馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

本年最後の飲み歩き。

2012-12-30 20:16:13 | 日記

12月28日(金)本年仕事最終日

午前中、銀行、郵便局周り支払い済ます。

11時半、柳橋事務所で片付けしているとメールが入る。

「既に着いた」。

大急ぎで向かう。

待ち合わせ場所は銀座4丁目コアビル前。

30年前、サラリーマンしていた時

6階店舗、8階が営業部で、名目上営業部に在籍していたが

実質労組書記長だった。

ビル内店舗は当時の店は殆ど無く、私が勤めた会社も撤退していた。

そこから、銀座中央通りを新橋方向に行くと

スワロスキーの店がある。

そのビル10階に小尾羊がある。

火鍋を食べさせる。

  

12時半集合だったが、12時着。

全員が揃っていないが、寒いので先に入店。

予約はしていないがテーブルは埋まっていない。

4人テーブルが連なる中央席に案内された。

とりあえずビールを注文。

続々、客が入りだすと、席替えを促される。

全員が揃ったところで、注文すると、又又席替えを言われた。

8人が座れる馬蹄形ソファテーブルになり

電磁調理器が設えたテーブルだ。

   

ウエイトレスの中国人女性の接客は不愉快だ。

980円のランチを食べるのだろうと

勝手に思い込みの態度だ。

 

5900円のコースを注文。

待つ事10分過ぎてもビールは運ばれない。

以前3回利用したが、ルーズで遅い。

 

以前と同じセリフ「今日は人手が少なく、新人が一人なので」

言い訳する。

皆が辛い蒙古料理が好きなので来るのだが

近場ではここしかない。

オーダーブザーを押してもウエイトレスは注文取りに来ない。

あっちこっちのテーブルから、ブザーが鳴り出す。

新人は中国人女性で、日本語が未熟のようだ。

違う飲み物出されたので、思わず息子が北京語で指摘。

 

食事時間制限90分と書いてあるが、鍋も運ばれず20分経過。

中国人のベテランらしきウエイトレスにクレームを言うと

「大丈夫です。時間制限はありません」

 

昨年、弊社女性が両親を連れて来た時も同じだった。

 

ビール、紹興酒を飲み、羊肉、牛肉、野菜をどっさり食べた。

 

窓辺から、東電本社が見える。

20代の時、上司の不正追及したが、反対に嫌がらせで

東電近くの店で皿洗いさせられた。

東電本社には今でも、役員用エレベーターとその中に椅子と付き添い女子社員は

いるのだろうか?

http://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/a7d4a341ffd3e67e9a0098e6a6766264 

  

14時、1階に下りた。

スワロスキーショップを覗く。

美しい中国人女性が接客する。

マナーは丁寧、流暢な日本語で応対。

尖閣騒動前は、どっと中国人観光客が買い物の訪れたのだろう。

彼女の心中はどのようだろうか?

 

大震災の時、中国人は大陸に多数逃げ帰ったが

尖閣暴動で中国人達は、日本が怖くて帰国したとは聞いていない。

中国各地で反日暴動が繰り広げられたが

日本人は低レベルの愚動は行わない。

 

スワロスキーのアクセサリーを見ていたデザイナー女性が言った。

「今まで黙っていたのですが、昨年オーストリア・ウイーンに両親と

旅行して、スワロスキー本店でアクセサリーを買ったのですが

ホテルに置き忘れた」

「クローゼットに置いたのですが、戻ると消えていた」

「ショックでずっと黙っていました」。

 

私は 唸ったまま、言葉が出ない。

 

息子も4年前、チュニジアで、ホテルの部屋鍵閉め

スーツケースにデジタルカメラを入れたが

朝食で15分程室内を出た、部屋に戻るとスーツケースから

デジタルカメラは消えていた。

闇市に出回るのか?

 

モンブランショップも覗く。

一本350万円価格の万年筆がガラスケースに燦然と鎮座。

弊社も筆記具扱っているが、異業種だ。

モンブランは高級貴金属店であって文房具店ではない。

 

30年の歳月は当時の日本ブランド老舗店は殆どなくなった。

海外ブランドショップが銀座通りを占める。

 

腹が膨張しているので柳橋まで歩く。

 

途中、雨降り出したが16時半事務所着。

 

本年最後の出荷。ネット販売商品、年末までに届ける。

羽ペン、スワロスキーボールペン、平家家紋バッジ

他アクセサリー

.co.jp/shop/

 

まだ、酔いも残っていたので、椅子倒して居眠り。

 

18時半 両国橋渡り錦糸町まで歩く。

 

裏通りを歩き、かちかち鳥に提灯が点いていた。

以前、何度か覗いたが満席だった。

本日はカウンターに空席があるようなので入った。

店主は私の名前を覚えていた。

私のブログにもコメントを頂いた。

 

日本酒、八海山を飲む。

実兄の教え子に八海山酒造に勤める方がいて

頂いたことがあり、高いが旨いので気にいって居酒屋にあれば飲む。

焼き鳥を注文。

 

両国駅から少し距離があるが、静かで清潔な明るい店内。

駅前居酒屋のタダレタ不健康雰囲気はない。

脱サラした店主の人柄と上品な肴が良いので直ぐに酔いが回る。

 

店主に言われた。

「雨の訪問者ですね」

そうか!初めて来た時も雨だった。

その後の来店も雨だった。

 

冬の雨宿りには、かちかち鳥は似合う。

土砂降りで出て行く雨宿りより、

窓ガラス越のポプラの葉から流れ落ちる雨だれ見ながら

雨止むのを待つが酔い。

 

降りしきる冷雨避けて、かちかち鳥の雨宿りは風情この上ない。

だが、店主にとっては上客とはいえない。

 

「酒は愁いの腸に入り、相思雨となる」

 

酒と焼き鳥と雨は、私には相性が酔いのか?

 

2杯飲んで、傘無しで、オールドファッション

ダックスのハンチング、VANのシャツ、スーツ、コート、ケントのネクタイ、リーガルシューズで小雨の国道16号線を歩いた。

折角のおめかしも、濡れオジサンになって、又ホームレスオジサンに変わった。

自宅で万歩計を見ると、歩行距離13キロと出た。

 

本日は飲み歩きだった。

 

2012年も後わずか。

年が代わっても、毎日坦々と日々の仕事をするだけ。

そうやって老いてゆく。


お袋と息子の絆。

2012-12-29 23:02:16 | 日記

 

12月27日(木)

17時、大学病院へお袋の様子を見に出かけた。

遺漏なので食べることできず。

点滴のみ。

口が回らないかすれ声で、トイレに行きたいとせがむ。

ベッドの鉄棒を叩く。

 

額の湿布を換えてあげる。

お袋を見詰めて、又泪が零れた。

そんな私をじっと見詰めるお袋。

19時半 弟がやってきた。

来年早々に他の介護専門病院へ入れると言った。

既に八ヶ月経過、同じ病院に、居させるわけにはいかないのだ。

20時 義妹の副院長がやってきた。

お袋は、手を横に振り、「帰れ」のしぐさをした。

病院を出て、246号線沿いの中華店に入り

ビールと焼きソバを食べた。

 

246号線の緩い坂道を渋谷駅に向かって歩いた。

手袋を忘れたのでコートに両手を突っ込み

冷気を避けようと前かがみ歩く

煌びやかなネオン街が見えてきた。

若い男女の人群れは輝いている。

いつかは忍び寄る愛憎など今は微塵もないのだ。

 

子供を父や母に結びつけていた絆は決して切れることはないけれども、それはゆるむのである。
byローレンス


クリスマスランチ!

2012-12-29 21:43:55 | 日記

12月25日(火)クリスマスランチ

パンと七面鳥のハム、ベーコン

野菜に挟み食べた。

  

七面鳥の肉はあっさりしていた。

 

ミニトマトスープもでた。

  

第三のビールを飲みながら

ささやかなクリスマスランチは素敵だ。

ランチ後、デザイナー女性が巳年の年賀状デザインをしてた。


ホンビノス貝。

2012-12-29 21:33:51 | 日記

12月24日(月)

昨夜 居酒屋あんこうで地元の自治会長にあった。

昼間 餅つき会があった。

地元漁師が世話になったとホンビノス貝を差し入れた。

http://www.youtube.com/watch?v=Zj5gC16bIv8

私にもおすそ分けしてくれた。

昼 酒蒸しして食べた。

 

海外ではクラムチャウダーに使われる。

アサリより一回り大きく、肉は少し硬い。

妻は食べないので、一人ビールを飲みつつ食べた。

食べ過ぎで痛風発作が心配だ。

今夜 通夜に行くのでロキソニンを飲んだ。


通夜の席。

2012-12-29 17:46:12 | 日記

12月24日(月)

前夜20時 携帯電話に実兄から知らせがあった。

実兄が私の携帯に架けてくるのは初めてだ。

内容に戸惑った。

 

16時頃、船橋駅から総武線乗車。

飯田橋下車、有楽町線に乗り換え市川橋駅で下りる。

A2出入り口から外に出ると高架下だった。

交番で大泉寺の場所を尋ねた。

近かった。

ローソンの角を左折して坂を少し上がると

瓦葺の大きな山門があった。

脇の入り口から中に入った。

灯篭の薄明かりに浮かぶ本堂。

受付で記帳。

上り廊下に実兄が立っていた。

 

控え室に入った。

黒服姿の老人達が長テーブルで正座していた。

 

実兄が私を老人達に紹介した。

老人の一人が「なかなか貫禄があり、社長風だな」と言った。

実兄は苦笑しながら「実は!そうなんですよ」

私も次男ですと挨拶。

まもなく弟もやってきた。

 

通夜が始まった。

浄土宗の寺なのだ。

中年の弁慶のような体躯の坊さんが木魚を叩き出した。

襖が開き、弁慶坊さんにそっくりで父らしき老僧が現れた。

 

読経が始まり、親族側と参列者側が祭壇と老僧を挟んで

向き合った。

 

親族側も参列側も列席は10人に満たない。

焼香が終わり、別室の畳部屋で通夜の会食が始まった。

 

親族で顔が分かるのは、兄嫁とその嫁さんの兄と嫁さんの姉の旦那だけ。

兄嫁のお兄さんに挨拶した。

私を忘れていたようだ。

20年以上前、実兄が3月の八ヶ岳で遭難した。

新宿駅南口で午前7時半、現役大学山岳部員と待ち合わせ

パンツ一つになって、部員が持ってきた衣類、登山靴を借り、冬山装備の支度した。

特急あずさ2号に乗って茅野まで行った。

同行したのが、兄嫁とその兄で中学の数学教師だった。

兄嫁の兄は

「ああ!そんなことありましたね」と思い出したようだ。

 

実兄の義母98歳

23日 午前4時、老衰による静かな大往生。

 

98歳の女性の死に参列すべき関係者は既に旅立ってしまった。

20名程の参列者は血の繋がりある者、多少の血縁関係者

又は血縁なくとも身内と称する者の集まりだ。

 

何処かですれ違っても認識しない、飲み屋で隣会っても分からないだろう。

98歳でこの世を去った葬儀という儀式。

 

実兄が会食の席で隣に座り、話しかけた。

「お前は次男だから、どうしても来てもらいたかった」

私は酒を飲み、頷きもせず下を向いていた。

「お袋が何と言うと、こちらの葬儀だ、口出しさせない」

「お袋は病院で寝たきりだ、心配するな」

 

必死に説明する。

 

私は、親族関係のあらゆる行事に参加したことはなかった。

拒んだ訳ではなかった。

無視されたので、祝い事、親族葬儀、実兄の転居

孫の出産等あらゆる身内儀式を知らなかったのだ。

 

10年以上前11月に私の妻の父(義父)が亡くなった。

翌年3月20日彼岸の日

私は長女である妻の夫として、寺で供養をすることになった。

 

お袋から突然「3月20日に喜寿の祝いをするから来い」と連絡してきた。

 

当然無理なので日程をずらしてくれるように言ったが

無視、強行された。

 

その後、おふくろは「次男は我がままで来ない」と親族に嘆いた。

その言葉に泣いた。

私は幼い頃からの差別待遇も耐えてきた。

 

50代半ばで母親に絶縁状を送った。

 

息子が実母に、「親子の縁を切りたい」

反対は有り得ても、子供がすることは殆ど無いだろう。

 

その書面を見た実兄から電話が入った。

 

「お袋を許してあげてくれ、お袋の行為は致命的だ」

懇願された。

 

私は電話に聞き入り頷くことも無かった。

 

男3人兄弟、仲は良いのだ。

 

60歳過ぎだが未だ現役で仕事している。

実兄は日本の予備校界では68歳で二番目の年長講師として有名だ。

白髪だが、人気商売なので黒く染めている。

 

弟も絶縁材料会社を経営しているが苦闘中

3人兄弟、それぞれの事情があって働かねばならない。

 

実兄、弟は、私がお袋から、疎んじられているのは理解していた。

 

私がまだ幼い頃、お袋が「3人も男の子がいて大変なの、上と下がいれば十分、真ん中は要らないわ」近所のオバサンに立ち話しているのを聞いた。

 

お袋は軽い気持ちで言ったのだろうが

幼い私にも、その言葉は分かった。

トラウマになって現在も苦しみ続けるのだ。

 

当時は貧しかったので男3人を育てるのは容易ではなかった。

どうしても、手が回らず次男に目を向ける余裕はなかった。

 

私は高校、大学奨学金を貰いながら卒業した。

 

実兄、実弟は私に気遣い遠慮がちだ。

 

20時、通夜の席を辞して、駅前の中華居酒屋で弟と飲み直した。

 

弟の嫁さんは大学病院の副院長兼看護部長、日本手術看護学会理事長の要職で激務

子供はいない。

横浜の実家でお袋の面倒をみていた。

 

弟にお袋介護の負担をさせているのに私も負い目があった。

お袋に愛憎半ばしても、私を生んだのは間違いない。

 

居酒屋で「お袋には違いないから、余命迫るのでなるべく見舞いに行くよ」

私が冷酒を弟に注ぎながら言った。

「うん!そうしてくれるか」

弟は言った。

 

飯田橋で弟と別れた。

 

船橋駅を下り、突き刺さるような寒さを歩く。

震えが止まらない。

通夜で出かけようとして喪服をだしたら、腹回りが膨張したので

ズボンのベルトを締められないのだ。

致し方なく、夏の喪服着用となった。

帽子、マスク、マフラー、コートを着けたが

海沿いの夜道は、北アルプス白馬岳で凍傷になった右手、右耳が痛む。

 

水門を吹き抜ける風に船溜まりの漁船同士が揺らぎ

擦れあい唸っていた。

大学病院の副院長である義妹の言った言葉

「お母さんは年内まで、もつかどうかと、いうところ」

まもなく今年も終わる。

 

一日一日、目の前に現れては消えていく「今日の出来事」に、思いを乗せて向き合ってきた。

今年の手帳の断片には、その日そのときの想いが滲んでいる。

手帳の日付記入欄もわずかだ。

日々に生まれて、去っていった幾つかの風景が幻燈写真のように思い出されてくる。

 

「すべては生まれ、消えていく」。                               

 

よろこびも悲しみも・・・・。まさに森羅万象、諸行無常である。

 

昨日は今日に移動し、明日は今日に連続していくと思うのは、

錯覚なのではないかと云った人がいる。

過ぎ去ったものは、二度と取り返すことはできない。

「日々に新たに」という言葉があるが、生きていく

 

ということは、その一瞬一瞬を新しく生きていることに他ならない。

恩讐を棄てなければ明日も苦しみだけだ。

まだ、まだ、修業足りず、安らぎがないのだ。

                         合掌!