馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

寂しい仕事収め

2009-12-31 13:30:50 | 日記
12月30日11時
日本橋事務所に行く 小さな会社が7階立てビルに独居房のごとく
入っているが空室が多い。正面シャッターは既に閉じられているので非常階段にて
鍵使い入室。どこの会社も人影は無い。
目的は顧客の一つが30日午後入金になる。
この会社自体は先週25日御用納めで来年1月4日でなければ
連絡出来ない。しかし売掛金は毎年30日午後に入金される。
良心的な中小取引先は年末早めに入金してくれるのだが
そんな情けは無し。
万が一、入金されず夜逃げされたらと一抹の不安が毎年感ずる。
1時半入金を確認、直ぐに郵便局にて税金を納める。
これで本年の仕事収め終了。
零細企業の慌ただしい資金繰りをひとまず決着。
人影まばらな日本橋界隈を抜け靖国通りを寒空の中マスクを着け
両国橋まで20分歩く。
来年1月23日、事務所移転するので見に行く事にした。
場所は両国橋袂、隅田川と神田川が交差して柳橋が事務所窓から見える
マンション2階 窓外正面は神田川挟んで有名料亭亀清楼
総武線電車が隅田川を走るのが見えその先に今度日本一の高さになる
スカイツリータワーが半分程組み立てられているのを遠望
都鳥が飛び交い、屋形船が漕ぎ出でる江戸文化の香する地
有名な歌がある
名にしおわば いざ事問はむ 都鳥 わが想う人は 在りや亡しやと
(在原業平 伊勢物語 第九段)
都という名を背に負っているならば、いざ質問しよう都鳥、「私が思う人はそこに健在でいるのかどうか。」と
隅田川遊歩道を散歩、墨田区側から両国橋の先に茶色建物の手前
かすかに見える小さなグレーのマンションが事務所
隅田川、風が吹き抜けて行く、冷たく波打つ水面
来年、益々縮小する日本列島 
圧縮して搾り出す物無しの零細企業
だが、諦めてはだめ
寂しい仕事収めを墨田川遊歩道一人歩きで終えた。

青春は一瞬の光芒 Ⅱ禁煙

2009-12-31 08:20:47 | 日記
同期会の宴会で6人全員が煙草を吸っていない事に気付いた。
壮年期の頃、皆ヘビースモーカーだったはずだ。
私は今年10月、腸の潰瘍手術により吸えなくなった。
陸上部出身で地方新聞社東京支社長していたのは6年前
心筋梗塞倒れ吸えなくなったしまった。
合気道部出身はレストランチェーンの支配人をしていたが
早期退職した。その間 酒も煙草も給与の内と35年間
飲み、煙草吸いしたあげく今年10月食道癌になり
10時間に及ぶ摘出手術は声帯切除という代償を払った。
そして煙草を吸えなくなった。
独身で既に両親は亡くなり遠く離れた地に7歳離れた妹がいるだけ
声帯無き言葉を発すること出来ない同期は私の住まいの近く
リバーサイドマンションに独居。無職
河口で釣りする後ろ姿は辛い。
携帯メールが無かったら如何なる生活するのだろうか!
他の3人の禁煙理由は知らないが、病を得て禁煙したのだ。
禁煙を早期にしていれば生命の危険や病で入院することはなかった。



青春は一瞬の光芒なのか

2009-12-29 23:32:04 | 日記
12月28日18時 大学体育会同期、昭和42年(1967年)入学の6人が
明治38年創業居酒屋「神田みますや」で同期会をした。
 年年歳歳花相似たり 歳歳年々人同じからず
しかし私達は40年の歳月を経て再会できた。
私は山岳部 陸上部 バレー部 サッカー部 射撃部 合気道部
大学キャンパスが全共闘により封鎖され授業もボイコットされた学生生活
皆、詰襟金ボタンの制服でキャンパスを闊歩
団塊の世代である私達はアジアの国々と相対的に教育レベルが高く
労働人口も多かったので日本の経済発展を下から支えたのだった。
私を除きそこそこ会社幹部になり定年を迎えていた。
しかし、誰も老後の生活に不安があり、まだ会社で中堅現役の頃は
同期会も銀座の寿司屋で始まり3次会で閉めて深夜タクシーで帰宅
しかし、今回は会費6千円で名物さくら鍋だけで8時半にはお開き
それぞれ神田駅から家路に着いた。

幼き時物事知らず
老いては白髪体弱く
青春は一瞬の光芒なのか



ハローワークと両国橋

2009-12-26 10:27:49 | 日記
12月25日クリスマス
午後 来年1月23日に移転する事務所を見に行く。
現在の事務所から徒歩20分 両国橋の袂、東日本橋側のマンションに引っ越す
ついでに隅田川の遊歩道を散策、両国橋の先に茶色の建物の手前にぼんやり
小さくグレーの建物が次からの事務所になる。
墨田区側から撮った写真。
近くには国技館、江戸博物館があり、お相撲さんが浴衣 下駄で両国橋を渡り
又自転車が押しつぶれるのが心配なほどの体でお相撲さんが行き交う
相撲部屋、ちゃんこ料理がいたるところに有りお江戸の風情がある。

夕方5時、事務所に戻るとお客様が来たところだ。
11月大手メーカーを定年退職された。
直接の顧客では無く間に代理店が入っており私はインポートメーカーとしての
下請けの立場にある。
2年前に台北にアルミキーホルダーの検査で案内した。
温厚篤実な方で、ともすれば大手のサラリーマンは下請けに傲慢な対応するが
この方は一切なく非常に仕事が滑らかに進みトラブルは生じなかった。
在職中のお礼に来たのだが、もう一つ理由があった。
ハローワークに通っているのだが、失業給付金を受領するには
毎月、求職活動で何処かの会社に行きそのリポートを提出しなければ
ならない。
このご時世に60過ぎのオジサンを雇用する所など無い。
形式上来たのだ。
大不況だがタイミング良く定年になり退職金は満額、豊かな年金生活。
従来であれば再雇用もあったのだが認められなかった。
しかし、自営業者である私から見れば羨ましい。
まともな退職金、年金も無く
泥舟の船長であり、沈まぬように命尽きるまで漕ぎ続けなければならない。
中華料理を食べながら、台湾での物造りの大変さや楽しさ
又親日的で優しい台湾人との交流が楽しかったようで
来春には、家族で行きおいしい料理と観光そしてゴルフをしたいそうだ。
私にも海外出張が出来る程の仕事を獲得しなければならない。

久しぶり銀座のクラブ

2009-12-21 08:19:00 | 日記
12月18日 5時半友人が新橋から徒歩で事務所までやって来た。
昨年、地方新聞社東京支社長を定年 今は嘱託の気楽な身。
早速、神田の安居酒屋でホッピーと煮込みで飲食。
店内の長テーブルには客はいないが、お絞りを全ての席に置いて
あり、今日は予約が入ったと店主の丸顔がほころぶ。
不況はこの居酒屋にも押し寄せ満席になることは月に数度しかないとこぼしていた。
それから、中華店で紹興酒と野菜炒め、焼きそば、餃子を食べる。
60歳過ぎのオジサン元気一杯。
突然 友人が銀座のクラブに行こうとタクシーで
冷たい風に揺れる柳小路で下りる。
裏通りの鉛筆ビル7回、木枠扉を開け
グリーンのふわふわじゅうたんを踏み締め
きれいなお姐さんのスマイルに導かれテーブルへ
銀座のクラブなどに行ったのはいつの頃か思い出せないの程の歳月が経過していた。
10時半、客が4人程いたが帰るらしい。
11時過ぎ客は我々二人だけ、きれいなお姐さんは5人
よけいなお世話だが、このお姐さん達に給与払えるのか心配
単価上げれば客は逃げる クラブもデフレか!
友人はここのママさんから宇部のかまぼこ頂いたから
来ないわけ行かないと囁いた。
銀座のクラブも必死
だが、バブルの頃は終電過ぎても客はいたが今では電車が動いている時間帯に
帰る。私達二人はママさんが手配した白タクで帰ることにした。
船橋経由茨城佐貫まで、幾らの料金取られるのか知らんが
友人の奢りだから構わないのだが!
あのバブルの時代、タクシーが捕まらず始発電車で帰ったり
会社に泊まったり、しかしお金も仕事も何とかなると心配していなかった。
皆一億総中流意識があった。
しかし、音も無く不況の津波が日本列島を襲うとは気付いていなかった。
一気に地殻は陥没して這い上がる術が無く、もがいている。
昨年 台湾台北、 林森北路にある日本人ご用達のネオン街クラブ
に入ったが日本人客は疎ら、台湾人が客としていた。
15年程前はこの繁華街は台北の新宿と言われ
日本人駐在員、ビジネス出張の日本人で満席であった。
現在工場は大陸に移転してしまい台湾の産業空洞化は台湾人
としてのアイデンティーに暗い影を落とし、日台関係より台中関係
重視にシフトせざるを得なくなった。
私の会社は現在も台湾企業がメーンであるが
ビジネスやり取りは台湾、金の流れも台湾だが
実際の製造は大陸なのだ。
このトライアングルがしばしばトラブルを生じさせている。