考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

行政による「統廃合」と「母校」という感傷(たぶん、書けた。)

2007年08月03日 | 教育
(書き足していったら、長くなりました。でも、大分、すっきりさせたのでわかりやすくなっていると思います。大体これで良いかな。誤字脱字、てにをはの間違いなどはまだちょっとあるとおもうけど。あー、7600字だよ~。)

 人口減少社会において、これまで必要だった「学校」の一部が不要になってくるのはものの道理である。行政側から見れば、具体的にどの学校を存続させ、どの学校を廃校にするかは、実は全く問題でない。現在のコドモの教育を賄うことが出来るだけの学校、つまり、設備、人員さえ整っていれば良いだけの話だから、要は「数合わせ」に尽きる。もっとも、「質」を考慮して多少なりとも人員の余裕があればそれに越したことはない。しかし、この「ご時世」では最小限に抑えれられそうなご様子である。
 
 私は公立高校教員だから公立高校に限って話をする。(義務教育の選択自由化制度や大学などについては問わない。)
 方法は、「学級減」か「学校の統廃合」であろう。公立高校の場合は、学級減には限りがある。それよりもむしろ「統廃合」の方が効率が良い。1学年3学級などという高校(専門学校的な存在は省く。)は存在しえない。教科・科目の教職員、それなりの設備が多種類必要になるから、ある程度以上の学級数がないと経営的に非常に非効率になるからだ。(理科だけでも、物理・化学・生物・地学、地歴公民でも、日本史・世界史・地理・政治経済・倫理その他で、教員だけで一体何人必要か。教室設備もそうである。)だから、小規模の小中学校は存在しても、高校は存在しない。

 もしも小規模な高校を存在させたかったら、中高一貫教育を行わなければならないだろう。その場合、教員は、専門教科に関しては中学の勉強から高校の勉強まで全てを網羅し、10代前半のコドモの扱いから後半に至る思春期全てのコドモを扱う能力も必要となる。
 しかし、これには問題があると思う。
 専門教科に関する知識で言えば、中学と高校では知識の密度がはっきり言ってかなり異なるからだ。例えば、中学・高校の教員が一緒に英語研修を受けると、「平均的に」言っての話だが、語彙力を始めとして英語力に明確な差が出る。(私なんて、高校の「英語」教員としてへっぽこだが、それでも、中学の先生に比べると、ちょっとやっやこしい語彙力その他では私の方が多分高いのではないかと思うことがある。教員になり立ての頃は同じだったかもしれないが、毎日扱う教材の違いが日々蓄積しての結果である可能性は高いものの、でもやっぱりそれだけでもないようなモノも多少感じる。まどろっこしい表現だけど。)
 コドモの扱いにしても、まだまだあどけなさの残る中学1年と大人に近い高校生では全く異なろうものだ。つまり、それぞれに、「専門性」があるということだ。(こんなことを言うと、一部の「塾」の先生は、「なんと甘い」とおっしゃるだろう。しかし、生活全般の諸指導から学習内容まで、しかも、毎日毎日顔を付き合わせるわけだから、その点はいかがなものでしょうか。しかしまあ、今の私には推測できないので、もし、何かご意見があるようでしたら、お伺いした上で是非を考えたいと思います。)
 よって、選抜無しで中高一貫教育を行う場合、「大学入試」までを考えると、持ち上がりで教科担任制を取るのは、私はかなり大変なことではないかと思う。(それこそ、前に書いた記事、長年の高校の先生といえど、トップ校で東大補習をやれと言われてやっていけなくなった先生だっているのだ。)まあ、どこの世界にも必ず「極めて優秀な方」がお見えになるものだ。しかし、数十万人の公立学校教員の全員にその方々に見合う能力を求めるのは(今の給料では・笑)無理であろう。人間の能力は基本的に正規分布しかしない。

 で、高校の場合は、「統廃合」が手っ取り早い「学級減」の方法になる。となると、問題は、「具体的にどことどこを統廃合し、どこを存続させるか」ということになる。
 好都合?なことに、数多ある高校の中には「志願者減」が起こり、定員を満たさない事態が生じる学校がある。これが「定員減」に繋がり、近隣にそのような学校が2つあればもっけの幸い、「統廃合」になる。
 「志願者減」が起こる学校の多くは、おそらく(←推測。しかし、保護者や生徒本人の気持ちになってみても容易に想像が付くであろう。)「荒れた学校」「教育がうまくいっていない学校」であろう。3年間行って「卒業証書だけ」が目的となる学校であろう。「仕方がないから行く」「勉強もクラブも興味がない」と思う生徒が多く存在する学校である。これはまた、近隣の地域に見放された学校でもある。なぜなら、どこの地区であっても優秀な生徒は存在する。が、その学校に近隣地区の優秀な生徒が進学していないというのは、地区に見放されたということなのだ。

 で、「良い学校」は存続する。ならば、「良い学校」がどういう学校かを考えよう。一つは、進学。どんな時代であっても、保護者や生徒本人に学習意欲の高い層は必ず存在する。より高い学習能力、より高い教育を受けたいという欲求を満たす学校である。もう一つは、「伝統」である。学力そのものは、そう高くはないが、地域に密着し、繋がりが強く、卒業生が近隣に多くいて、地域全体から「おらが学校」として大事にしよう支えられている学校である。
 前者は、言わずもがな、大学進学を目指し、それも全国区の大学を目指す者が多数を占める学校であろう。政治家から企業経営者、医者などを多く輩出する学校である。基盤たる人口が少なければ、卒業生は地元で数多く活躍するだろうが、間違いなく、全国区で活躍する者が出てくる学校である。
 後者は、前者ほど入学は難しいわけではない。しかし、例えば、成績がちょっと良い中学生が他地区の「より良い」学校に行こうとするのを阻止する力を持つ学校である。「止めろ、○高でいいじゃないか。○高も良い学校だ。わざわざ金と時間を掛けて遠い△学校に行く必要はない。通学に時間がかからない分、部活でも勉強でも何でも出来る。その方が有意義だ。△高に行ってムリするより、○高にしろ。おじちゃんもあそこのおばちゃんもみんな卒業生だ。同窓会は楽しいし、いいぞ~。第一、父ちゃんが卒業生だ。親の学校へ行け。勉強を頑張りたいのなら、頑張ればいい。おまえ次第だ。」などなど。近隣にそんな考え方をする人が多ければ、「入れれば、地元の○高へ行くのが当たり前」「地元の○高に入るために勉強を頑張る」「○高は誇り」となって、地元のコドモの「憧れ」になる。こうなれば、多少成績が良いからと言って、他地区の学校に進学する者は少なくなり、生徒の質(躾でも学習でも)もそう悪くなろうはずがなく(他地域から質の悪い生徒が入ってくる分の余裕がない)、近隣の人の目も温かく、しかし、時にはかなり厳しく学校を見守ってくれる存在となる。

 前者と後者は明確に区別できるわけではない。進学と伝統を兼ね備えた学校も多い。しかし、これもまた弱点があって、「伝統」がある種の学閥を生み、排他性から「ちょっとおかしいんじゃないか」と何らかの弊害が散見されたりすると他の学校の優秀な卒業生から「妬まれる」状況を生むところとなる。これまた潰れる(というか、潰される)遠因になる。地域独自の「教育制度改革」によって「伝統ある進学校」としての地位が揺らぐ事態が生じてくる。

 学校の「伝統」というのは、実にやっかいなものである。ここで言う「伝統」とは、例えば学校祭で何々をする、などという細かい伝統、伝統的慣習といったものではない。それらが積み重なった上で卒業生や地域を結びつけるパイプのような「伝統」である。この「パイプ」は、良くも悪くも働く。良い方向に働けば、地域全体が活性化する。悪い方向に働けば、パイプだけが潤うことになる。
 しかし、これが学校の統廃合に、実は陰で非常に大きく「顔」を出す。だから、卒業生が社会的存在としてしっかりしていない学校、卒業生が愛着を持たない学校は、統廃合の危機に瀕する。たとえ進学そのものはそう悪くなかったとしても、パイプのような「伝統」の裏打ちのない学校は、その憂き目に合いがちになる。なぜなら、制度改革の主も、必ずどこかの学校の卒業生で、「潰しても気にならない学校」と「潰すには抵抗を感じる学校」があるだろう。時に、「出来れば潰してやりたい学校」さえあるかもしれないと想像することもできる。

 なぜなら、「人間」だからだ。
 人間だから、「感情」と「過去」に囚われ、「過去」が「現在」に繋がりを持って意味を持つ。
 ちょっと関係ないけど、お札が一新されたとき、1万円札の福沢諭吉だけは変わらなかった。当時の総理大臣は小泉さんである。彼はKOだ。何かで読んで合点した。まあ、そんなものである。

 「本当は入りたかったけれど入れなかった学校に対するちょっとした恨み」「在校時はイヤだったけれど、卒業して初めて分かったありがたみ」「同窓会は仲の良い友達だけで集まればそれで十分だと考える卒業生」「在学時は楽しかったが、卒業してから感じる物足りなさ」それぞれの思いが、数多ある学校の「統廃合」「生き残り」という「現在の判断」にその根底において影響を及ぼすのである。

 10代の生徒にとっての「学校」は「現在の生活そのもの」である。楽しいことが多ければ良いだろう、意義を感じればいいだろう、辛いのはやっぱりイヤだろう。
 学校が自分が何かをする際の「手段」のような存在だと考える生徒もいるだろう。「卒業証書さえもらえれば用はない。」「安あがりで行きたい大学へ進学させてくれればそれでいい。」それぞれの思惑は異なる。それが「民意」や「顧客の要望」として、これに応えることが学校本来の使命だと学校の経営者(管理職)が思えば「命取り」になるだろう。(もちろん、これとは別に何らかの真っ当な(=普遍的な)教育理念あれば、また別の話にもなる。)

 人は年を取る。年を取れば思いは変わる。自分の人生を振り返ったとき、何年か過ごした「学校」が今存続しているか否か、何となく気になるときが出てくるだろう。そのとき、「今はもうないんだ」と知ったとき、幾ばくかの寂しさを覚えない人はいないだろう。というか、この寂しさを覚えない人の人生は、そうである人と比べていくらか豊かさに欠けるのではないかと私は思う。
 それで、こういった感情を育てるのも当の「学校」だったりするのがまた奇妙と言えるが、やむを得まい。学校で教えられている「勉強」とは、過去の遺産を現在に繋ぐものだからである。まともな勉強をまともに教えている学校ならば、そういった感情を「自分自身の内なる感情」として生み育てて当然なのだ。
 「今もある。かつての自分と同じように10代の若者が青春時代を過ごしている」と感じることができるのはある種の人生の喜びではないか。

 若い卒業生には思いが至らないだろうが、ある程度老いた卒業生が「母校」の持つ意味を知る。日本の社会独自の「感傷」かもしれないが、それは確かに存在する。(だから、福沢諭吉の肖像が今も壱万円札を飾っているのである。)それが「同窓会が口出しをする」ということにもなる。現場の教職員にとって嬉しいこともあれば、耳が痛いこともあろう。で、イマドキならば、多くは耳が痛いことだろう。しかし、これは「まともな同窓会」である可能性も高いだろう。

 話は元に戻る。
 教育行政側にとっての学校の統廃合は、前に書いたように「数合わせ」に過ぎない。しかし、その可否を負っているのは大方は、実は現場の教職員なのである。これはかなり過酷な話ではないか。行政にとっては、どこでも良い「数合わせ」の始末を、現場同志に勝手に競い合わせることで片を付けようとしているということだ。差詰め行政はゲームの傍観者で、現場はコマ(学校)というワケである。それで、使えるコマと使えないコマを分別し、使えないコマを統廃合するという方策である。しかし、コマとしての教員は、その後余所で使えば良いわけだから、後始末に気を遣う必要はないというオマケまで付いている。

 学校が地元の学校としてモノのわかる住民と心を通わせて教職員が頑張れば(頑張らせられるから)生き残る。ものの分からない地域住民ならば、学校はその使命を閉じる。単純に捉えればそれだけの話で、実は、教職員の主体性とは根本的には何ら関係なく「地域住民の努力」が学校の存続の根底に関わる。それで、閉じる学校も存続する学校もある。これ、実に本来的に「教員の力でない」のがミソである。(教員が主体性を握ることがないと言わない。しかし、ざざぁ~と見る分に、余程の力量を備えた教職員集団でないとなかなか難しいことだと思う。)

 しかし、同じ地域住民であっても、状況次第で学校に対する思いは変わる。それまで何の関係もないと思っていた学校が荒れたり良くなったりすると、地域の生活環境が変わるからだ。どう見ても柄が悪そうな生徒が他地区からも入ってきて我が者顔で街を跋扈するのと、きりりとした姿で街を歩き、率先して挨拶をし町内美化にも心がけてくれる生徒がいるのとでは、住民の意識が変化して当たり前だろう。(しかし、学校近隣の駄菓子屋などの反応はまた異なることがある。行儀が悪い生徒が多いと売り上げが伸び、行儀が良い生徒が多いと売り上げが伸びないから、「堅苦しい」だのなんだの、悪口になる場合がないと言わない。)これは、いわゆる「伝統」とはまた違った尺度である。特に歴史のない学校が今後どう変わるか、生き残るか残らないかに関わる重大事項になろう。しかし、地域住民にしても、「学校が地域に与える影響」には意外に気が付かないものなのだ。
 だから、学校がどういう教育理念で教育を実践しているかを説明するのとしないのとで理解が異なり、地域の学校に対する愛着や意識は変化する。(よって、それなりの説明ができる教育理念を持たない学校は見放されるのである。)ここで、初めて「学校」の出番になる。
 それで、これら全ての責任が、今は「現場の学校」に負わされ、意外に「生き残り」が決まる。端的に言えば、やる気のある管理職とある程度の数のやる気のある先生が集まって地域を巻き込んで学校を活性化すれば学校は生き残る。そうでなければ残らない。
 公立高校の「生き残り」とは、たかだかその程度で、要は、地方公共団体(最大のもの)が「自然のままに任せているか--地域住民の意識に任せている」からか、あるいは、「今後どのように育て上げていくべきかの大局観がない」から取れる方策なのだ。

 おかげで現場は、学力低下だの、進学率だの、○○大学○人合格といった表面的な価値に右往左往せられ、そう言った「数字」を「生き残り」の道と思わされて、言わば「数字合わせ」のような教育が施されることもある。人目を引く「数字」が一人歩きし始め、その異常さに気が付かない教育が行われている現実がある。(伝統あるトップ校でもそうである。)公立高校の「生き残り」は、奇妙な「競争原理」により異様な混乱をもたらしていると言える。
 進学でも部活動でもあらゆる点において、ドングリの背比べのような、しかもちんけな競争ばかりをさせられ、その結果がさも「生き残り」に掛かるかのような錯覚を伴わさせられ、学校の教育全体を狂わせているのである。この悪影響は実に計り知れない。現場の教員自身が目先の効果や結果に囚われ、気が付いてないという恐ろしささえあるからだ。(まあ、日本中がヘンだから、という言い訳も成り立つけれど。)

 混乱をなくす方法はある。どうせ「数合わせ」である。長期的に見て存続させる学校と統廃合させる学校を、「現在どのような状況であるか」だけの判断で(もちろん、長期的な見通しが出来ればそれに越したことはないが。)早いところ行政が決めてしまうのである。
 気をつけるべきことは、地域や同窓会が口出しをしそうなところは統廃合の対象から必ず外すことである。これは自然の摂理のようなモノで何より肝要である。歴史の新しい古いは考慮しない。多少歴史の浅い学校であっても、五月蝿そうな同窓会をもち、地域住民から存在を認められている学校は必ずや避けるべきである。ちゃんと残す方向で「有能な人材」を送らなければならない。しかし、ここと狙いを定めた学校には、教育理念を持たない管理職(=事なかれ主義の保身に走る管理職、何に対してもOKのサインを出す管理職)と時流にあった考え方をする教員、陳腐な個性を個性と捉える教員を集めて送り込む。その学校は、必ず悪くなり、やがて統廃合の対象になるだろう。その学校には、間違っても、真っ当な教育理念を持つ人材を5名以上送ってはならない。5人いれば学校は変わる。当てが外れて話が振り出しに戻る。(これは大いに注意すべきである。笑)

 また、上記のような「無能な管理職」を等しく「存続させる学校」、「統廃合する学校」に機械的に順繰りに送ってはいけない。(苦笑)せっかくまともな管理職の元でまともに育ってきた現場が混乱するだけである。(学校なんて、はっきり言って管理職次第なのである。管理職が、その学校の教員をどう育てるか、どう評価し、使うかで学校は変わる。)なぜなら、管理職が誤った決定を行えば、かかる学校を悪くする危険性をもたらすからだ。存続させたい学校でこれがおこっては元も子もない。教育の質がその地方公共団体の全域で低下することになるからだ。それくらいだったら、残す学校と淘汰する学校を分けた方がずっと良い。被害者数は少ない方が良い。(で、「自分が被害を受けている」ことに気が付く人は、生徒・保護者、教員ともに、まずいないという現実がある。教員について言えば、その方が「水が合う」場合だって多いのだ。だから大丈夫。誰も気がつかないことは「起こってない」に等しい。)
 ただし、この方策の最大の問題は、残すべき学校に見合うだけのまともな管理職の数が揃っているかどうかと、(←ひどいこと書いてるねぇ。)潰すべき学校にいるまともな教員が迷惑を受けること、そこに配属された若い教員がダメ教員になるということだろう。(新任時の実践的教育は大事である。まあ、次の学校で叩き直すしかあるまい。)

 最後に断っておくが、上記は、全て、一ヒラ教員である私の勝手な想像である。よって、信憑性が疑わしいこともお忘れなくお読み頂ければ幸甚です。(笑)
 で、もう一つ。書いてることにちょっと自己矛盾があるのも気が付いてるんだけれど。(苦笑)

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