(要約)子供に酒飲みの真似なんかさせるんじゃない。子供は大人より、遙かにずっと賢くなれる存在なんだよ。
「教育ブログランキング」を知って、うろうろ人様のブログを覗いていたら、ある教員の方のブログに商品広告が出ていた。子供向けビールらしい。私はその文言を、「子供だって大人と同じようにビールを飲んで憂さ晴らししたらどうですか」という提案であると読んだ。
拝金主義が見え隠れする「ビジネス」という意味では「冗談」の「面白い商品」かもしれない。しかし、こんなの、有りか? ネーミングが良すぎる、というか悪すぎるというか。。(まあ、世の中を見渡せば、これだけじゃないし、子供用化粧品よりまだましかもしれないけれど。)しかも、この広告を載せている人、教員だよ。何考えてるのだろう? どういうつもりなんだろう?
むかし、紙巻きたばこの形をしたチョコレートがあった。子供の頃、食べた覚えがある。ちょっと口に挟んでたばこを吸うまねごとをしたりもした。禁煙ブームの昨今、さすがに目にしないが、その商品もこの類か? でもちょっと違うんじゃないか。ニコチンがないのは当たり前だが、チョコレートのたばこから煙は出なかった。だから大人のものまねにはならなかった。
このビール、本物のように泡も出るらしい。食事時、お父さんは本物を飲む、子供はこのビールを飲むって訳か。それとも飲酒運転しないための実は大人用ビールなのか。なにせアルコール0%だもので「安心」らしいから。
ただ思うのは、子供には、徒に大人のまねごとをさせて欲しくないのだ。(もっと品よくあって欲しい。)
大人は晩酌のビールでその日の疲れを取る、子供だって疲れるだろう、だったら、大人と同じようにビールで疲れを取ろうじゃないか、法律で禁止されているアルコールは0%だから何の問題もない、良いじゃないか、---この商品のコンセプトはこう言ったところだろう。つまり、実体あるもの(ここではアルコール)さえ制限すれば、行為の形は問題にならない、大人も子供も同じように「ビールを飲む」という行為をして構わない、という荒っぽい発想が、この商品の根底にある。
ちょっと見方を変えると、アルコール飲料さえ飲ませなければ、子供を居酒屋へ連れて行って構わないだろうというのと同じである。(で、現実に、そうしている親もいるらしいが。)それでいいのでしょうか?ということだ。
これは子供の特質を蔑ろにしていやしないか。こんなバカな話はない。
子供は大人と違う。子供は小さい大人ではない。ある意味で、大人とは、「完成されたものとして(だから責任能力が問われる)、基本的に現状維持ができれば良い存在」と定義できよう。しかし、子供は「未完成のものとして、現在の状態より、精神的にも身体的にも大きく良くならなければならない存在」であるという点で大人と大きく異なり、責任能力は問われず、社会的には庇護される。
だから、彼らに「今のままで良いんだよ」は禁句で、行動や行為は当然ながらより優れた方向を向くべく制限を受ける。家庭においては親から指図を受けて多くを学びとらなければならない。また、「学校」という特殊な場において、一般社会と全く異なるシステムで、家庭で施せない教育を受けなければならないのである。
子供は、長い成長期を通して学び続けるべきものだが、そのためにまずなすべきは、身体で、形を通して、学ぶ姿勢を獲得することである。その基礎がなければ、その後の歳月は無為にさえなろう。「大事なことだから」と言うよりはむしろ「お父さんの言うこと」だから大事に聞かなければならないのであり、「教室ではとにかくじっと座って(=気ままにせずに)」話を聞かなければならないのである。あくまで「聞く」という行為そのものを通して、「気ままにしない」という行為そのものを通して「学ぶとはどういうことかを身に付けること」が大事なのだ。(それで、おそらく子供は自己を外界に開く姿勢が身に付くのだろう。)そうでなければ、子供は継続的に自己を向上させることはできなくなる。
だから、子供は完成された大人の上っ面をまねてはいけないのである。いくら「大好きなお父さん」がしていることであっても、一線を引くべきことがある。子供は、成長すべき存在として、ある意味で大人より優れていなければならないのだ。よって、「ビールを飲む」という向上心からほど遠い大人の現状維持行為を真似ることは実に浅はかな行為なのだ。(ビールを口にするという物理的行為で人が立派になることは決してない。酒の道を究める、なんてのはまた別の話ですよ。)これは子供から逸脱を意味し、その段階でその子供は既に子供でなくなってしまうのだ。
小学生がそのまま精神的に発育せず20年、30年たったとしよう。身体は大きくなっても心がそれに伴っていなかったら、そういう人の集まりで社会が構成されるとしたら、一体暮らしの現実はどうなるか想像してみると良い。
成人しても(就学者はまた別よ。)社会的に自立できない「大人」は現に今の社会に存在している。2,30年後に親が死んで彼らが中高年になった時、一体社会はどうなるのか。
私はこの問題と同根だと思う。
(実際的な問題としても、子供は炭酸飲料を飲むとそれだけでお腹がいっぱいになっちゃって、ご飯が食べられなくなっちゃうよ。だから、この商品は、禁酒ビール大人用として売ってくださいね。)
「教育ブログランキング」を知って、うろうろ人様のブログを覗いていたら、ある教員の方のブログに商品広告が出ていた。子供向けビールらしい。私はその文言を、「子供だって大人と同じようにビールを飲んで憂さ晴らししたらどうですか」という提案であると読んだ。
拝金主義が見え隠れする「ビジネス」という意味では「冗談」の「面白い商品」かもしれない。しかし、こんなの、有りか? ネーミングが良すぎる、というか悪すぎるというか。。(まあ、世の中を見渡せば、これだけじゃないし、子供用化粧品よりまだましかもしれないけれど。)しかも、この広告を載せている人、教員だよ。何考えてるのだろう? どういうつもりなんだろう?
むかし、紙巻きたばこの形をしたチョコレートがあった。子供の頃、食べた覚えがある。ちょっと口に挟んでたばこを吸うまねごとをしたりもした。禁煙ブームの昨今、さすがに目にしないが、その商品もこの類か? でもちょっと違うんじゃないか。ニコチンがないのは当たり前だが、チョコレートのたばこから煙は出なかった。だから大人のものまねにはならなかった。
このビール、本物のように泡も出るらしい。食事時、お父さんは本物を飲む、子供はこのビールを飲むって訳か。それとも飲酒運転しないための実は大人用ビールなのか。なにせアルコール0%だもので「安心」らしいから。
ただ思うのは、子供には、徒に大人のまねごとをさせて欲しくないのだ。(もっと品よくあって欲しい。)
大人は晩酌のビールでその日の疲れを取る、子供だって疲れるだろう、だったら、大人と同じようにビールで疲れを取ろうじゃないか、法律で禁止されているアルコールは0%だから何の問題もない、良いじゃないか、---この商品のコンセプトはこう言ったところだろう。つまり、実体あるもの(ここではアルコール)さえ制限すれば、行為の形は問題にならない、大人も子供も同じように「ビールを飲む」という行為をして構わない、という荒っぽい発想が、この商品の根底にある。
ちょっと見方を変えると、アルコール飲料さえ飲ませなければ、子供を居酒屋へ連れて行って構わないだろうというのと同じである。(で、現実に、そうしている親もいるらしいが。)それでいいのでしょうか?ということだ。
これは子供の特質を蔑ろにしていやしないか。こんなバカな話はない。
子供は大人と違う。子供は小さい大人ではない。ある意味で、大人とは、「完成されたものとして(だから責任能力が問われる)、基本的に現状維持ができれば良い存在」と定義できよう。しかし、子供は「未完成のものとして、現在の状態より、精神的にも身体的にも大きく良くならなければならない存在」であるという点で大人と大きく異なり、責任能力は問われず、社会的には庇護される。
だから、彼らに「今のままで良いんだよ」は禁句で、行動や行為は当然ながらより優れた方向を向くべく制限を受ける。家庭においては親から指図を受けて多くを学びとらなければならない。また、「学校」という特殊な場において、一般社会と全く異なるシステムで、家庭で施せない教育を受けなければならないのである。
子供は、長い成長期を通して学び続けるべきものだが、そのためにまずなすべきは、身体で、形を通して、学ぶ姿勢を獲得することである。その基礎がなければ、その後の歳月は無為にさえなろう。「大事なことだから」と言うよりはむしろ「お父さんの言うこと」だから大事に聞かなければならないのであり、「教室ではとにかくじっと座って(=気ままにせずに)」話を聞かなければならないのである。あくまで「聞く」という行為そのものを通して、「気ままにしない」という行為そのものを通して「学ぶとはどういうことかを身に付けること」が大事なのだ。(それで、おそらく子供は自己を外界に開く姿勢が身に付くのだろう。)そうでなければ、子供は継続的に自己を向上させることはできなくなる。
だから、子供は完成された大人の上っ面をまねてはいけないのである。いくら「大好きなお父さん」がしていることであっても、一線を引くべきことがある。子供は、成長すべき存在として、ある意味で大人より優れていなければならないのだ。よって、「ビールを飲む」という向上心からほど遠い大人の現状維持行為を真似ることは実に浅はかな行為なのだ。(ビールを口にするという物理的行為で人が立派になることは決してない。酒の道を究める、なんてのはまた別の話ですよ。)これは子供から逸脱を意味し、その段階でその子供は既に子供でなくなってしまうのだ。
小学生がそのまま精神的に発育せず20年、30年たったとしよう。身体は大きくなっても心がそれに伴っていなかったら、そういう人の集まりで社会が構成されるとしたら、一体暮らしの現実はどうなるか想像してみると良い。
成人しても(就学者はまた別よ。)社会的に自立できない「大人」は現に今の社会に存在している。2,30年後に親が死んで彼らが中高年になった時、一体社会はどうなるのか。
私はこの問題と同根だと思う。
(実際的な問題としても、子供は炭酸飲料を飲むとそれだけでお腹がいっぱいになっちゃって、ご飯が食べられなくなっちゃうよ。だから、この商品は、禁酒ビール大人用として売ってくださいね。)
要は、子供を子供として扱うのが、めんどーなんですよ。気を遣って特別に扱わなければならないから。
でも、大人に対するのと同じようにふつーに応対すれば一人前扱いしているわけだし、文句を言われる筋合いなんてあるわけない、という論拠?でしょうね。
子供だって、「一人前扱いしてくれた」、「人格を認めてくれた」と勘違いして嬉しがるわけだし。両者、良いことずくめですから。。。
>>すぱっと言って
身近では、「和」を乱す奴だと思われているはずです。(苦笑)今は多数決の時代です。