⑦ 文人界のプレッシャー
姫路市の思案橋にある菅原道真公の銅像。
順調に出世階段を登っていく者はいつの世も嫉妬の対象になるものです。都良香卿との一件にも見られるように、若くして立身出世の道をひた走る菅原道真公に対しても、その栄達を妬む者は少なくなかったようです。加えて880(元慶4)年に、それまで参議の地位にあって菅原道真公に対するプレッシャーの防波堤の役をしていた父・菅原是善公が亡くなった事も、その動きに拍車をかけたのかもしれません。父の死後、菅原家のトップとして「菅家廊下」の塾長も引き継ぐこととなった菅原道真公には、文人界特有の学閥争いや嫉妬・誹謗中傷などのプレッシャーがかかるようになりました。このことを菅原道真公は「南面することわづかに3日、耳に誹謗の声を聞けり」という詩で嘆いています。菅原道真公自身も血気盛んな若者で、王道を歩んできたプライドから遠慮せずにストレートに物を言うような性格だったことも、こういった逆風を煽る一因になっていたのかも知れません。
「菅家廊下」で学んだOB官僚たちが多数活躍していたこともあり、「藤原家が主流を占める政界において孤立した存在だった」と巷間で伝えられるほど菅原道真公は孤独な存在ではなかったと思われますが、やはり名門の生まれという出自に対する妬みやズケズケ直言する性格を疎んじる者たちからいろいろと足を引っ張ろうとする動きはありました。その一例として有名なのが「匿詩事件」です。882(元慶6)年の夏、都に1つの落首が掲げられます。時の大納言・藤原冬緒卿を非難する内容のものでしたが、その詩の出来があまりにも良かったために「これほど優れた詩がかける人物は菅原道真以外にないだろう」という根拠のない噂が流れたのです。菅原道真公はこの悪質なうわさに強くショックを受け、天地神明に誓って己が無実であるという思いを「有所思」という長文の漢詩にぶつけました。
この翌年には渤海国使が訪日した際に詠んだ歌が世間から厳しい評価を受けたこともあり、菅原道真公は「昨年の匿詩事件の詩は出来が良いから私の詩に違いないといい、今年の渤海国使に詠んだ詩は出来が悪いと叩かれる。いったい全体…」と愚痴のような「詩情怨」という漢詩を残しています。このときのショックは「出家しようかと思った」というほどのものだったようで、順調に昇進してきたエリートである菅原道真公の、挫折した時の脆さを窺わせるエピソードとなっています。しかし、その3年後には菅原道真公にとってさらに衝撃を受ける出来事が待っていました。
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山の上の方だったのですが、登ってみると、
「菅公胞衣所」
と刻まれた石がありました。
ただ、それ以上詳しい説明がどこにもなく、詳しいことはわからないんですが・・・。
菅公のへその緒は吉祥院天満宮の「胞衣塚」にあるようなので、この「胞衣所」は、へその緒を切った場所・・・とかそんな話しなんでしょうか?
よくはわからないんですが、菅公関係の話題でしたので、お知らせまで
気になって調べてみたのですが、「菅公胞衣所」に関する記述が見つかりません。う~ん、とっても気になります。GWあたりに一度現地に行って見ようと思います。お知らせありがとうございました