神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

菅原道真公⑤ 「若き研鑽の日々」。

2006年03月11日 | ★特集

⑤ 若き研鑽の日々





菅原道真公坐像。




 幼い頃から英才教育を施され、それに応えて一心に文武に励んだ阿古は、859(貞観元)年に15歳で元服して「菅原道真」と名乗ります。元服を果たした菅原道真公は当時の貴族の慣習に倣って元服の「初冠」の儀式の後に結婚しました。相手は、幼い頃より家庭教師として菅原道真公を鍛えてくれていた島田忠臣公の娘・宣来子です。宣来子菅原道真公より5歳年下だったといわれており、さすがにまだまだ夫婦になったという実感はなかったかもしれません。父・菅原是善公の厳しい指導のもと、文章生文章得業生を目指して勉学に打ち込んでいた菅原道真公にとっては、とても夫婦のことに時間を割く余裕はなかったようです。のちに「菅家文草」の中でも「妻子と睦まじくすることをやめてしまった」と述懐しています。

 こうした猛勉強の甲斐あって、菅原道真公は若干18歳の若さで400人以上が受験したという省試に合格し、定員わずか20人という文章生となって大学寮に入ります。それ以前にこの年齢で合格したのは2人しかおらず、早熟の秀才の快挙に菅原家は沸き立ちました。秀才と称えられた祖父・菅原清公公が20歳、小野篁卿が21歳、大江音人卿が23歳での合格だったことを考えても、18歳で文章生となることの凄さは想像するに難くありません。




 大学寮に入ってからの菅原道真公は文字通り寝食を忘れるほど一心に勉学に励み、867(貞観9)には史上最速の23歳でたった2人の定員しかない文章得業生となって7年以内に最高の国家試験である方略試を受ける資格を与えられました。その翌月には正六位下の官位と下野権少掾に任じられます。これは遥授(遥任ともいう)といって実際に任地に赴いて執務することを免除された役で、多分に財政的なバックアップ、つまり奨学金のような意味合いがあったのではないかと考えられます。この時期には王度という中国人教授に師事してネイティブの漢音による「論語」の教授を受け、中国語を習得するなど方略試への挑戦に向けて着々と学問を修めていきました。

 870(貞観12)年、26歳となった菅原道真公は、ついに官吏への最終関門である方略試に挑みます。3月23日に行われた試験で出題された問題は「氏族を明らかにせよ」と「地震(ないふる)を弁ぜよ」の2題。いずれも国家政策との関連を問う難問でしたが、菅原道真公は見事にたった一度の試験で合格を果たします。なにしろ方略試が行われてから230年近くの間に合格したものがたった65人しかいないという難関中の難関を史上最年少で突破した菅原道真公の優秀さは群を抜いていました。このとき方略試の試験官だった都良香卿は、菅原道真公の答案に対して及第点である「丁第(中上)」の判定を下しています。国家の政策に関する重要問題であるために普通は満点に近い上上から上下といった高い判定が下ることはなく、非常に優秀だった父・菅原是善公でも方略試での判定は同じく「丁第(中上)」で、学生としてはごく一般的な判定だったといえますが、菅原道真公自身はこの判定に全く納得がいかなかったようで、採点に関する不満を詩に書いたこともあったそうです。菅原道真公のプライドの高さや愚痴っぽい部分など、人間臭い部分が垣間見られ、なんとなく微笑ましく感じてしまうエピソードです。















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