靖国神社
(やすくにじんじゃ)
東京都千代田区九段北3-1-1
早朝に総理が訪れたこともあって多くの参拝客が来ていました。
〔御祭神〕
戊辰戦争以来の国難に殉じた御霊
日本はこの夏、戦後61回目の8月15日を迎えました。教科書問題が起きた際、痛烈に日本の教科書を批判していた某国の幹部が「私は実際の教科書そのものの内容はまったく読んでいない」とのコメントを残したという話を聞いたことがあります。それが事実にしろそうでないにしろ、非常に違和感を感じた覚えがあります。
批判するにしても、肯定するにしても、実際にその場に足を運ばないことには話が始まらないという思いから、今回初めて「8月15日の靖国」を自分の五感で味わってきました。今まで何度か訪れたことのある靖国神社。この地を訪れるたびに独特の重苦しさを感じ、それゆえに平和への思いをいっそう新たにします。ただ、初めての「8月15日の靖国」は、戦争を肌で感じた人たちの思いが神社全体を包み込み、重苦しい中にも厳粛な、背筋のピンと伸びる緊張感がありました。
旧日本陸軍の創設者・大村益次郎像。
1853(嘉永6)年の浦賀沖へのペリー艦隊来航を機に尊皇攘夷の機運が高まり、各地で倒幕の火の手が上がるようになります。既存の幕藩体制と「勤皇の志士」たちとの間で衝突が繰り返され、多くの血が流されました。その戦闘のさなか、官軍では士気向上と天皇家への忠誠心を高めるために陣中で何度も招魂慰霊の儀式が行われました。
江戸城無血開城から9日後の1868(明治元)年4月20日に「東征大総督」有栖川宮熾仁親王の名前にて下達された「東海道先鋒総督府達」では、東征軍の各部隊長に対して、戦場で討死もしくは負傷した者の氏名を報告するよう命じています。続いて4月28日に再度下達された文書では、具体的に「戦死者の慰霊のための招魂祭を行う」目的のために殉難者名簿を提出するようにあらためて命じています。
1967(昭和42)年に奉納された「慰霊の泉」。戦場で水を求めながら
落命された方々に水を捧げたい、という思いから建てられたそうです。
1868(明治元)年6月2日には、無血開城された江戸城西の丸大広間において招魂祭が執り行われました。同年7月10・11日にも京都・川東操練場においても招魂祭が行われました。この招魂祭は、それまでの東征軍主催のものとは異なり、新政府主催として行われた初めての国家的慰霊行事でした。こういった流れを受け、常設の祭祀場としての「招魂社」建立が本格的に検討されるようになります。
当初は兵火によって多くが焼失した上野・寛永寺の境内(現在の上野公園)近辺が候補地として挙げられていましたが、大学病院の建設計画や公園化計画などもあって断念。その後、1869(明治2)年6月に行われた大村益次郎以下6名の検分によって九段坂の歩兵屯所跡(東京府所有地)に建立されることが決定されました。
その月の29日には早くも仮社殿が建てられ、この地で初めての招魂祭が執り行われました。これが「東京招魂社」創立の瞬間です。その後1872(明治5)年5月10日に本格的な社殿が竣工し、1879(明治12)年の太政官令によって全国の招魂社が神社へと改称されたのを機に「靖国神社」と呼ばれるようになりました。
1934(昭和9)年に建てられた「神門」
「靖国」とは、国家を安らかにし、平和安寧にすること。そのような理念のもと、漢籍の中にふさわしい文字を求めた結果、『春秋左氏伝』第六巻・僖公二十三年秋条にある「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠に「靖国」という言葉が社号に決められました。
三の鳥居。ここを抜けると拝殿は目の前です。
靖国神社に祀られている方々としては、次の国難の犠牲になった方々がおられます。
・明治維新 : 7,751柱
・西南戦争 : 6,971柱
・日清戦争 : 13,619柱
・台湾征討 : 1,130柱
・日露戦争 : 88,429柱
・第1次大戦: 4,850柱
・済南事変 : 185柱
・満州事変 : 17,176柱
・日中戦争 : 191,250柱
・第2次大戦: 2,133,915柱
合計: 2,466,532柱 =2004(平成16)年10月17日現在
このうち、「ひめゆり挺身隊」や従軍看護婦、小中学校児童を含む5万7千余柱が女性だそうです。そのほかにも、シベリア抑留中に落命した軍属の方々・終戦直後に自決した軍属の方々・民間防空組織の責任者として落命した方々・学徒動員で軍需工場で労働中に爆撃などで落命した方々・米潜水艦に撃沈された学童疎開船「対馬丸」と運命をともにした小学生児童たちなど、数多くの戦争犠牲者が祀られているそうです。
1901(明治34)年に建てられた拝殿。1989(平成元)年には屋根が葺き替えられました。
靖国神社に国難の殉難者が祀られているのをみて、御霊信仰が思い浮かびました。崇徳天皇や菅原道真公に象徴されるように、無実の罪で命を落とした方々の霊を慰めることでその荒魂を和魂に変え、災いをもたらす怨霊を人々を守る御霊に昇華させようという考え方です。
何の罪を犯したわけでもない一般国民が、赤紙(召集令状)一枚で戦場へと狩り出され、見たこともない土地で「お国のため」という言葉のもとに命を落としていく。そういった無辜の御霊を異郷に迷うことなく祖国へと導き、意義のある死だと讃えることでその無念を晴らし弔うためにあるのが「靖国神社」ではないか、と思います。
つまり靖国神社において、祀られている方々の御霊を讃えているのは「戦争」や「国のために命を捧げること」を礼賛することが目的ではなく、若くして命を落とした殉難者の方々に、「あなたがたの死は決して無駄なものではなかったのですよ。今日の日本の繁栄を築くうえで意義のある犠牲だったのですよ。」と語りかけることによって納得していただくのが目的なのではないか、という風に感じました。
明治の初めに作られたという神池庭園。1999(平成11)年に復元されました。
いまの豊かな日本は、幕末の困難な時期に欧米諸国に植民地化されることなく独立を守っていくために戦った方々、そして良くも悪くも様々な道を歩むことで、他国への侵略や他民族の民族自決権の侵害、無辜の人々の命を否応なく奪い去る戦争行為は絶対にしてはいけないという教訓をその2つとない命をもって我々に伝えてくれた先達の犠牲のうえに成り立っているということを忘れてはならないと思います。
ですので、国権の発動たる戦争によって失われた命は、国家の責任において追悼されるべきだと思いますし、「戦争」が実際にこの日本において遂行され、「この国がより良くなるために」「残された家族がより良い社会で暮らせるように」とその命を悲壮な思いで捧げた方々がこれだけ多く存在したのだということを実感し、平和への思いを新たにさせる場所は必要だと思います。
戦場で力尽いた御霊がその時代、望む望まざるに関わらず「とにかく靖国へ向かえば迷わずに祖国に帰られる」と考えていたのであれば、やはり彼らにとってひとつのランドマークとしての靖国神社は大切に存立して行かなくてはならないのではないか、そんな気がします。
「無宗教の追悼施設」を設けるという意見もありますが、やはり良くも悪くも実際に戦争に大きくかかわりを持ち、戦火の中をくぐり抜けてきた生々しい施設を残し、そこで犠牲者を追悼していくことでこそ、リアルな記憶を呼び覚まし、今まで私たちの国が歩んできた歴史を実感していけるのだと思います。
もちろん、こういった慰霊の場を政争の具にしないために解決すべき問題は多々あります。特に靖国神社に関しての議論は日本人の宗教観、死生観に関わる事柄でもあります。多くの国民がこの問題に関心を持って考えるようになったことは意義深いことだと思っていますが、外圧によって国内の事柄を云々することは、「外圧によって政策を変更させることが出来る」という前例を作ることにも繋がります。近隣諸国への配慮も重要ですが、日本による安易な妥協や諸国からの必要以上の外圧は却って解決への道筋を見失わせ、アジアの未来のために良くないことではないかと考えます。
アクセス
・JR「飯田橋駅」下車、南へ徒歩10分
・JR「市ヶ谷駅」下車、東へ徒歩10分
・東京メトロ半蔵門線・東西線・都営新宿線「九段下駅」下車、徒歩3分
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拝観料
・無料
拝観時間
・開門:午前6時(通年)
・閉門:午後5時(1・2・11・12月)、午後6時(3・4・9・10月)、午後7時(5~8月)
公式サイト
靖国神社公式サイト