安土城址
(あづちじょうあと)
滋賀県蒲生郡安土町大字下豊浦
現在の安土城。緑に包まれた、織田信長公の夢の跡です。
〔代表的城主〕
織田信長公
(おだのぶなが)
「安土の山を、丸ごとひとつ、城にする」 …実際にこう言ったかは分かりませんが、山全体を石垣で固め、壮大な天主を山頂に建てるという構想は、それまでの日本の城郭には見られない斬新な発想に基づくもので、以降に築城された近世城郭の原点となりました。その城郭の名は、安土城。外観は5層、内部は地上6階・地下1階という構造で、イエズス会の宣教師・ルイス=フロイスをして「このような豪華な城は欧州にも存在しない」といわしめた豪華絢爛な安土城は、天下統一に邁進する織田信長公の夢を象徴する、まさに「覇王の城」だったのです。
真っ直ぐに伸びる幅6mの広さの大手道(左)と伝羽柴秀吉邸跡(右)。
それまで岐阜に本拠を置いていた織田信長公は、天下統一事業を象徴する壮大な城の建築に着手します。意中の地は、瀬戸内海に面して国際港湾都市・堺とも近い、交易・経済の中心であった大坂だといわれています。しかしながら当時は石山本願寺が頑強に抵抗を続けていたため、琵琶湖の水運を利用する事でいち早く京都に駆けつけられ、加えて北陸街道から京都への要衝に位置する安土の地に天下布武の象徴である新城を築こうと考えたと思われます。それに先立ち、1571(元亀2)年には明智光秀公に琵琶湖岸の坂本に坂本城を築城させて南近江を統治させ、さらに2年後の1573(天正元)年には、浅井攻めに功のあった羽柴秀吉公に北近江を与えて長浜城を築かせ、北陸への抑えとさせました。こうして琵琶湖の南北に最も信頼する2将を配置して備えを万全にしたのち、安土山への築城構想を実現化するために行動を開始します。
天主台の石垣(左)と礎石(右)。絢爛豪華な天主閣が建てられていました。
1575(天正3)年に嫡男・織田信忠公に家督を譲った織田信長公は、翌年1月には重臣・丹羽長秀公を築城の総普請奉行に任じ、自身は身の回りのものだけを運ばせて安土に乗り込み、工事の進捗を督励しました。領国内の大工・職人を集め、各地から膨大な資材を集結させて日夜突貫工事が続けられた結果、天下無双の巨城・安土城はわずか3年後の1578(天正6)年にまず天主の完成を見ます。世界で最初の木造高層建築といわれるこの天主の高さは46mあったといわれ、周囲を湖水に囲まれた標高196mの安土山に山頂に聳え立つ絢爛豪華な風景は、人々に時代の変革を感じさせたに違いありません。
麓から山頂へは、それまでの常識を破る幅6メートルの広さの直線状の大手道が築かれ、その両脇には羽柴秀吉公や前田利家公など織田家重臣の屋敷が並び、本丸には天皇の行幸を目的に建てられたと見られる清涼殿様式の本丸御殿が築かれていました。全体の工事は天主完成後も引き続き行われ、南西に続く百々橋口の途中には見寺が建立されるなど、すべての城郭が完成したのはさらに3年の年月を要したといわれています。
天主の近くにある織田信長公の廟所(左)と旧見寺跡(右)。
残念ながら、当時の建築技術の粋を集めて築かれた名城はあっけない幕切れを迎えます。1582(天正10)年に本能寺の変が勃発、当時留守居役として城を守備していた蒲生賢秀公は主君の突然の悲報に接し、本拠地である日野城(滋賀県蒲生郡日野)へと撤退します。空き城となった安土城には明智光秀公の家臣である明智左馬助秀満公が入りましたが、間もなく起きた山崎の戦での敗戦を受けて坂本城へと撤退します。この後、突如起こった火災によって安土城は炎上し、威容を誇り織田家の栄華の象徴であった名城はまさに夢幻の如く地上から姿を消すこととなりました。
この火災にはいくつかの説があり、「明智秀満軍が撤退する際、城に火を放った」という説、「明智秀満軍が撤退した後に安土入りした織田信長公の三男・織田信雄公が明智の残党狩りのために城下に火を放ち、その火が天主に延焼してしまった」という説、あるいは「安土城の財宝の略奪目的で乱入した土民が放火した」という説が残されています。現在では、土民が火を放ったという説が有力視されています。しかしながら、この時焼失したのは天主や本丸付近が中心で、後継者を決めるために開かれた清洲会議ののち、嫡孫である織田秀信公が二の丸に入城したという記録も残っていることから、総石垣造りの安土城はまだ城郭としての機能を十分果たしていたと考えられます。その後天下統一を果たした羽柴秀吉公は、大坂に壮大な城を築いて本拠を移したために再び安土に天主が築かれることはなく、近江の抑えとして1585(天正13)年に養子・豊臣秀次公が八幡山城を築城したことから、安土城は廃城の措置が採られてその役目を終えることとなりました。織田信長公が天下統一の要として築いた安土城は、着工からわずか10年の間に激動の戦国の世を象徴するように忽然と歴史の表舞台から姿を消す運命を辿りました。
百々橋口へと続く道の途中にある見寺の三重塔(左)と仁王門(右)。
アクセス
・JR琵琶湖線「安土駅」下車、北東へ徒歩30分
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拝観料
・大人:500円、小人:100円
拝観時間
・9時~17時
関連サイト
安土城天主・信長の館ホームページ
映画「火天の城」公式ホームページ
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