天神森天満宮
(てんじんのもりてんまんぐう)
大阪市西成区岸里東2-3-19
学問の神さま、安産の神さま。静かな住宅街の中にあります。
〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざねこう)
大好きな神戸のまちで人生の大半を過ごしてきましたが、誕生の瞬間は大阪・十三の地。そして生後しばらくのあいだは阿倍野で過ごしていました。そんな私にとって、この地を訪れるのは何十年ぶりかのこと。その地でみつけた「天神ノ森」という地名に興味をおぼえて住宅街を歩いていたところ、夏祭に備えてか何処からともなく和太鼓の響きが聞こえてきました。その音に惹かれるようにしてたどり着いたのが、天神森天満宮です。
天神森天満宮は、菅原道真公が無実の罪で左遷され大宰府へと向かう道行きの途中、住吉大社へ参拝する際にこの地で休息をとられたという故事にちなんで村人たちが祠を建てて祀ったのが最初だといわれています。14世紀から15世紀初頭にかけての応永年間(1394-1428年)には京都・北野天満宮よりご分霊を勧請したといわれています。また、ここは千利休の茶の湯の師匠としてその名を知られる武野紹鷗ゆかりの地でもあり、紹鷗森天満宮とも呼ばれています。
1937(昭和12)年に再建された拝殿。本殿は1702(元禄15)年のものです。
武野紹鷗は、1502(文亀2)年に武田信久の長男として生まれます。文武両道に秀で、青年の頃は武野新五郎と名乗って仕官をしていたこともありましたが、戦乱の世を嫌って武士の身分を離れ、侘び茶の祖といわれる村田珠光の弟子・藤田宗理に茶の湯を、そして三条西実隆に歌道を学びます。師匠・藤田宗理も驚くほど茶道の才能に恵まれた武野新五郎は、やがて村田珠光の嫡男・村田宗珠に認められることとなり、惜しむことなく秘伝を伝承されたそうです。
1532(享禄5)年、31際を迎えた武野新五郎は世俗を棄てて茶の道に生きることを決意、出家して武野紹鷗と名乗ります。このとき「種まきておなじ武田の末なれど荒れてぞ今は野となりにける」という歌を詠んで姓を武田から武野に変えたのは有名な話です。
堺に戻って父の皮革問屋を相続した武野紹鷗は、卓越した商才を揮って堺を代表する豪商として活躍しますが、次第に経営を優秀な番頭たちに任せて、ひたすら茶道の発展と門人の育成に尽力するようになります。千利休も武野紹鷗の薫陶を受けた門人の一人でした。
拝殿左にある摂社。天照皇大神・倉稲魂大神・猿田彦命が祀られています。
男児に恵まれなかった武野紹鷗に待望の嫡男・武野信村が誕生したのは1550(天文19)年のこと。これに喜んだ武野紹鷗は、クスノキに覆われ茶の湯に適した名水の湧くこの地に記念の茶室を建て、風月を友として暮らすようになります。
また、長男誕生の神仏への感謝の気持ちもあってか、武野紹鷗は住吉街道の整備にも尽力します。そのころ大坂の中心地から住吉大社へ向かう住吉街道は、この近辺の森のために迂回せざるを得ない状況でしたが、武野紹鷗は私財を投じて森の開削工事を行い、街道の貫通工事を成し遂げたといいます。
拝殿の東南には子安天満宮があります。この石は孕石(はらみいし)とも呼ばれ、昔から安産の神さまとして地元の方々に祀られてきたそうです。淀君が懐妊されたとき、豊臣秀吉公が参拝して安産を祈願し、無事に豊臣秀頼公が誕生したことから感謝の意をこめて社地として1町四方の土地が寄進されたそうです。
ちなみに、この付近の地名「天下茶屋」は、堺政所(のちの堺奉行所)への道の途中この地の茶室で休息をとった豊臣秀吉公が、天満宮周辺の風景の美しさをたいそう褒められたことから、「太閤殿下の茶屋」→「天下茶屋」と呼ばれるようになったそうです。
天下茶屋あだ討ち供養塔。
西の鳥居の脇には、1609(慶長19)年に備前国の武士・林源次郎が、天満宮南の住吉街道沿いにあった「出口橋」(別名:くやし橋、残念橋)で父と兄の仇である当麻三郎衛門を討って本懐を遂げたという仇討ち事件ののち、街道沿いに建てられていた供養塔が移設され、祀られています。
アクセス
・阪堺電車「天神ノ森駅」下車、西へ徒歩2分
・南海電車高野線「岸里玉出駅」下車、北東へ徒歩3分
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拝観料
・無料
拝観時間
・常時開放