考えるのが好きだった

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教育と医療・介護は異質

2009年06月13日 | 教育
 先日、ラジオで飲食業の会社社長で、教育再生ナントカの委員かをしていた人が、医療も介護も教育も、自分の家族がそうしてもらいたいようにすることが大事だ、みたいなことを言っていた。
 医療と介護は、そうだろうけど、教育、殊に公教育を、「自分の子供にして貰いたいようにする」というのは、大きな間違いだ。

 医療と介護は、個と個の関係である。医者に診て貰うのに、あるいは、お風呂の介助をして貰うのに、集団で同時に診て貰ったり、手伝って貰ったりすることは決してない。不可能である。医者に行けば、たとえ3分間診療と悪口を叩かれるような医療現場であっても、その3分間は、医者は必ず「1対1」で診てくれているはずだ。患者を二人並べて同時に、あるいは交互に聴診器を中てることは、集団検診でも決してない。

 しかし、教育は異なる。(習い事は別。)教室を見よ。議論形式であろうとなんであろうと、学校が1対1の場でないことがわかるだろう。学校は、あくまでも「集団」を扱う場なのだ。だから、トイレの時間も決まっている。様々な制約がある。「自分がこうしたい」と思うことが必ずしも叶うわけではない。しかし、多くの人は、誤解をする。国語の時間や算数などの教育課程のみならず、時間割どおりに動くという行動様式、体育の競技がたとえ選択制であったとしても、選択肢にないことは出来ない、つまり、強制されたものでしかないことに気がついていないから、そういった強制を無意識的に自らすんなりと受け入れてしまっていることに自ら気がついていないのである。それで、何かしら好みに合わなかったり、引っ掛かることが生じると、「これこれ出来ないのはおかしい。」「もっとこうこうだといいのに。」となる。そういえば、あるとき生徒が「アメリカの学校はもっと自由なのに、この学校は自由がない」と言っていた。だったら、アメリカの学校に行けば良いのである。アメリカの学校を選択する自由は十二分にあるから、利用すればいい。(←わかって書いてるからね、念のため。)
 もちろん、そこに集ったメンバーが総体的にどのような性質を持っているかによって、集団のルールは異なってくる。だからといって、全ての生徒の願望や要望に応じることができるわけないのが、集団生活を送る学校というところである。もちろん、集団生活という意味では、介護の現場や入院生活などにおいても自ずから制約が生じる。それでも、対応するメンバーがその人一人一人に応対する分には、必ず、1対1で、それが真の目的にかなっているから、こうなる。

 ところが、学校教育、もっと言うと、公教育の真の目的は、実は、決して一人一人の要望や願望、才能を伸ばすことではない。そんなのムリに決まっているし、税金を投じて行っていることに、個別の欲望を反映させるのは変な話であろう。公金を個人の個別の目的に使用するのは一種の「公金横領」じゃないか。
 学校教育の目的は、総じて(←この語、もの凄く重要ね。)個別の才能などの開花や欲望の達成ではないのだ。メンバーが、学校を出たときに、社会の構成員として、社会をそれなりにうまく回していく、これが最大の目的であろう。ゆえに公金が使われる。読み書き算数は、社会全体のために必要なのだ、とか、今の社会をそれなりに回して行くには、読み書き算数だけでは足りないから、もっと高度の学力を持つ人間が必要だ、よって、そういった人材育成のための高等教育機関を作ろう、ということになる。それがたとえば、「今後の社会にもっと科学者が必要だ」という社会の要請で、「じゃあ、理科数学の得意な生徒を捜して才能を伸ばして、後々、社会に出てからあちこちで貢献して貰おう」ということになるだけの話である。「この生徒が理科が好き♪だから、科学者になって貰おう」は、本質を離れての言になる。この違いは重要だが、最も誤解が大きくなる、思考の「落とし穴」であろう。「どう違うの?」と思われる人もみえるはずだ。「穴」の意味は違うが、養老先生の言う「仕事は穴埋めだ」である。したい、させたいからするのではない、ということだ。

 それで、今の学校教育は、家庭など個別の視点で「自分の子供が、或いは、『私』が社会で有利な場にいることができるように」に目的が歪曲化している。そこに、学校そのものが、なんだかんだの理由(書くのが面どーだから、書かないけど。今までも書いてるし。)でこの考え方に与する教育を行おうとしている、行っている。本来は、「社会の要請」があるのにもかかわらず、なのに。

 ところが、これがまた問題なのだ。
 「社会の要請」は、非常に漠然としたものだから、実のところ、ワケがわからない。それで、庶民(偏差値55の納税者)の理解を得やすい、「グローバル化」だの何だので、勝手に未来社会を描き出し、「話せる英語が必要だ。だから、小学校英語」などに話が飛ぶ。ホント、飛ぶ。そこに偏差値55が飛びつく。「社会」が非常に漠然としたものであることを忘れている。だから、具体的な話に飛びつく。具体的な方が誰にもわかりやすいし、経済効果もあるから、飛びつかせたいものでもあるし、飛びつきたくもなるのが現実である。

 もう少し、腰を据えて、ものを見たらどうなのだろうと思う。
 この間、野村監督が良いことを言っていた。野球の選手であるまえに、まず、人間であることを考えさせるとか、なんとか。「生きること、存在すること、その上で、どう生きるか」と。前提としての「生きること、存在すること」があるからこそ、「どう生きるか」が生きてくる。この点、今は、重厚な前提なしに「どう生きるか」だけがある。だから、生き方が短期的なただのハウ・ツーになる。就活、婚活もそうだろう。それで、人が死んだりすることになる。

 話が逸れたけど、まあ、子供、病人、老人は、全て「弱い存在」として社会に存在する。教育と医療、介護が一緒くたにされる誤解が生じがちになるのはだからだろう。

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