神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・花隈城址。

2006年07月27日 | ■神戸市中央区

花隈城址

(はなくまじょうあと)
神戸市中央区花隈町1-1



市営花隈駐車場として利用されている城跡。ちなみに駐車料金は15分100円です。


〔代表的城主〕
荒木村重公
(あらきむらしげ)



 三宮の旧居留地から元町の大丸百貨店へと、おしゃれなミナト街の表情を見せるまち・神戸。そんな神戸も少し西へ進むと、硝煙の匂い燻り覇権を競って血生臭い争いが繰り広げられた戦国の世の名残りに思いを馳せる史跡に出会うことができます。JR線でいうと元町駅と神戸駅の中間。阪急電車を利用すると「花隈駅」を下車して東へ3分ほど歩いた交差点に石垣が見えます。ここが戦国時代につくられた平城・花隈城の跡です。




「天守台」兼地下駐車場の通気口。 こういうと戦国のロマンも何もあったもんじゃないですよね
 


 今でこそ内部は市営花隈駐車場・上部は花隈公園と、外観だけ石垣で城跡っぽく作られただけの城跡で、周囲にはホテルが立ち並び、公園内には落書きも目立つなど、期待を持って訪れた方には少々酷なものとなっていますが、築城当時は現在の花隈町のエリア全体に匹敵する広大な敷地に本丸・二の丸・三の丸を備えた、堂々たる海岸線の要衝だったそうです。 




「花隈公園」として整備されています。犬の散歩に来る人もたくさんいます。



 戦国の世。摂津国を勢力下に収めた織田信長公は、顕如上人を中心に激しく抵抗を見せる石山本願寺を相手に、厳しい戦いを繰り広げていました。本願寺打倒の戦略として、織田信長公は各方面から石山本願寺に向かう補給路を寸断する作戦を遂行します。その一環として、兵糧や武器などの後方支援を行っていた毛利氏や西国の門徒勢力との連携を断つために打たれた楔、それが花隈城です。

 1568(永禄11)年に摂津国守護・和田惟政公によって築かれた花隈城は、1574(天正2)年には織田信長公の命を受けた荒木摂津守村重公の手によって大幅に改築されます。その結果この城は、東は神戸生田中学校東側の道路、西は花隈町と下山手通の境界線、南はJR線、北は兵庫県庁の南を走る筋までという、およそ東西350m、南北200メートルほどの広さを誇る、東西の陸海の交通に睨みを利かせる重要戦略拠点となりました。




石垣の北側にはお地蔵さまが祀られています。



 残念ながら、そんな要害の城・花隈城も、非情な戦国の運命に飲み込まれていきます。荒木村重公に「本願寺へ寝返り、石山に糧秣を運び込んでいる気配あり」という嫌疑がかけられてしまうのです。猜疑心の強い主君・織田信長公から一度かけられた疑念を晴らすことの困難さを良く知る荒木村重公は、「ここはやむなし」と織田方に叛旗を翻し本願寺方に就きます。1578(天正6)年11月、伊丹・有岡城でのことでした。

 家中に真宗門徒を多く抱え、板挟みになったうえでの謀反という説や、密約により毛利方からの支援を取り付けた野心の末の謀反と、説はさまざまですが、とにかく謀反を起こした荒木村重公への怒りは相当に激しく、織田信長公はすぐさま鎮圧軍を向かわせて荒木村重公の勢力圏に激しい攻撃を加えます。支えきれなくなって有岡城から脱出した荒木村重公は尼崎へと撤退、さらに1580(天正8)年3月には尼崎城を捨てて海路、毛利領内へと逃亡します。

 池田信輝公によって諏訪山生田大倉山の三方から激しく攻め立てられた花隈城は、1580(天正8)年7月にあえなく落城。城将・大河原具雅は自害し、荒木村重公の謀反に始まった一連の戦乱はここに結末を迎えます。落城後この地を与えられた池田信輝公は、ここの石材などを転用して兵庫の切戸町に兵庫城を築いて本拠としたため、花隈城は廃城となってしまいます。わずか13年間のことでした。




「花隈城址」碑文。池田輝政公の子孫・池田宣政公爵が1928(昭和3)年に建立。
震災で倒れましたがふたたび復元されています。



アクセス
・神戸高速鉄道「花隈駅」東口下車、東へ徒歩3分
・JR「元町駅」西口下車、西へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、南へ徒歩3分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放