ブログを引越しします

2020-10-19 23:01:38 | 日常
こちらのブログは容量制限に達しましたので、下記の新ブログに引越しします。
2005年より2020年10月18日まで、閲覧有難うございました。
引き続き、新ブログでも宜しくお願い致します。

https://kirahoshiphoto.exblog.jp/

※こちらのブログは削除せずに、このままにしておきます。

きらほし

因幡晃さんのコンサート見てきました

2018-03-07 22:12:30 | 日常
3月3日のひな祭りの日に、地元三浦市民ホールで開催した「因幡晃」さんのコンサートに出かけてきました。
レイパーカーJr以来のコンサートなので、実に36年ぶりの生ライブ。昔から、一度でいいから因幡晃さんの生ライブを聞きたかったので、それがようやく実現しました。あの大ヒットした「わかって下さい」から42年目。
因幡さんの曲調だと、暗い性格のイメージですが、それは全く違うものでした。最初に大石吾朗さんが登場し、因幡さんのデビュー当時の様子を懐かしく紹介してくれました。
1975年のヤマハポピュラーソングコンテストで「わかって下さい」で最優秀曲賞をとった彼ですが、当時、最大のライバルだった中島みゆきさんの顔ぶれもあり、実力ではNO1の歌声の持ち主だった彼も、最終選考では中島みゆきさんに敗れた経緯を解り易く解説してくれました。
あれから42年経った今でも、お二人の活躍ぶりが凄いと賞賛。
当時はハイレベルの競い合いだったと。
大石吾朗さんも、一昨年、古希を迎えたそうです。
後半にちゃっかり自身のPRを。
「3月19日放送のフジテレビ系スペシャルドラマ『炎の経営者』(後4:00~5:25)に出演します」と。
大石さんの紹介が終わると、ご本人がステージに登場。
ステージには、ピアノ1台とギターが1台置いてあるだけ。
曲を演奏する前には必ずトークがあり、歌手生活42年の年輪を伺わせる笑いのトークを連発。
私の曲イメージから「よく暗い」と言われるので、トークでは「明るく」をモットーにしているとか。
42年前の当時と今では時代が違い、歌詞が今の時代にマッチしないとか。
当時は気持ちを手紙で伝えたが、今はメールやライン。
当時は汽車が走っていたが、今は新幹線が走る時代なので、歌詞が馴染めないとか。
忍冬では、歌詞の中に「忍という字は難しい」とあるが、42年経ってみると解釈も変化し、「しのぶさんとゆうじさんの恋の歌」になってしまったとか。
ピアニストの鳥居克成さんの紹介でも、ポップなヘヤーをネタに。時間と共に髪の毛が倒れてくるとか。
会場を爆笑の渦に引きずり込んでいました。
曲は、忍冬、別涙、ことずて、わかって下さい、雪の5曲を熱唱。最後に、大石吾朗さんが再びステージ登場し、
そこで、彼のふるさと秋田県の婚礼の祝い民謡「秋田長持唄」のさわりを披露してくれました。
今でも変わらぬ歌声と笑いのトークで、あっという間の1時間でした。










09/03日撮影 虹

2016-09-04 18:16:04 | 日常
ちょうど17時の頃。
雨が降ってはいましたが、西の方から日が差してきたので、
虹が見られると思い外に出ると、くっくりとした虹が出ていました。
時間にして4分程で薄くなっていきました。
画像を良く見ると二重になっていました。
画像の汚れは、レンズに付いた雨粒です。
5時ジャストに虹とは。2時ジャストに虹なら納得がいきますが・・・・。





横須賀市の観光都市としての姿勢に物申す

2016-02-20 22:53:43 | 日常
やっぱり横須賀市は暮らしにくいです。
横須賀市は観光地としての感覚が、何かずれているように思えます。
市民の転居率ナンバー1も、ちと頷けるような気がします。
2/7日、市内にあるペリー公園前に駐車して切符切られましたが、
問題は、歴史的にも有名な公園にもかかわらず、何故駐車場を設けないのか?
ここが大問題です。あの公園内には広場があるのに、そこを駐車場として開放していません。
スペースが無いのなら仕方ありませんが、大型バスも駐車可能な広場がちゃんとあるんです。
まあ300円程度の有料にしても設けるべきではないかと。
地元の人ならいざ知らず、よそから車で観光にきたら絶対に駐車するでしょう。
なのに駐車場を設けない市の姿勢。
となれば、一時的にも道路に止めるでしょう。
そこに、待っていたとばかりに切符を切る警察官の職員。
今回、違反切符が15000円でした。
しかも20分しか駐車していないのに、即、違反のシールがフロントに張られていました。
その昔は、タイヤにチョークで印しを付け、
再度見回り時にまだ駐車していたら違反切符という流れであったはず。
道路法を変えたのか?
容赦の無い取締りでした。

横須賀にきて不思議に思ったことが2つあります。
一つは駐車場。もう一つは土産物売り場です。
私の育った河口湖町を例に紹介すると、湖畔のほとんどが無料で駐車できます。
良い撮影場所があれば、適当な場所に止めて撮影可能。
決して駐車場を有料にして、外貨を稼ごうなんて町民は考えていません。
あくまでも宿に宿泊したり、食事したり、土産物を買うことで、外貨を得るようにしています。
土産物も多いし、それを販売する土産物売り場も沢山ありますので、
それに携わっている地場産業も盛んです。
私はそれが観光地としてのあり方だと思っていましたが、横須賀は違います。
私は市内のあちこちの公園を利用しますので、特に駐車場が気になります。
海岸線を車で走っても、止めるような場所もなく、無料の場所は、ごく一部とコンビニぐらいです。
コンビニには長時間駐車することは厳禁だし。
三浦海岸付近はまだ1時間300円と低料金ですが、荒崎公園だと1000円もします。
長者ヶ崎も、夏期は1500~2000円もします。
富浦公園も夏の期間限定で、プール利用者だけ駐車場を提供している現実。
太田和のつつじ公園も、つつじの開花シーズンだけ開放し、
それ以外のシーズンはなぜか駐車場を閉鎖しています。
立石公園だけはなぜか無料です。
くりはまみんなの公園は、2年前に市民に開放された公園ですが、こちらも無料。
衣笠山公園も無料。しょうぶ園は、年間駐車場を開放し、
菖蒲が見頃の時期は有料ですが、それ以外の時期は無料と、こちらは良心的です。
公園によってはバラつきのある駐車場料金ですが、
せめて地元に税金を納めている市民に対しては、何かしら恩恵があっても良いのではと。

土産物売り場にしてもビックリです。
車で海岸線を走っていても、土産物売り場の看板の無い事。
どこの観光地にいっても必ず土産物を扱うお店はありますが、そういう専門店をまず見ません。
最近、長井に「すかなごっそ」ができて買い物できる場所ができましたが、道の駅みたいな施設も少ないです。
そうかといって、全く地元に土産物が無いわけではないのです。
花の国の土産物売り場に足を運んでビックリしました。
種類は少ないものの、地元の名前が付いているお土産がちゃんとあるんです。
海軍カレーも有名ですが、こちらはコンビににも置いてあるので、知る人は多いと思いますけど。
もう少し知恵を絞れば、観光地として外貨を稼ぐことも出来ると思うのですが・・・・・。






中居理光さんを偲んで

2015-11-22 21:30:55 | 日常


横須賀に引っ越してきたのが18歳の時。それから大学生活、就職と、慌しい日々を過ごし、24歳で結婚。中居さんとは、私が結婚した年の1984年からお付き合いが始まりました。結婚を機に、星の活動を再開しようと思うようになり、地元横須賀に拠点を置き活動している横須賀天文研究会(以後スカ天と称す)に入会する決心を固め、平作にある事務局の中居さん宅を訪問したのが最初の出会いです。自宅の敷地内には、銀色に輝くドームが鎮座し、それを見て思わず興奮しながらドアホンを押しました。家の中に通されると、やはり星を趣味にしている雰囲気の部屋でしたが、天文書籍が多く占める中、音楽関係の書籍もチラホラ。部屋には愛用のクラシックギターも置かれていました。中居さんはギター愛好家でもありました。
最初の訪問では、星の事、スカ天の事、好きなミュージシャン等の話題で盛り上がりました。
晴れていれば、観測ドーム内にある機材で星を見せてもらう約束をしていましたが、その日はなぜか曇り空。実際に30センチの反射望遠鏡を覗く事になったのは、2回目の訪問の時でした。子持ち星雲やM13、それは素晴らしい見え味でした。さすがは苗村鏡です。
その後は、週末の度に自宅に訪問する日々が続き、私も星の世界にどっぷりと漬かる事になりました。
この頃のスカ天は、中居さんが看板を背負っているだけで、会員は中居さんただ1人。
多い時で30名いた会員も、進学、就職という流れの中で、次第に会から離れていき、
気づけば中居さん1人という低迷期に私が訪問したのです。
「近所に茶木さんという方がいるので、今度3人で会いましょう」と。
この3人の出会いの直後に小野さん、鈴木さんが会員に加わり、再スタートを切ったスカ天。
1988年の8月には機関誌「小びと星」の再発行も叶いました。その機関誌の巻頭言として書いた中居さんの記事が天文ガイド誌に載った事で、さらにヒートアップし、機関誌は2ヶ月毎に編纂し発行していきました。機関誌の原稿の大半は中居さんが書いたもの。私も「毎月必死に原稿を投稿しました」というか、見えない中居編集者の圧力に屈していました。再スタートした当時、スカ天は破竹の勢いで各メディアの目に留まるようになり、新聞社、雑誌社、ラジオ番組等で紹介されました。その立役者は、やはり中居さん。立案と行動力、文才と、彼の眠っていた能力が一気にバーストした頃でした。
その勢いは26号(1988年)から41号(1991年)発行の機関誌で知ることができます。
中居さんの天文ライフワークは、太陽観測と変光星観測。
太陽観測者としては、永年観測者として名を連ね、続アマチュア天文史40ページの表2.1によると、
80mmの屈折望遠鏡で太陽黒点観測を行い、1970年から1977年までの期間報告しています。1977年以降は、変光星観測をメインに、亡くなる4年前まで観測を続けていたようです。機関誌のバックナンバーによると、1970年11月11日のアルゴル食の観測が最初の観測で、この時は極少から食の終わりまでの6時間の観測記録を報告しています。初めてのテスト観測でありながら、綺麗な曲線になっています。変光星も様々なタイプを観測していましたが、私が知る限りでは、激変星が特にお気に入りだったようです。暗い対象の変光星は30センチを利用していましたが、普段は12センチの反射望遠鏡でした。私にとって、中居さんは変光星観測のお師匠さんでもありました。中居さんとの出会いがなければ、変光星観測を開始する事はまずなかったでしょう。私も様々な天体は見るものの、変光星だけはアレルギーというか観測の対象外でした。それが、中居マジックに洗脳されてしまったのです。毎回、自宅にお邪魔すると変光星の話題になり、私に熱弁をふるう中居さん。帰りには必ずお土産として頂く変光星図を持たされました。そんなわけで、お邪魔するたびに変光星図は増えるばかりでした。しかし、当時の私は、何度も誘惑され「面白いから観測をやってみて下さい」と言われても、変光星図を活用する事もなく、その面白さが理解できないまま4年間が過ぎる事になります。自宅の観測ドーム内で、変光星観測のデモも披露してくれた事もありました。兎に角、変光星の事になると熱い人でした。その熱意に根負けしたのはある現象を見てから。偶然CYGSSが増光し8等台になっているところを見たのです。これは衝撃的な事件で、普段暗くて見えるか見えないかの星が、ピカッと輝いていたのですから。「これが中居さんが勧める面白さか!」その事件を切っ掛けに、私はのめり込んでいきました。それからは私の態度が一辺。「面白そうな変光星図ありませんか?」と逆に催促にまわりました。中々腰の重い私に、4年間もよく懇々と訴え続けたものです。先に日本変光星研究会に入会していた中居さんは、私にも入会を勧め、入会後は一緒に変光星関連のイベントに参加する事が多くなりました。
中居さんとは6歳離れていますが、接し方は同級生感覚で、腰の低い方でした。表舞台に出ることは苦手のようでしたが、舞台裏での活躍は、とても真似の出来ないものがありました。機関誌編纂に注ぐパワーは凄すぎの一言。一度エンジンがかかるとそれは早いもので、原稿もスイスイと書き上げます。
時間や納期はきっちりした方でした。活字を見ても読みやすい字体で書きますし、室内もきちんと整理している方でした。タバコは吸いませんが、お酒は嗜むレベルではありませんでした。酔うと相撲の四股を踏む癖も何度か見ています。
そんな楽しいお付き合いも、長くは続かず、1991年の後半、中居さんの父親が亡くなってからは、スカ天も日本変光星研究会も退会し、疎遠になっていきました。退会後は、ご結婚されて、2人の息子さんにも恵まれて暮らしている事は、風の便りで聞いた程度。
山梨県北杜市大泉町にある乙女座宮の近所に、観測所付きの別荘も建てたとか。
人はそんなに変わるものではないと思いますが、私は中居さんとの出会いで星との接し方が変わりました。スカ天を通して、7年間という短いお付き合いでしたが、今にして思うと、人生の中で最も濃厚な時間を過ごした7年間だったような気がします。
一昨日、茶木さんから訃報の連絡が入り、先週の土曜日(11/14日)に亡くなった事を知りました。享年63歳。定年後、まだまだ多くの天文現象や星への夢や発見、ロマンを抱いていたと思いますが、早すぎる死です。中居さんからは多くの事を学びましたし、素晴らしい出会いでした。感謝することは山ほどあります。名前の通り、中居さんは星の光を愛した方でした。中居さんの生き抜かれた生涯を偲び、星への情熱や生き方を学ぶと共に、その意志を引き継いでいけたらと思っています。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

合掌