彼は大学入学してから、代々木にある
高級マンションの夜間管理人のバイトをした。
貧乏な苦学生であったが、いつも明るく振舞った。
そのマンションの近くに親族の経営する寿司屋があった。
当時 明石家さんまもTVで推薦する店で
貧しい二人は高級寿司をタダ食いした。
彼は大学の理系学部を卒業して電機メーカーに就職した。
私はまだ学生であった。
父の長期入院も終わり仕事に復帰
弟も療養入院から1年過ぎて学業に戻った。
兄も浪人を終えた。
家族に生活安定が回復しつつあった。
私の青春ストーリーは後で書くとして
電機メーカーを突然退職した。
「俺 ソビエト(ロシア)の山を登りに行く」
横浜~ナホトカ航路 バイカル号
一人乗船した。
何処の山に登ったかは定かではないが
バイカル号での甲板上の写真が送らて来た。
長期滞在かと思っていたら、ひと月しない間に
帰国の連絡があった。
会うと元気なくロシアでの出来事は語らなかった。
暫くして、彼は女性を伴い横浜山下桟橋にあった
レストラン店名パウロで会った。
女性を伴っていた。
バイカル号に乗船した時
一人旅の日本人女性と知り合った。
「結婚することにした」
唐突な話に仰天。
彼には全く女の子の交際気配がなかったからだ。
相手の女性は母との二人暮らしであった。
貧しい二人は、結婚写真を撮っただけの式で終えた。
私が住む横浜の辺境地近くの団地に住んだ。
その地で小中高向け学習塾を開いた。
高校進学が高まりつつある頃だ。
生徒は集まり繁盛した。
日中は 車で配送の仕事を請負した。
生徒の送迎用マイクロバスを購入。
藤沢にも学習塾を開いた。
念願の戸建てのマイホームも買った。
私達二人は35歳になっていた。
私はサラリーマンを辞め独立起業し始めた。
横浜の実家に家族で居候していた。
妻子を養うため、喘いでいた。
妻から2年間商売をして 駄目だったら
勤め人に戻ってと約束した。
そして実家を出て 再び船橋に戻った。
40歳過ぎる頃、彼からの連絡が途絶えた。
彼の自宅電話も使われていない。
学習塾の電話もない。
人との出会いは、偶然の織り成す導きであり
利害関係での結びつきは、仕事の一過性で終了する。
相性の良き出会いは長続きする。
だが、長い人生での道程では
大通りを歩く人
横道に曲がる人
坂を上がる人
坂を下る人。
行き交う人々が何処で生まれ育ち
何でこの道を歩き何処へ向かうのか
誰も分からない。
下記は癌治療を長年されてきた医師の言葉です。
人生の長い旅路を歩むうちに
人々は様々な困難に直面します。
ある人は過去の辛い経験を生かして乗り越えることが
できるかもしれません。
一方でこれまで順風満帆の人生を送ってきた人は
「克服できない」と諦めてしまいがちです。
しかしどんな場合でも人は
絶望の向こうに希望を見て
再び歩み始めるものです。
どんな苦しいときでも一度立ち止まって
自分に向き合い
「今やるべきこと、やりたいこと、やれること」を考えれば
やがて解決の糸口が見えてくるものです。
これが多くの癌患者から学んだことの一つです。
いつかはやって来る別離。
人生には満足する完結はない。
全てが道半ばだ。
再掲 丹沢ハイキング 日暮れて途遠し。