松尾大社
(まつおたいしゃ)
京都市西京区嵐山宮町3
〔御祭神〕
大山咋神
(おおやまくいのかみ)
中津島姫命
(なかつひめのみこと)
阪急電車京都線に揺られながら、桂駅で嵐山線に乗り換えて2駅目の松尾駅に差し掛かると、大きな鳥居が車窓の向こうに見えてきます。ここが、延喜式の名神大社としてのちに二十二社のひとつにも選ばれた古社・松尾大社です。松尾山の緑に包まれ、荘厳な雰囲気の松尾大社は「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称され、皇城鎮護の神として朝廷より厚く崇敬されました。
大鳥居から境内へと続く参道(左)と、脇勧請と呼ばれる榊の小枝を下げた注連縄が
張られた朱鳥居(右)。脇勧請は平年は12本、閏年には13本下げられています。
松尾大社の歴史は古く、5世紀頃に朝鮮半島の百済(近年の研究では新羅という説が有力)から渡来し、山城国一帯で勢力を伸ばしていた秦氏は、桂川に大堰を完成させるなど大規模な開発を進めて財力を蓄えていった頃には既に松尾山の神である大山咋神を一族の総氏神として祀っていたようで、松尾山の山頂近くにある磐座がその原点の地だといわれています。
その後、701(大宝元)年に文武天皇の勅命を受けた秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在の場所に社殿を造営。松尾山頂の磐座で祀っていた大山咋神を遷座して、娘である知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させました。それ以来、明治時代に神職の世襲が禁止されるまで、代々その子孫が松尾大社の神職を務めていました。
江戸時代初期に建てられたといわれる楼門(左)と拝殿(右)
桓武天皇が平安京を築いた際には賀茂社と共に松尾大社を「皇城鎮護の神」として厚く崇敬し、730(天平2)年には朝廷より「大社」の称号を贈られました。承和年間(834-847年)には仁明天皇より従三位の神階に叙せられ、852(仁寿2)年には正二位、859(貞観元)年には正一位が贈られるなど神階が進められ、醍醐天皇の治世の927(延長5)年に編纂された延喜式では、特に霊験が著しいとされる名神大社に列せられました。
さらに1039(長暦3)年には後朱雀天皇によって制定された二十二社の制(重大な国難の際、朝廷より勅使が遣わされて国家安泰の祈願の奉幣が立てる神社を定めたもの)の第4位に列せられるなど高い格式を与えられ、それに伴って多くの荘園を授与された松尾大社は大いに栄えていきました。
「松尾造」と呼ばれる社殿は1397(応永4)年に建立され、1542(天文11)年には
大修理が施されました(左)。「酒造の神様」らしく、各地の酒樽が並んでいます(右)。
その後、武家の世となった鎌倉時代に入っても源頼朝公が参拝して黄金100両、神馬10頭を献上するなど時の権力による庇護は続き、室町幕府第8代将軍・足利義政公や豊臣秀吉公からも神馬が贈られています。
江戸時代に入っても1333石の社領が朱印状によって保障され、嵐山一帯の山林も社有するなど手厚い保護が続き、明治維新ののちの1871(明治4)年には日本にある全ての神社の中でも第4位に社格を認められて「松尾神社」の名で官幣大社に列せられました。戦後の1950(昭和25)年には「松尾大社」と改称されて現在に至ります。
重森美玲氏によって作庭された名園「松風苑」は、3つの庭で構成されています。
雅な雰囲気を湛える「曲水の庭」(左)と磐座をイメージした「上古の庭」(右)。
松尾大社は「日本第一酒造神」とされ、「酒造の神」としても崇敬を集めています。もともとは酒造とは関係がありませんでしたが、秦氏の氏寺である広隆寺の境内に祀られていた大酒神社の酒造の神が合祀されて「酒造の神」としての神格も備えられていったと考えられます。また、秦氏はこの一帯を大規模に開拓して農業を進め、そこから収穫される農作物をもとに酒造も盛んに行われたことから、農業の神である大山咋神が同時に酒造の神として信仰されるようになったといわれています。松尾大社の境内に湧く「亀の井」は延命長寿の水と言われ、ここから湧く水を混ぜると酒が腐らないと言われたことから、酒造家が「酒の元水」として醸造の際にはこぞって用いたそうです。
「上古の庭」の中にある枯山水(左)と、豊かな水を湛える「蓬莱の庭」(右)。
アクセス
・阪急電車嵐山線「松尾駅」下車、西へ徒歩4分
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拝観料
・無料 (※庭園「松風苑」拝観料=大人:500円、学生:400円、小人:300円)
拝観時間
・9時~16時 (日曜日・祝日は9時~16時30分)
公式サイト
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