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教室での出来事や塾長の生活を綴ってみます

南河内&大阪再発見

2007-10-08 16:31:49 | 塾長の生活
10月8日(体育の日)、この日授業は休みで楽しみにしていた「南河内&大阪再発見講座第4回現地学習会」の予定でした。しかし、朝から小ぶりとは言え雨模様。天気予報も「降ったりやんだり」であがる様子はなさそうで主催者側の公民館も「中止」を宣言しました。
そこで、一人この日の予定コース(近鉄貴志駅→通法寺→壷井八幡宮)を辿ることにしました。
もっとも予定コースの起点は、近鉄貴志駅に車を置いていくことはできないので通法寺を起点に巡りました。


通法寺とは、
羽曳野市壷井は河内源氏発祥の地として知られています。この壷井通法寺は、長久4年(1034年)に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから始まり、前九年の役の時、東北地方で活躍した源頼義が浄土宗に帰依し阿弥陀仏を本尊としたことから河内源氏の菩提寺となり源氏の隆盛と共に栄えました。
ここには源頼義の墓があり、東方約200mの丘陵地には父・頼信と子・義家(八幡太郎)の墓もあります。





しかし今では明治時代に廃仏毀釈により現在のような山門,鐘楼などを残すのみとなっています。


壺井八幡宮とは、
御祭神 誉田別尊・仲哀天皇・神功皇后
 寛仁4年(1020)多田満仲公の4男、源頼信公は河内守に任ぜられ、この地の香呂峰に館を営み、同年9月10日より居住、河内源氏の祖となります。
翌年、長子頼義公誕生、河内源氏の第2代となります。
長暦2年(1038)7月14日、頼義公の長子八幡太郎義家公当地に誕生、続いて次男加茂次郎義綱公、三男新羅三郎義光公等が誕生することにより、河内源氏の嫡流発祥の地となった。
頼信公は、長久4年(1043)9月5日、通法寺を建立、永承3年(1048)9月1日74才をもって入滅、通法寺の巽の方向山上に葬られました。
第70代後冷泉天皇の永承6年(1051)奥州に安倍頼時とその子貞任・宗任の反乱がおこり、頼義公に賊を平定するようにとの勅命が下り、頼義公は、鎮守府将軍陸奥守に任ぜられました。
出陣に際し、石清水八幡宮に詣で戦勝を祈願し、12年3ヶ月の苦戦の末、康平5年(1062)賊を平定しました。凱旋後、誓願の験ありとして、康平7年(1064)5月15日、社殿を建立し、石清水八幡宮の神霊を遷し祭ったのが、壺井八幡宮です。



気が付いてみれば、「河内」は遺跡の宝庫だと言うことが分かりました。肥沃な大地に育まれ、陸路と水路を利用した交易で栄え、歴史を動かす実力者を養ってきたことが伺えます。

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