蓮台山 阿弥陀寺
(れんだいさん あみだじ)
京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
阿弥陀寺の山門。その前には「織田信長公本廟」の石碑が建てられています。
〔宗派〕
浄土宗 鎮西派
〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)
京都を手中に収め、天下統一の夢半ばにして「本能寺の変」に斃れた織田信長公。その京都には、織田信長公ゆかりの寺社や史跡が多く遺されています。今回ご紹介する阿弥陀寺にも、織田信長公を祀る墓が遺されています。
阿弥陀寺は、1555(天文24)年、織田家に縁のある人物だったといわれる清玉上人によって近江国坂本に創建されました。織田信長公の帰依を受けた阿弥陀寺は、織田信長公が入洛を果たした際に今出川大宮に移転されました。この地は今も上京区上立売通大宮東入阿弥陀寺町と呼ばれ、当時の名残りが残されています。移転当時の阿弥陀寺は、八町四方の規模(約900m四方)もの広大な寺域の中に13もの塔頭を持つ大寺院だったと伝えられています。
山門の正面に建つ本堂(左)と、本堂の右手にある鐘楼(右)。
「本能寺の変」が起きた1582(天正10)年6月2日払暁、変事の報に接した清玉上人は、20名ほどの僧侶を引き連れて本能寺へと駆けつけました。しかし、時すでに遅く、到着した頃には本能寺は炎上、織田信長公も紅蓮の炎の中で自刃して果てていました。一説によると、この時清玉上人は、明智勢が固める表門を避けて裏の生垣より境内に潜入。織田信長公の遺骸をいち早く発見し、堂宇を包む炎で火葬に臥したのち遺骨を阿弥陀寺へと持ち帰って供養したといわれています。ただ、寺院内は攻め寄せた13,000名あまりの明智勢で充満しており、血眼になって織田信長公の遺骸を捜索する彼らを出し抜くのは非常に困難だったと考えられるため、実際に織田信長公の遺骸と二条御所で自刃した織田信忠公の遺骸を発見出来たかどうかは定かではありません。
織田信長公と嫡男・信忠公の墓所(左)と、森蘭丸・坊丸・力丸兄弟の墓所(右)。
その後、織田信長公の遺骨が阿弥陀寺に存在するという話を耳にした羽柴秀吉公が、再三に渡って遺骨を引き渡すよう申し入れて来ましたが、遺骨を利用して後継者争いで有利な立場に立とうとする羽柴秀吉公の思惑を嫌った清玉上人は、主家を乗っ取ることは「人の道にあらず」と、この申し出を一貫して拒絶し続けました。遺骨を手に入れることで追悼供養の主導権を握り、跡目を継ぐに足る者は自分であると天下に知らしめようとした羽柴秀吉公の当初の目論みは外れ、結局大徳寺で行った追善供養の際には、遺骨の代わりに織田信長公の木像を作って棺に納めるという演出で乗り切りはしましたが、羽柴秀吉公の心中穏やかならざる事は容易に想像できます。その証拠に、天下人となった豊臣秀吉公は、寺領の大半を没収するという処分を下し、さらには1587(天正15)年、都市計画に沿って「寺町」と呼ばれる現在の地に強制的に移転させるなど、阿弥陀寺に対して牙を剥き続けました。
阿弥陀寺では、毎年「本能寺の変」の起きた6月2日に「信長忌」として追善供養が行われています。普段は非公開となっている堂内も、この日には特別に公開されますので、ぜひこの日に合わせて足を運ばれることをお勧めします。
織田家ゆかりの寺院らしく手水鉢にも織田家の家紋「木瓜」が刻まれています(左)。
境内には俳人・松尾芭蕉や蝶夢の句碑があります。画像は松尾芭蕉の句碑(右)。
アクセス
・京阪電車本線「出町柳駅」下車、北西へ徒歩10分
・京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、北東へ徒歩10分
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拝観料
・無料 (6月2日のみ堂内開放、志納:1,000円程度を目安に)
拝観時間
・9時~16時
「本能寺の変」はなぜ起こったか―信長暗殺の真実 (角川oneテーマ21) | |
著者・津本 陽 | |
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アジサイの花がとてもきれいですね!
まだ西は広島までしか取材に行けていませんが、機会があればぜひ一度訪れてご紹介してみたいと思っています。
これからもよろしくお願いします!
とてもきれいなところですよ。