菅原道真公
(すがわらのみちざね)
(「天満宮御傳記略」より)
「学問の神様」として広く知られる菅原道真公を御祭神とする全国各地の「天満宮」や「天神さん」には、毎年受験シーズンになると合格祈願のために多くの受験生やそのご家族が訪れています。しかし、意外と菅原道真公がどのような生涯を送られたのか知る人は少ないのではないでしょうか。
ここでは、「成績優秀で、天皇に気に入られて非常に出世を果たすが、その権勢を警戒した藤原氏によって無実の罪に貶められて大宰府へと左遷された」という悲劇の人物・菅原道真公の生涯を何回かに分けて記していきたいと思います。
「相撲の神様」としても有名な野見宿禰。
菅原氏の先祖は、天照大御神 が2番目に生んだという五穀豊穣・国家安泰・天下泰平の守護神である天穂日命の14世の孫にあたる野見宿彌(のみのすくね)だといわれています。出雲国の豪族だった野見宿彌は、垂仁天皇の命を受けて大和国に赴き、「日本広しといえど、我に敵う者なし」と向かうところ敵なしであった強力の持ち主・当麻蹴速(たぎまのけはや)と日本で最初の角力(すもう)を取った人物だといわれています。
この勝負が行われたのは垂仁天皇7年7月7日だということが「日本書紀」に述べられていますが、この時の角力は現在の相撲とは全く異なり、どちらかといえば蹴りを中心とした立ち技の格闘技に近いものだったようです。垂仁天皇の名代として対戦した野見宿彌と当麻蹴速との戦いは命がけのものとなり、最終的には野見宿彌が当麻蹴速のあばらや腰骨を蹴り折って絶命させて勝利を収めたといわれています。大一番に勝った野見宿彌は、天皇より当麻蹴速の所領だった大和国の当麻(奈良県北葛城郡)の地を与えられました。
この戦いには、土地の豪族を倒すことで天皇の権威を守るという天神族と地祇族との代理戦争という意味合いもあったため、その試合形式には多分に恣意的なものがあった(=戦う前から勝負は決まっていた)という事が伝えられていますが、稲作と密接に関わる「太陽の神」天照大御神の子孫とされる天皇に奉仕し、その権威を守ったとされる「相撲」が、のちに豊作を祈る農耕神事という意味付けをされていく原点となった出来事でした。
野見宿彌は、埴輪や須恵器など土器の製作に長けていたともいわれています。当時、天皇など身分の高い人物が亡くなった際には、その墳墓に臣下たちも生きたまま埋められ、黄泉の国への供として殉死させる風習がありました。野見宿彌は人間の姿を模った埴輪を身代わりにする事で生き埋めという残酷な風習を止めさせたといわれていますが、この発想を非常に喜んだ垂仁天皇より「土師氏」(はじのおみ)の姓を与えられ、子孫は代々朝廷に仕えて古墳の造成や葬送儀礼に携わっていったといわれています。
実際のところ、副葬品としての人型の埴輪に関しては弥生時代末期に葬送用の土器が変化して生まれたという説が有力で、野見宿彌の伝説は土師氏の権威付けのために後年創作されたものと考えられています。いずれにせよ土師氏が政府の中枢で重要な役割を果たしていた名族であることは確かで、7世紀には一族のものが遣唐使の一員として唐の最先端の制度を学び、651年に制定された唐の永徽律令(えいきりつれい)を参考にして701(大宝元)年に制定された大宝律令の編纂作業にも参画していたということが伝えられています。そんな名門・土師氏の血筋に生まれたのが菅原道真公の曾祖父・菅原古人公でした。
折口信夫は、七夕≒盆の魂祭りであるということをおっしゃってます。
ということで、私が今追っかけてる盆踊りと少しだけ絡むので(~_~)
折口信夫は、「盆踊りは悪霊祓いだった」とおっしゃってます。
相撲にも、そもそもは、「格闘技」というだけじゃなかったんでしょうね。