いつもいつも情けないほどわからない。
今は発達障害の子どもたちがいっぱい。
体温調節ができなんです。
人とうまく人間関係が築けないんです。
文章題が解けないんです。
やさしすぎるんです。
じっと座って居られないんです。
他の子どもとけんかするんです。
発達障害を言われる大人の方も。
こどものころに自分の特性が分かっていたら。
ずっと生きにくいと思っていました。
もっと早くにわかっていたら、もっと救われていたと思います。
あの白い錠剤1錠を飲んだだけで、救われるんです。
あなたにとやかく言われることではない。と。
ほんとうに
いろんな方に聞いてきた。
小児科の先生
神経内科の先生
看護師の方
脳神経を研究している方。
いわゆる専門家と言われる方。
大人の発達障害の方。
保健士の人。
大学の先生。
ネットでも、丁寧に答えてくださる方もいた。
でも、まだわからない。
このわからなさは一体何なんだろう。
”発達障害”っていったい何?????
答えがみつからない!!!
上の写真の花は
”アベリア”
名前がわからなくて、なんとなく落ちつかなかったけれど
わかると何か安心する。
この花は?
名前はそのものの本質とは関係ないかもしれないけれど
わからないと
その実態も分かっていないような、そんな気がする。
以前に、診断されてほっとしたと言われていた方ともお話ししました。
今までの生きにくさのわけがわかったと。
大人が自らの意志で診断を受けることに
口をはさむつもりはありません。
子どもが、早期発見早期治療が大事と
幼いころから、診断され、分けられていくことが、なんだか納得がいかないのです。
ちょっと個性的な子ども、エネルギーあふれる子どもが分けられていくことへの抵抗感からでた疑問でした。
なんか、ちょっとじっとしていられないこがいたら
発達障害って言われているような
そんな風潮が横行しているような気がしてなりません。
これからも考えます。
私は発達障害の診断やそれに伴う薬や分けることは悪いこととは少しも思いません。私のkiyokoさんへのの違和感は発達障害やリタリンを代表とする衝動性を抑える薬や障害があることで分けるということが良くないことだという考えを前提に話を進めていることだと思います。そうではないと思います。診断されて、その子どもに必要な手立てや衝動性を抑えられて快適に過ごせるならば、薬も必要です。怖いのは、本人の気持ちと関係なく、診断名うんぬんという上辺で差別したり、障害に関係する手立てを否定し、結果的に本人を生きづらくしてしまう考え方や社会だと思います。
ずれているように感じられるのでしょう。
そういう意味では、
認めようとしないで、必要な手立てをしない教師ということになるでしょう。
生きづらい子どもたちが、ほっとして生き始めることができることを否定するつもりはありません。
ただ、
どうしても、発達障害が言われ始めた経緯が
不審な動きから始まっているので気になっています。
鋭いご指摘、ありがとうございます。
「非発達障害者と発達障害者のお互いが、自らの抱いた障害観を振り返る」とか「個人レベルの解釈に終わらないで、お互いを取り巻く社会のありかた(環境・制度・価値観等)や関係性についても(必要とあらば批判的に)考えてみる」とか「どんな社会資源や取り組みがあるのか学んでいく」という方向で、「診断名を使用」するのならよいと思います。
しかし、現状ではそのようなことはほとんどなされていないように、私には思えます。
私の場合、幸運にも、身近にそのような態度をとる友人がいます。しかし、そのような人はごくわずかです。
現状では、「発達障害者側が、専門家や周りの人にとって都合の良い、『発達障害者役割』を押し付けられる。そして、発達障害者側は、『己を恥じて(←ここ重要)精進すること』を押し付けられる。しかし、発達障害者側は、押し付けには無自覚。むしろ、本人が、『自発的に発達障害者役割を選択した』と認識している。」というケースも多いのではないかと、私は疑っています。
そして、「もしも本当に多いのなら、危ない」と私は思っています。
「発達障害者役割」を、私は次のようにとらえています。
1.「専門家や周りの人(実は、発話者個人)から好感をもたれる発達障害者になるようにけなげに努力をすると、周りの人もあたたかい協力をするものだ。努力のサポートは、専門家による療育が中心だよ。だから、障害の早期発見早期療育が本当は望ましい。その点では成人発達障害者は運がなかった。しかし、障害を自覚し、己を恥じて精進することは大切だよ。」という解釈のレールを押し付けられる。
さらに、このレールの裏側には、非発達障害者側に都合の良い見解が隠されている。「非発達障害者側と発達障害者側とで見解が異なった場合は、前者が正しく後者が間違っているんだよ。どちらが正しいのかを判断できるのも、前者だけだよ。だってさ、後者には認知の歪みがあるからね。」という見解が。
「『発達障害者の側が社会の何をどう見ているか』を知ることで、自らの『非発達障害者中心の発想』を相対化する」などということは、夢物語となる。
2.そして、発達障害者側は、次のような認識を持つ。
リアルな苦しみは、どうせ他人にわかりっこない。苦しみを告白するのも恥辱としかならない。だから、とりあえず、「可愛がられる・けなげな・がんばる障害者として好意的にみられるよう努力する」という方針が立ったという事実を喜ぼう。自分自身の努力や能力や魅力がなければ、周囲からの協力も得られないだろうし。実際に好意的に見てもらえる経験を積んだら、きっと今よりもずっと楽になる。
発達障害者自身による「権利の主張や自己決定」は、この「発達障害者役割」に反するものだと、私には思えます。
「権利の主張や自己決定」は、非発達障害者にのみができることなのか? 疑問です。
何度も読み返しました。スナドリネコさんが、ことあるごとに考え、論点を整理し、実感を持って伝えていきたいと考えておられるのだなぁ、と改めて感心しながら読ませていただきました。
発達障害者役割のご指摘、今までも障害のある人たちが担わされてきた現実的な課題だと思いました。
読んでいて、
>このレールの裏側には、非発達障害者側に都合の良い見解が隠されている。「非発達障害者側と発達障害者側とで見解が異なった場合は、前者が正しく後者が間違っているんだよ。どちらが正しいのかを判断できるのも、前者だけだよ。だってさ、後者には認知の歪みがあるからね。」という見解が。
の部分、
私の考えでは
「後者が正しく、前者が間違っているんだよ。」と書かれると思いながら読んでいました。だって、当事者の意見や主張がとても大事だと思っているからです。
発達障害そのものを認めようとしない私がこんなことを書くのはおかしいかもしれません。
でも、実際にその障害ゆえに生きにくさを感じ、苦しんでこられた方がいる以上、否定することはできません。
何度も書いていますが
発達障害者と非発達障害者の違いはなんでしょう?
そこのところが、わからないので、いつも論点のずれたお返事しかできていないのだと思います。
まだまだお返事としては不十分ですが、
またコメントくださるとうれしいです。
よろしくお願いします。
10/12付kiyokoさんのコメントでの引用部分は、「非発達障害者側に都合の良い見解」の内容について書いたものです。「スナドリネコが、この見解を支持している」というわけではありません。
発達障害者と非発達障害者の違いを、私は、「隠れたカリキュラムに基づいた学びが、きちんとできない(とみなされる)こと」としてとらえています。
非発達障害者ならば、日本以外の場所で生まれ育ったならば、その場所での(日本と異なる)隠れたカリキュラムに基づいた学びを身につけます。
一方、発達障害者は、「日本で生まれ育とうがほかの場所で生まれ育とうが、その場所での隠れたカリキュラムをうまく学べとれない」と思われます。
・「学校には、『隠れたカリキュラム』なるものが存在する」という指摘が、教育学では、なされている。
・日本の場合、この「隠れたカリキュラム」は、学校だけではなく一般社会に存在する価値観とつながっている。
・「隠れたカリキュラムをうまく学びとれるか否か」を分ける要因として、日本の場合は、「感情の絡んだコミュニケーションに苦手意識が大きいか否か」「非言語的情報に基づいて状況を把握することに苦手意識が大きいか否か」ということが重要である。
というふうに、私は捉えています。
隠れたカリキュラムとは、「生徒が学校生活にうまく適応(順応?)していくために学び取っていく黙示的な規範・価値・態度など実際行動面での知識内容」のことです。
この「実際行動面での知識内容」を、教師の振る舞いや児童生徒への接し方、生徒同士の人間関係、教科書に取り上げられている内容、などを通じて学んでしまうことになります。
隠れたカリキュラムによる学びでは、日本の場合、「集団への同調」が強く要求されます。
また、「他者および集団へ同調する根拠」を、児童の内面に、主として感情に求めています。
「集団への同調」では、「感情に訴えかけられること」「集団による役割分担と、児童相互による監視や規制」が特に重視されています。
「相手や集団構成員の内面に焦点を当て、感情移入能力や罪悪感などに訴えかけながら、自発的な同調を促していく」というシステムが重視されている状態で、「隠れたカリキュラムによる学び」がなされます。
つまり、「発達障害者が、隠れたカリキュラムによる学びをさぼっている」というふうに、非発達障害者にはうつってしまうということになります。
「隠れたカリキュラム」については、
恒吉僚子 著 『人間形成の日米比較―かくれたカリキュラム』 中公新書
に書かれています。
どうしても気になることがあります。
それは、
>「発達障害者が、隠れたカリキュラムによる学びをさぼっている」というふうに、非発達障害者にはうつってしまうということになります。
非発達障害者の視点をとても意識して
そして
どの様に見られるか、どのように取られるかを気にしておられるように思います。
「自分は自分」と言いきれない様な。。。
そう思うようになったのは発達障害ゆえ、ということなのでしょうか?
「隠れたカリキュラム」を意識することは有りませんでしたが、
とにかく学校は四角いし、集団行動を押しつけられるし、こうあらねばならないというものが強くあると思います。
ランダムに生きようと思ったときに、生きにくかったり、コミュニケーションがうまくとれなかったりすることもあると思いますが、
それも含めて、その人だと思うので、
今までほんとうに発達障害を強く意識して、子どもたちと過ごしたことは有りませんでした。
どうも上手く言えないのですが、なぜ発達障害者、非発達障害者と二分してしまうのでしょうか?
恒吉僚子さんのその本、読んでみたいと思います。
>そして
>「自分は自分」と言いきれない様な。。。
正直言って、この部分を読んで「随分と無神経なことを書くもんだなあ。否、隠れたカリキュラム故に、kiyokoさんが特権的なポジションを得ていることは意識されないで済むんだ。ほんと、厄介だなあ。隠れたカリキュラムってやつは。」と思いました。
学校や私たちの社会が、「発達障害者に対して何を求めているのか」、これがわからない状態にある発達障害者は、非発達障害者から「社会的制裁」を受けまくります。
社会的制裁の発端となった原因や責任は、発達障害者側に押し付けられます。
押し付ける側から、「非発達障害者の視点をとても意識して」とか「『自分は自分』と言い切れない様な」とか言われるんだなあ。やっぱり。
また、ここでは、「非発達障害者は、構造的な特権によって「何を求められずにいるのか」を意識しないで、発達障害に何かを求める」ことが可能な状態にあります。このことも重要です。
学校内で「多数に支持されている価値観」や「権力者が支持していて、権力を持たない側が事実上逆らうことが困難になっている価値観」というものがあります。そしてそれによって、上下関係や序列が作られることがしばしばあります。
そうなると、「隠れたカリキュラムからうまく学べない発達障害者と、非発達障害者」は、平等とは言えないと思います。
「平等ではなく、非対称な関係にある」という現実から出発して、「どのように向き合い、対話していくのか」「どのような社会的現実があって、「無力化」され障害が意識されるのか」ということを考えていく。
このプロセスをスキップした状態で、「なぜ発達障害者、非発達障害者と二分してしまうのでしょうか?」などと主張しても、何も始まらないと思います。
否、「非発達障害者の土俵でしか勝負を許されない」状態を押し付けながら「発達障害者にも、非発達障害者と勝負して勝つ機会を与えているよ。」などとごまかす事態を増やすだけだと思います。
こうした発達障害者に不利益な「社会的規範」のもと、「不利益を押し付けられた立場を粘り強く訴え、交渉していく力」を育てていく必要性を、私は痛感しています。
>「非発達障害者の土俵でしか勝負を許されない」状態を押し付けながら「発達障害者にも、非発達障害者と勝負して勝つ機会を与えているよ。」などとごまかす事態を増やすだけだと思います。
自分自身が陥りやすい所だと思います。
すぐにはわからないと思うし、
理解できないことも多いです。
でも、
「わかりたい」と言う気持ちは
かわりません。