿だ。

 授業中には、受験に関係があるなしに関わらず、その教科の勉強をしろ、と言っている。定期試験勉強を家でしなくて良いくらいに、授業中にやれと言っている。その方が学習効率も良い。持論がある。(過去記事で書いたっけ?書いてなかったっけ?)理由は2つある。

 一つめ。
 昼間に運動をし続けた人とそうでない人のエネルギー代謝?を比較すると、昼間の代謝に違いが出るのは運動量の違いがあるのだから当然である。ところが、夜、双方共に、同じように静かに就寝していても、運動をする人の方の代謝量は、昼間運動をしない人より多くなると言う。(昔、テレビか何かで仕入れた知識である、たぶん。)実に不思議だが、真実らしい。
 で、私はこう考える。
 運動は筋肉細胞だろうが、脳細胞だって同じではないか、と。
 つまり、昼間、目一杯に勉強をした場合は、夜、眠っている間にもそれこそホントに睡眠学習をしてくれるんじゃなのかということだ。
 どうせ、脳味噌は、我々が意識なく眠っている間も活動をしている。昼間の情報の整理をしていると聞いたことがある。それで、整理する時間がないと、つまり、眠らないとアタマはヘンになるのである。だったら、これを有効活用すべきであろう。で、かつ、上記の代謝量と搦めて考えると、昼間に活動量を増やしておいた方が、夜の活動量も増えるのではないかということだ。だから、受験に関係がない等勝手な理由で大事な授業をいい加減に聞いていたとしたら、あるいは、いい加減にぼーっと「休息」していたとしたら「運動しない人」と同じである。夜の脳の活動量も減るはずである。睡眠中にもたいさん勉強できるように、起きている間は、(もちろん適度の休息は必要だが、)とにかく脳味噌を酷使した方が良いというのが持論である。
 で、「証拠」にならないかもしれないけど(笑)「証拠」もある。ベンゼン環の構造を発見したケクレは夢を見てこの構造を見出した。(ヘルマン・コップの話を引用したという説もあるようだが。ウィキペディアで調べただけ。ケクレ自身書き残していても信憑性に乏しいという話もあるらしい。)しかるに、夢を見て発見した、の類は他にも聞く。(具体例は思い付かないが。)この手の夢は、当の本人が、起きている日中、悩んで悩んで悩み抜いて能を酷使していたからこそ、解答たる夢を見たのではないか。起きているときに何の問題意識も抱いていなければ素晴らしい思いつきに至るような夢を見ることは、つまり、脳味噌が無意識のうちに働いてくれるようなことはあるまいと言うことだ。
 だったら、昼間、起きている間に、しっかりと勉強をすることである。自分では、「目先の学習の効率」を求めて英語の時間に数学をしたりなど、「自分の目先の必要」に応じて勉強にいそしむことを良しとする生徒もいるが、愚の骨頂である。そんなやり方で、真に集中して学習が出来るわけがない。夜中に脳味噌は勉強をしてくれないだろう。

 もう一つの理由。こっちの方が正統派だね。
 学校が「受験のため」にあるのだとしたら、大学受験をしない生徒は高校に入ったら勉強をしなくて良いと言うことになる。(就職試験でも同じだ。)そんな馬鹿な話はない。高校では高校で学習すべきことがある。それをするのが学校の授業である。だから、それをしっかりとせよ。卒業まで、しっかりとせよ。
 以上。

 あ、もう一つあった。
 文系の生徒なら、高校を卒業したら、数学の勉強をするチャンスは、たとえ大学に行けども、まず、無いであろう。理系の生徒ならば、古典漢文などの勉強をする機会は今の高校時代しかないだろう。そう、この機会を逃したら、まず、一生チャンスはないのである。
 岡潔だっけ? 数学の勉強に役に立ったのは俳句か何か数学と全く関係のない世界だったと何かで読んだ(ような気がする)。
 高校の勉強は、どこでどのように関わってくるのかわからない。だから、今学べることは今学ぶしかないのである。

 だから、とにかく受験がどうのこうもいいけれど(←決して否定はしない。大いに肯定もする。)、しかし、授業は授業である。しっかりとやって当たり前、しかっかりやるに越したことはない。それで、夜中も脳味噌に勉強をして貰うようにせよ。

 まだ一つあった。書き忘れていた。
 日本ではほとんどの子どもが高校に進学する。つまり、現在の日本の学校教育制度における実質的な就学期間は12年間だということだ。そのように考えると、高校3年は、残りの半年は12年間の総仕上げ、総括期間である言えるのではないか。だから、君たちは、そのつもりで、残り半年の高校生活を送りなさい、と言っておいた。

 上記、この時期の3年生授業の雑談である。


48 コメント

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「受験のため」という信憑を排除するには? (heisan)
2008-09-17 08:26:18
> 学校が「受験のため」にあるのだとしたら、大学受験をしない生徒は高校に入ったら勉強をしなくて良いと言うことになる。(就職試験でも同じだ。)そんな馬鹿な話はない。高校では高校で学習すべきことがある。それをするのが学校の授業である。だから、それをしっかりとせよ。卒業まで、しっかりとせよ。

日本の大学生が諸外国の大学生と比べて勉強しないというのは、ある意味、「学校は受験勉強をするためにある」という信憑が、過大に根付いてしまったことの結果なのかもしれません。

少なくとも、小学生には(特に低学年であればあるほど)そういう信憑はないですよね。
理由は簡単で、受験勉強をしなくてもいいからです。

低学年の小学生においては、「受験のために」という動機は、そもそも存在しない(最近は受験熱により「する」という話もあるが。)。

受験という「振り分けシステム」を稼動させると、随伴して、かかる信憑が強められてしまう。

かかる信憑を強めることなしに、「振り分けシステム」を稼動させることはできないのだろうか?
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義務教育+高校は非常にお得かつ貴重なシステム (heisan)
2008-09-17 08:27:17

> 文系の生徒なら、高校を卒業したら、数学の勉強をするチャンスは、たとえ大学に行けども、まず、無いであろう。

実はこれ、他のことにも当てはまったりする。

高校を卒業しちゃえば、美大にでも進まない限り、もう一生絵筆を握らないという人も出てくる。
音大にでも進むか、自主的に音楽活動をやってみようと思わない限り、もう一生五線譜を見ないという人も出てくる。
国文学科に進むか、自主的に古典を求めていかない限り、もう一生古文や漢文を見ないという人が出てくるかもしれない。

まあ、古文や漢文は、自然言語の範囲内なので、言い過ぎかもしれませんが、絵筆くらいなら十分にあり得ることです。

実は、高校までの学習課程というのは、「わざわざ求めていかなくても、ある程度の教養が、半自動的に身に付く」という、非常にお得なコースなんですね。

大学は、一度卒業しても、もう一度入って勉強することができますが、高校は、一度卒業しちゃったら、もう入ることができません。
中学校までの義務教育に限ってはもっと制限が厳しくて、一定の年齢を超えちゃったら、もう入ることができない。

一部の大学では、大学の授業についていけるだけの最低限の知識を身につけさせるために、中学校レベルから復習させるという話ですが、よくよく考えてみてください。
なぜ、大学レベルの学費を払って中学校レベルの教育を受けないといけないのでしょうか。
恐ろしくコストパフォーマンスが悪いです。

このように、小中高大という学校システムは、初期の段階ほどお得なんですね。

学校を利用するということを、このように功利主義的に捉えることに、ほりさんはもしかしたら賛成でないかもしれません。

しかし、小中学校のころはまじめに勉強しなくて、社会に出てから、やれ資格だ、カルチャーセンターだ、専門学校だ、と、やるくらいなら、小中学校のころしっかり取り組んでいたほうが、どんなにお得なことかと、ふりかえってみて思うのです。

もちろんこれには逆説があって、大学とか専門学校というところは、自分の懐を痛めること自体が、自身の学習を促進しているという側面もあるので、一概に言えないのですが。
(これも変な話ですよね。経済学的合理主体という観点からすれば、同じ授業を受けられるのであれば、自分の懐を痛めないほうがコストパフォーマンスが高いはずなのに、なぜか、多くの人は、自分の懐を痛めるほうがよく勉強できたりする。不思議だ。もちろん人によるけど。)

私自身も、「できることなら、もう一度小学校(中学校)からやり直したいなぁ」と思うことがたまにありますが、これは制度的にできないんですよね。大学はカネを払えばできるだろうけど。
その意味では、小学校・中学校の授業というのは物凄く貴重な気がします。



それからもうひとつ思うことは、これも改めて考えれば自明なことなんですが、人は、自主的に勉強しない限り、ある分野の知識や技能は「高校で学習したことどまり」になっちゃうってこと。

そのことは、たとえば、「親になって、自分の子どもが学齢期に達し、その子どもの勉強を見て初めて、『ああ、そういえば、こういうことやったわね』と、自分の学齢期時代を思い出す父母方が多い」ことからも容易に想像が付きます。
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「自腹を切る(?)」のがみんな好きみたい (ほり(管理人))
2008-09-17 22:15:29
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>しかし、小中学校のころはまじめに勉強しなくて、社会に出てから、やれ資格だ、カルチャーセンターだ、専門学校だ、と、やるくらいなら、小中学校のころしっかり取り組んでいたほうが、どんなにお得なことかと、ふりかえってみて思うのです。

で、私は、生徒に教科書は捨てるな、と言ってます。教科書ほど簡潔に纏めてある本はない。また、文法の参考書も捨てるなと言ってます。
業者さんの中には、「この文法書は一般の本屋でも売れ行きが良いんですよ。社会人の方が買っていくんです」なんて言ってるときがあります。まあ、その参考書でなくっても、そのうちしっかりと勉強をしたくなったときに取り出せるように、買わなくて良いように、とか。また、いかにふつーの人が、高校時代に勉強をサボっていたか、ということにもなるわけで、君たちは社会人になってから高校の参考書を買わなくて良いように、今のうちにしっかりと勉強をしなさいね、等言ってます。

まあ、「当たり前」の話です。

>なぜか、多くの人は、自分の懐を痛めるほうがよく勉強できたりする。不思議だ。もちろん人によるけど。)

で、これを高校生に当てはめると、学校の授業や安上がりの講習より、塾や予備校に高い月謝を払う方を好んで、尊ぶという真理があるんですよね。高いお金を払った方が、犠牲が大きい方が、失敗したときに後悔しなくて良い、という効果もあるようですね。授業料と言うより、安心料なんでしょうね。

>それからもうひとつ思うことは、これも改めて考えれば自明なことなんですが、人は、自主的に勉強しない限り、ある分野の知識や技能は「高校で学習したことどまり」になっちゃうってこと。

そうそう。
で、私は地学を取ってないので、地学に関する知識は、なんと、「中学止まり」なんですよ。これって、結構苦しいというか、ある程度以上の関心を持つことを封じられる、みたいな感じがあります。プレートや地層の話とかあまり関心が持てない。

生物とか物理だと、けっこう関心を持てるんだけど。
あ、でも、化学もムツカシイかな。掃除用の薬品とか、選べない。酸とアルカリなんて、もう、忘れてるし。近頃、クエン酸や重曹を使った掃除方法が出てるけど、重曹ってアルカリじゃないかとか、一緒に使うとどうなるかとか、全然覚えてない。(今、調べたら、そうだ、炭酸水になるんだ・笑)もう、全然ダメ。化学反応の大部分を覚えてない。モル計算はよくできたと思うけど、日常生活と関係ないよなぁ。。(笑)

今日も↑ベンゼン環の話をしたけど(笑)、CやOの手の数はわからないまましゃべってしまったし。。あ、今、わかった。Cは4つだ。でないと、あの環にならない。で、Hと結びつかないや。(Oは関係ないんだ。絵を描いたときに気が付かなかった私はおバカ。)
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日本人に自立は可能か (heisan)
2008-09-18 01:29:47
いつもお返事をありがとうございます。


> 君たちは社会人になってから高校の参考書を買わなくて良いように、今のうちにしっかりと勉強をしなさいね、等言ってます。

まあ、こういう言葉も、一部の生徒たちには、「なあんだ。高校の参考書程度のこともちゃんと分かってない大人って、けっこういるんじゃん。ああ、安心した。」という風に、勉強しない方向に働くんでしょうねぇ。皮肉なことに。

でそういう子には、ほりさん直伝の「大事なのは、君がどういう大人になりたいかだろ」といくわけだ(笑)。

ここには2つの価値観の闘いがある。

上で取り上げたような生徒たちは、「集団の中での自分の立ち位置が、安心できるようなものであるかどうか」をまず第一に考える。そして、より安心できる立ち位置へと移動しようとする。これが彼らの行動動機である。

しかし、ここには、「そういう風に行動した結果、どういう大人になっていくか」は吟味されていない。たとえば、たまたまその子の周りがシンナーを常習するような集団だったならば、その子もだんだんシンナーを吸うようになるだろう。たとえば、たまたまその子の周りがいじめに加担する子たちがたくさんいるような集団だったならば、その子もまた、いじめに加担する確率は高まるだろう。

そして、その集団から離れて、客観的な立場に身をおいた子どもは改めて気付くのである。

「ああ、私はなんてことをしてしまったんだ。」と。


同じようなことは、たとえば、半世紀前の戦争にも言えるだろう。
いまですら、戦争の悲惨さについては、(多大な啓蒙活動が行われた結果なのか、それとも庶民の本心が世の中に広まっていった結果なのかは知らないけれど)ほとんど万人が了解しているところだろう。しかし、“当時”はきっとそうではなかったんだよね。

「あのころは、そういうこと--敗戦を受け入れてこれ以上臣民の被害を増やすべきではない--が言える空気ではなかった。」とくる。


そんなこと言ったら「いじめ」かておなじやで。

「あのときは、そういうこと--そういうことするのやめろよ、と言うこと--が言える空気ではなかった。」ってね。


大半の生徒がいじめに加担している状況で--この際、直接であるか間接であるか、故意であるか未必の故意であるかは問わない--、それでもなお、

つまり人は、「集団における立ち位置が安心できるものであるか」という観念に囚われるあまり、特定の集団の一時的で偶然的なものにすぎない価値観に依存しない価値観に基づいて行動することを忘れるのである。


むずかしいと思うのは、集団の中での自分の立ち位置が安全であるかどうかを度外視して、自分のなりたい大人像のほうを優先して行動してしまうと、集団に殺されかねないということである。
「どういう大人になりたいか」という観点を忘れた方が、少なくとも一時的には安全が保障されるのである。

現に、なりたい大人像のほうを優先した、果敢な人たちが何人も殺されている。そういう例は歴史を見ればいくらでもある。


よって、私たちは、ここから、「殺されるという最悪の事態を回避しつつ、集団の一時的で偶然的なものにすぎない価値観に支配しつくされてしまうこともまた同時に回避する」にはどうしたら良いかという問いから出発するのである。

それは、「打たれない出る杭になる」こととはちょっと違う気がしているのだが、どういう風に違うかはまだよく分からない。


いまの時点でとりあえず分かることは、ほりさんの「大事なのは君がどういう大人になりたいかだろ」というのは、「集団から自立せよ」「人間関係的に動くな」というのとほとんど同じだということくらいである。

日本人が人間関係的に動かなくなること自体が、非常に想像することの難しい事態であることは論を俟たないわけだが(笑)。

果たして日本人に自立は可能なのだろうか。

可能だとすれば、それは、どのような、ほとんど必然的な変遷をたどることによって、可能となるのだろうか。
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根底には、安易な不条理解決装置から抜け出せないという不幸?がある (heisan)
2008-09-18 01:30:38
> で、これを高校生に当てはめると、学校の授業や安上がりの講習より、塾や予備校に高い月謝を払う方を好んで、尊ぶという真理があるんですよね。高いお金を払った方が、犠牲が大きい方が、失敗したときに後悔しなくて良い、という効果もあるようですね。授業料と言うより、安心料なんでしょうね。

というより、タダだとありがたみがなくなるからではないでしょうか。

先人の教義というのは、これはどんな教義でもそうですが、それをありがたいと心得ることのできない人にとっては、紙くず同然なんですね。
だから、当然に、学ぼうとする気も起きない。

話が飛びますが、信仰心と学問の出現というのは、人類学的にはほとんど同時であったと私は思っているんですね。

そして、その両者を通底している概念が、「あるものを、ありがたいと思うこと」だと思うんです。
人間の本質は、この尊さの感覚にこそ宿るというのが、ここのところの私の信念でありますが、これは、逆に言えば、今回の、塾がありがたくて学校がありがたくないという例に照らしていえば、これは、拝金主義が健全に機能していることの傍証だと思うんですよね。

高い金を納めれば納めるほど、ありがたいものがやってくる。
払う金の多さと、やってくるありがたさの量は比例するという信憑。

この信憑こそは、拝金主義の一つの表現であると言わずしてなんであろうか。



もちろん、たくさん「ありがたいものを頂いたから、そのお返しとして、それに見合うと思われる金銭を奉納する」というのは有りだと思う。お布施とか。

でもお布施は拝金主義の一つの表現ではないと思う。


これは、金銭価値と尊厳価値がどの程度相関するか、という問いが背景として一つあるんですけれども、

お布施というのは、頂いた尊厳価値に対して、自分の心から湧き出でた尊厳価値を、金銭価値に写像して表現する、というもんだんと思うんですね。
ここで重要なことは、「自分の心から湧き出でた尊厳価値」が相手に伝わればよいのであって、金銭の多寡は問題とならない。なぜなら、ここでは金銭価値は、尊厳価値の表現の一手段にすぎないからである。ここでは、相方は、自分が用いた写像(f:尊厳価値→金銭価値)を適切に推測し、その推測を以て逆変換することで、自分の尊厳価値を見積もる、ということをする。

これに対して、高い塾と安い学校の話というのは、「自分のもとに到来する尊厳価値の多寡はなにを変数としているか」という問いに端を発する話である。もとより、この問いは限りなく難しい。だから、この難しい問いは、まず、「この問題は難しいんだ」ということを、しっかりと自覚することから、まずは始めなければいけない。と私は思う。
でも、何人かの、早く答えを出したがるイラチな輩は、「それは、支払った金銭価値を変数としているんだよ」という、それなりにもっともらしい答えに勢いよく飛びついた。

そして、そんな飛びついた彼らは言う、「おれはこれだけ払ったんだから、これだけの尊厳価値を受け取れてしかるべきだ。」「おれはこれだけしか払ってないから、これだけの尊厳価値しか受け取れないんだ。」ってね。

お布施の場合は、たまたま自分のもとを訪れた尊厳価値に対し、「これは、自分のほうもまた、相応の尊厳価値を提供しなければ畏れ多い」と考えてなされる、テイクに対するギブであるのに対し、塾の学校の話の場合は、「いかにして自分のてもとに尊厳価値をたくさん呼び入れるか」が至上命題となっている。

平たく言えば、前者では、「どうやってギブするか」(how to give)が問われているのに対し、後者では「どうやってテイクするか」(how to take)が問われている。

私は、このどちらも重要な問いであると思う。思うがゆえに、借り物の安易な考えでは、その目的は真には達成されないと思う。



あるいは、こうも考えられる。というか、ほりさんが最初に指摘していることに等しいかもしれない。

「これだけ(金銭を)ギブしたんだから、それに見合う(尊厳の、つまりは教育的価値の)テイクが入らなければ、割に合わない」と考えているのかもしれない。

つまり、金銭価値と尊厳価値は比例するということを信じなければ、それは彼らにとって不条理であり人生を生きていけないのである。

それは、無差別殺人事件の被害者の遺族が、宗教に頼ることなく、その事態の到来を静かに受け入れることが困難であるだろうということと、同質のことである。

つまり、「金銭価値と尊厳価値は比例する」という信憑は、(安易な)不条理解決装置なのである。


もちろん私は「金銭価値と尊厳価値は比例する」ということの本質は宗教心である、ということを言いたいわけではない。

むしろその逆だ。

どういうことか。

「金銭価値と尊厳価値は比例する」という信憑を持つことからは、新たな問いが派生しないが、宗教心を持つことからは、無限に問いが派生する。

要するに、前者は問うことをやめている。

私が、さきほど「安易な」といったのはそういうことである。

新たな問いの出現を禁止する信憑や装置は、おおむね安易であると私は呼びたい。
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意外 (heisan)
2008-09-18 01:31:04
> 私は地学を取ってないので、地学に関する知識は、なんと、「中学止まり」なんですよ。これって、結構苦しいというか、ある程度以上の関心を持つことを封じられる、みたいな感じがあります。プレートや地層の話とかあまり関心が持てない。

おや、意外ですね。

地学は、予想以上に「理屈」な分野ですから(記憶力勝負というよりかは、あれとあれがつながって・・・みたいな展開・説明が多いという意味)、きっとほりさんも楽しめると思いますよ。食わず嫌いでは?
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たいていの子供はまともです (ほり(管理人))
2008-09-18 21:47:30
>まあ、こういう言葉も、一部の生徒たちには、「なあんだ。高校の参考書程度のこともちゃんと分かってない大人って、けっこういるんじゃん。ああ、安心した。」という風に、勉強しない方向に働くんでしょうねぇ。皮肉なことに。

「ああ、安心した」はない、と思いますよ。「そんなバカな大人になるな」と私ははっきりと言うから。(笑)それでも安心するヤツは、それこそ、バカです。勝手にしろ。

>つまり人は、「集団における立ち位置が安心できるものであるか」という観念に囚われるあまり、特定の集団の一時的で偶然的なものにすぎない価値観に依存しない価値観に基づいて行動することを忘れるのである。

子供の世界は狭いですよ。学校なら、教師集団の指導が「全体として」(←これ、重要)変われば、あっ、という間に変わる。見事なものです。

大多数の子供はマトモですから、マトモナ子をどうするかが大事。それで、良い雰囲気、良い流れを作ると、集団が変容する。
同じ集団主義といっても、それが、良いものなら問題ないわけで。

まあ、heisanさんは、「日本」と言う大きな社会を問題にしてるのだろうけど、私は、まあ、今は学校という子供たちの閉鎖集団しかアタマにないので、全く別物だと思った方がいいかもしれませんね。

>「これだけ(金銭を)ギブしたんだから、それに見合う(尊厳の、つまりは教育的価値の)テイクが入らなければ、割に合わない」と考えているのかもしれない。

消費者マインドってのでしょうね。ラクレの「オレ様化した子どもたち」で語られていることと同じでしょう。

「お金」だから、give と take になるのだろうけど、日本は、基本的に水(雨)とお天道様がタダの世界だもので、庭先にネギでもゴーヤでも植えておけば、give と takeの感覚は弱くなるんじゃなのかなぁ。まあ、それなりの世話は必要だろうけど。
田舎だと、いまでも、多少の物々交換は生きてるようにも思うけど。「食い物を買う必要がない」となると、たぶん、世界観が変わりますよ。

日本は恵まれた気候風土なのだから、そんな教育をすると良いのにねぇ。(養老先生か。)

>「金銭価値と尊厳価値は比例する」
>要するに、前者は問うことをやめている。

ベクトルでたとえると、比例というのは、「矢印の大きさ」ばかりを問題にする考え方なんですよね。無限の問い、新たな問いという「次元」がない。
テキストを読んでいると、しばしばグローバリズムの話が出てくるけど、嫌だなぁと思う。要は、拝金主義とと言う統一的価値観の思考停止だから。

「地学」って、そもそも何が地学なのかもわからない。
変成岩とか堆積岩とかしか覚えてないからどうしようもない。(笑)
地学は化学の結びつくのかなぁ。。岩石って、化学(熱?)によって生じた物質だから。
返信する
閉鎖集団のなかに留めておくのは・・・ (ゾウムシ)
2008-09-19 01:11:36
割り込み失礼.

>まあ、heisanさんは、「日本」と言う大きな社会を問題にしてるのだろうけど、私は、まあ、今は学校という子供たちの閉鎖集団しかアタマにないので、全く別物だと思った方がいいかもしれませんね。

>日本は恵まれた気候風土なのだから、そんな教育をすると良いのにねぇ。(養老先生か。)

現役の教師が閉鎖集団しかアタマにないのは問題でしょう.

いじめでもなんでもそこが一番の問題だと養老先生はおっしゃられていて,ほり先生ご自身も(養老先生か。)と恵まれた気候風土のことを書かれているのですから.

もちろん,ほり先生が書かれた「閉鎖集団しかアタマにない」という部分の前後の文脈を考えれば安易に考えてらっしゃらないことくらい分かりますから,言葉狩りのようなことはしたくないのですが…

それでも,いかに閉鎖集団に閉じこもっている現代の子供(大人も同じかな)を,外部(自然)に開放していくかが現代の教師の至上命題だと思います.
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うふふ (heisan)
2008-09-19 03:44:22
> 同じ集団主義といっても、それが、良いものなら問題ないわけで。

表面的には問題がないかもしれませんが、根本的にはどうでしょうか?

「生徒一人一人を精神的に自立させることを目標に据えた指導になっていなくても、別に良いじゃん。教師全員の指導方針が一貫していさえすればそれで生徒はちゃんとするんだし。」という風に読めたので。

生徒一人一人が、最終的には精神的に自立することを目指さなければ、学校の外に出てから困る気がするのですが・・・。
(って、おまえは人のこと言えるのかよ、という突っ込みはとりあえず無しの方向で(^^;)


> まあ、heisanさんは、「日本」と言う大きな社会を問題にしてるのだろうけど、私は、まあ、今は学校という子供たちの閉鎖集団しかアタマにないので、全く別物だと思った方がいいかもしれませんね。

最近思ったのですが、安易に「日本」という言葉を使うのは危険だな、と。
まあ危険というほど危険でもないけど。(危険という言葉はなんか強い感じがするよね。もっとやわらかい危険を表す言葉はないかしら?)

どうして、自分以外の日本人もみなそう思うであろうことを断定できるんだお前は、みたいな。
「お前もそう思うよな?」と口では訊ねながら、その語気の中に「そう思わない奴は俺たちの仲間じゃねえ」という含意を込める場合は、ジャイアニズム以外の何者でも無いわけで(笑)。

それから危険だと思う理由はこれだけではなくて、もう一つには、「日本人以外の人を『私たち』としてカウントしないことは、私と同じように考え共感してくださるかもしれない日本人以外の人に対して失礼ではないか」ということですね。

結局、私は、言葉を交わす存在である限り何某かの(私以外の人が少なくとも一人はいる)集団の中で話しているわけで、それゆえに「私たち」という言葉を使うことが許可されるのだが、「私たち」の範囲がどこまでかについて、私は安易に境界を引いてはいけない、のではないか、と、最近考えるようになったのです。

もちろんこれには、「私たち」という言葉のほうが「日本」とかよりも危険ではないか、という反論があり得ます。
「私たち」という言葉は、「日本」という言葉以上に、ジャイアニズム的に作用することがあるからです。

私はいまのところ、以上のような多様な文脈を踏まえた上で、適宜、使用すべき「私たちっぽい言葉」について、判断したいと考えています。




> >「これだけ(金銭を)ギブしたんだから、それに見合う(尊厳の、つまりは教育的価値の)テイクが入らなければ、割に合わない」と考えているのかもしれない。
>
> 消費者マインドってのでしょうね。ラクレの「オレ様化した子どもたち」で語られていることと同じでしょう。
>

消費者マインドでも間違いではないんですが、もっと広く、取引マインドだと言えると思うんですよね。消費者マインドで育ってきた子たちは、自分が売る側に回ったときにも、おなじ判断基準を用いると考えられるから。


> 「お金」だから、give と take になるのだろうけど、日本は、基本的に水(雨)とお天道様がタダの世界だもので、庭先にネギでもゴーヤでも植えておけば、give と takeの感覚は弱くなるんじゃなのかなぁ。まあ、それなりの世話は必要だろうけど。

いやぁ、昔も、飢饉のときは、米を持ってる奴が売り惜しみをするために価格が高騰して…ってことがあったわけじゃないですか。

まあ、確かに、昔は、今ほどお金(これは、米が貨幣であったころは米と読み替えてもらえばいいわけですが)を使わなかったんじゃないか、いまほど頻繁に取引をしなくても良かったんじゃないかとは推測できますけど。

取引の頻度が高まることは、私たちの幸福感にどのような影響をもたらしているのだろうか。



> 田舎だと、いまでも、多少の物々交換は生きてるようにも思うけど。「食い物を買う必要がない」となると、たぶん、世界観が変わりますよ。

ふむ。
これはいわゆる、あれですね、もし日本円の価値が極度に暴落したら、食糧を海外から輸入できなくなって、生活必需品の価格がバカみたいに高騰したときには、「食い物を買う必要がない」人たちは絶対に強いですよね。

失業とか言うけどさ、結局は「食い物は買うことによってしか入手できない」という価値観に縛られているわけで。

もしかかる事態が到来して、失業率がぐーんと上がったとしたら、「どこも雇ってくれない」ことを嘆く前に「自分で食い物をつくる」ことに目覚めるべきなのかなぁ。

でも、国民の八~九割が農民だった時代ですら、地主と小作人という、資本家と労働者みたいな関係がすでに構造的にあったわけで。


私個人の直観的な現在的見解としては、

「資本が利子を生む」という性質を規定している私たちの思考習慣こそが、今日の種々の、定期的に地震の如く訪れる経済的破綻、拝金主義信奉者の増加つまりは倫理の頽廃、などなどの諸々の社会的・経済的な問題の根源を構成しているのであって、この思考習慣、つまりは幻想を、私たち全員が破棄したときにこそ、ほんとうの平和が訪れ、私たち全員が人間的に成長する機会をいまよりは等しく与えられ、私たちの多くにとって、最終的には満足感の高い世界が実現する

というものですが、私たちがすでに持ってしまっている幻想を破棄することは、容易ではありません。というか、少なくともその方法について、私はいまのところ全く思いついていない(笑)。



>「食い物を買う必要がない」となると、たぶん、世界観が変わりますよ。
>
> 日本は恵まれた気候風土なのだから、そんな教育をすると良いのにねぇ。(養老先生か。)

そもそも人口に占める農民の割合が減ったのは、農耕活動のための機械技術の進展により、以前ほど人手を要さずとも以前と同じ生産量を保つことができるようになったからでしょ。
要するに、技術進展により失業した人たちがサービス業へと流れていったという構図になっている。

技術進展する → 一定の人数の人たちが失業する → 失業した人たちは、さらなる利便性の追求のための、新規のサービス業を発明し、人々に提供することで、失業性を解消する → 技術進展する → ・・・ の繰り返し。



> テキストを読んでいると、しばしばグローバリズムの話が出てくるけど、嫌だなぁと思う。要は、拝金主義とと言う統一的価値観の思考停止だから。

「グローバリズムに手放しで賛同せよ」と、価値観を強要されている気がするからかな。
英語学習とグローバリズムが結びつくと、グローバリズムを嫌悪するがゆえに英語を嫌いになっちゃう人が一定数出現しそうで、問題かもしれないと思う。


> 「地学」って、そもそも何が地学なのかもわからない。
> 変成岩とか堆積岩とかしか覚えてないからどうしようもない。(笑)
> 地学は化学の結びつくのかなぁ。。岩石って、化学(熱?)によって生じた物質だから。

もちろん岩石学だけじゃないです。水金地火木土天海冥とか、地球の誕生とか、台風とか、雨とか、熱帯低気圧とか、地震とか、P波とS波とか、津波とか、大陸は動いているとか、南極の何十万年も凍りっぱなしの氷河の中に閉じこめられている空気をしらべることで十万年前の地球のCO2濃度がどれくらいだったかが分かるとか、どうして都市部で発生したフロンガスが南極の真上にオゾンホールを開けるのかとか、そもそもフロンガスはなぜオゾンホールの原因になるのかとか。砂漠化が進む仕組みとか、地球の内部はどうなっているのかとか、地球の内部にはマントルがあり、さらに奥には外核と内核なる構造があることが何から分かるのかとか、外核が液体で内核が固体であるとなぜ言えるのかとか。

こういった現象が生じる仕組みを調べるときに、参照するのは、たとえば、物理や化学でよく知られている法則的なものだったりするわけです。

たとえば、気象だったら、そもそも風はなんで吹くのか。あったかい空気とつめたい空気があったとする。あったかい空気は密度が低い。つめたい空気は密度が高い。だから、つめたい空気のほうからあったかい空気の方へ風が起こる、とか。
赤道付近の海上では、赤道付近以外の海上よりも、太陽光が強烈だから、それによって生じる蒸発もすさまじい。どんどん水分が蒸発するのだが、地球には重力があるので、限りなく上に行くということはなく、一定のところ以上は上にはいけない。上にはいけないからどこに行くかというと横に行く。どんどんどんどん供給されてくるから横にいった奴が今度は落ちてきたりもする。そこで・・・

みたいな感じ。もちろんこれは定性的な説明であって、定量的に解析すると、また別の違った知見が見えてきたりもするわけですけれども。

海底で生じている海流とかも、地学の領域だと思う。

地学って、生物、化学、物理のどれとも近いというようなところがあるんですね。
「だから、大学で地学を専攻した学校の先生は、地学だけでなく、生物も化学も物理も教えられるぜって人が多いんだ」って聞いたことがあります。
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「閉鎖的」の二重性 (heisan)
2008-09-19 03:45:11
>ゾウムシさん

> 割り込み失礼.

歓迎です。


> 現役の教師が閉鎖集団しかアタマにないのは問題でしょう.
> いかに閉鎖集団に閉じこもっている現代の子供(大人も同じかな)を,外部(自然)に開放していくかが現代の教師の至上命題だと思います.

学校が閉鎖的であるということには複数の意味があると思います。

一つは、刑務所や修道院に見られる閉鎖性と同質の閉鎖性。体育会系の色彩が強い運動部や、自衛隊などでもこれと同質の閉鎖性があるものと考えられます。私は、この意味での閉鎖性は、学校にとって必要なものであると考えます。なぜなら、この意味での閉鎖性が消失することは、学校と学校以外の場の境界の消失を、同時に意味するものであると思うからです。
その意味では、学校も刑務所も修道院も運動部も自衛隊も、その本質は「純粋培養」にあると言えるでしょう。

閉鎖性のもう一つの意味は、「教師が学校以外の場について無知であるということ、および、そのこと自体が、生徒の成長を妨げている原因になっていると考えられるということ」であるだろうと思います。

いまの世の中の多くの、その「教師の閉鎖性」を嘆く人たちは、「教師がこの第二の意味で閉鎖的であるがゆえに、生徒の成長が妨げられている」と考えていると私は考えます。

しかし、教師が学校以外の場について無知であるということが、生徒の成長を妨げる原因であるということは、必ずしも自明ではありません。

このことを自明であるとする立場(第二の閉鎖性が生徒の成長の妨害を導くとする立場)から、「職業体験」とか「世の中科」とか「お金の教育」「早期の英語教育」とか言う発想が出てきていると思います。


私の考えは、藤原正彦さんのそれと似ていて、要するに、「一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、あとは十以下」というものです。

大人にとって自明すぎることは、大人自身は自覚していないことが多い。大人にとって自明すぎることは、大人自身は主題化することが少ない。
人間は常に、自分が気になることを主題化するのであり、気にならないことはそもそも主題化しないのである。

この意味において、第二の閉鎖性が生徒の成長の妨害を導くとする主張を行なう人は、「自分が主題化していないけれども、自分のその思考を根幹のところで下支えしているとっても大事なもの」についての認識が薄いように思われる。
まるで、子どもは、そのような大事なものを、まったく学習することなしに身につけることができると言わんばかりに。

当然のことながら、私たちは、その思考の根幹をなす自然言語について、学習することなしに身につけることはできない。

それにもかかわらず、学習することなしに身につけることができるかの如く錯覚してしまうのは、「外国語教育の必要性は叫ばれるけれども母国語教育の必要性はそれほどに叫ばれない」という事象が生じるのと、理由は同じである。

私たちの「母国語が不自由である」という感覚は、母国語の使用の上に成り立つ不自由さに関する感覚よりも、はるかに鈍くつくられている。

私たちはそのことに自覚的であるべきである・・・と言ってしまうと内田先生の受け売りっぽすぎるので、ここでは、であるのかもしれない、くらいにしておこう(笑)。


そもそも私たちは、なぜ自分が日本語を話せるのか、母国語を習得できたのかをちゃんとは知らない。気がついたら話せるようになっていたのだから。

一方で、こうも思う。

社会に出てバリバリ働いて世の中に大きく貢献する人たちが、そういう大事なことについての自覚を忘れるくらいであることは、むしろ、学校の教育が大きく成功していることのあかしなのではないか。

このことが承認されれば、これは、社会での成功者が、教育業界に口出しすることが、いかに害悪であるかということとの根拠になりそうですが(逆に言えば、教育業というのは社会に疎いからこそできるということ)、このことについてはもう少し検討が必要な気がしますね。

というのも、教育業というのは社会に疎いからこそできるのだという考えは、以前私が 酔うぞ 様のところで交わした議論(http://youzo.cocolog-nifty.com/data/2008/03/post_113f.html)によって、部分的にではありますが否定されているので。
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