目指せ!映画批評家

時たまネタバレしながら、メジャーな作品からマイナーな作品まで色んな映画を色んな視点で楽しむ力を育みます★

時をかける少女 ★

2010-03-18 01:03:11 | 
楽しみにしていた実写版「時をかける少女」の
リメイクを川崎チネチッタで鑑賞。

細田守監督のアニメ版が珠玉の出来で大変素晴らしかったので
期待値が妙に上がった状態で鑑賞してしまいました。

期待しすぎた自分が悪かったようにも思いますが、
正直言ってこれはナイ。。。という出来映えでした。

キャストの仲里依紗や安田成美は別に悪くない。
70年代の登場キャストの面々も中尾明慶を筆頭に
かなりよい仕事をしようと頑張っている。

だが、どうにも映画の演出であったり脚本であったり
セリフ回しがダメ。センスが感じられないし、テンポが悪すぎる。

序盤、主人公の仲里依紗が走っていくシーンから
物語はスタートするのだけど、大学に合格し
母と喜び合ったシーンまではまだよかったのだが、
その次のシーンで公園の池でボートで二人で
お祝いと称してお弁当を食べているシーンがある。

どうにもここの会話のテンポやら演出が不自然だった。
お祝いでわざわざ狭いボートに乗ってお昼ご飯を
お弁当食べに行く?
「お祝いごとがあるたびに来ているよね」という
セリフ自体がとてもテレビ的で一気に冷める。

そう、この一連の序盤のシークエンスには
現実感というか実在感がないのだ。このシーンを
作った人はこういう一連の流れに果たしてどこまで
感情を込めて作ったのかわからないが。。。

また、この映画は大林監督の「時をかける少女」の
主人公の娘の話、という設定で作られている。

当時のファンを取り込もうという姿勢は何も悪いことではない。
細田版アニメでもやはり、大林版のヒロインが主人公のおばさん役で
登場し、話に華を添えている。

ただ、あくまで主人公真琴の成長や気づきのきっかけとしての
役割を演じるに留まり、大林版の続きを描こう、という
ところへは踏み込んでいなかった。
その結果、細田版では真琴という素晴らしいキャラクターを
存分に描くことが出来、結果として、作品全体に躍動感が生まれた。
芳山和子はあくまでサブキャラの位置づけだったのだ。

だが、今回は主人公の母親でしかも、大林版で描かれなかった
作品の直接の続きを描こうとしている。

安田成美演じる芳山和子が取る行動は確かに
大林版を知る人間からすると涙ぐましいものがあるのだと思う。

ただ、娘のあかりにそれを託して70年代に戻っていくところに
あまり話の盛り上がりがない。そもそも、和子が
怪我をするその症状の重さがどの程度かがあまり明確に
描かれず、なんとなく大丈夫そうに見える。
そして、和子が無理をして行こうとするのを止めて
代わりに過去へ行くあかりには大きな動機が生まれづらい。
母和子の容態がいまいちよくわからない状態なだけに切迫感がないのだ。

結果、あまり緊張感もなく70年代シークエンスに突入してしまい
序破急にあたる、破のシークエンスがとても中だるみしてしまっている。

描かれている70年代風景はとても手が込んでいて後ろで
歩いているエキストラの服装もとても細かいし、
映画監督を目指す溝呂木の部屋のポスターなどの小道具は
本当に芸が細かい。ゴテツの寮での洗面台でのお風呂シーンも
なかなか時代を表してはいるのだと思う。

この後も70年代を彷彿とさせる吉田拓郎だったり、
神田川だったり銭湯だったり、とそういうキーワードが出てきては
その差を楽しむ、という70年代回顧のシーンが多い。

今、40代、50代の人にはこれは結構うれしいかもしれないが、
20代、30代の観客はどうだろう。別にうれしくはないように思う。

途中からは随分あかりは70年代に馴染んでしまって
本来の目的もうっすら何だったかわからなくなってきてしまう。

いや、このシークエンスは個人的には結構好きなんですけどね。ほんわかして。

さて、ここからは少しだけネタバレに近い記述をします。
観たい人は見てから読んでください。







-------------以下ネタバレ注意-------------------








序破急の急に向かうシークエンスでは
ついに探し人を捜し当てるわけなのだが、あかりの探し人というのが
また、なんとも人間味の薄いキャラクター。その後の展開でも
どうしても感情移入しづらいキャラ造形なのだ。
(いや、設定上、人間味があまり出ていないのかもしれないのだけど)

これがまた、悲しい結末を迎えるにあたって、
どうしてもやりきれないところを迎え、さらに
このキャラクターが取る行動の数々がどうにも感情移入を妨げる。

ラスト付近などはもう目もあてられない。

この映画の言いたいことは多分、
「本当に大事なことは記憶ではなく、心で覚えている」という
ことなのだと思うのだけど、それもまた、芳山和子が
セリフで言っちゃってたりして、どうにもこうにも。。。
(TBSラジオ シネマハスラーでも言ってましたが、テーマとなるような
大事な部分、構想ノートの一番最初に書くような文言はセリフで喋らせたらダメ!)

10数年以上、心で覚えていたことも
やっぱり消しちゃうわけでしょ、深町くん!
それはやっぱりあんまりなんじゃないのかな。
(ここは感情論かもしれませんが)

あと、深町くんを呼び出す方法は別に2010年でもできるよね。。。

記憶を消された親子がそれぞれ訝しげにフィルムとラベンダーを
見つめている様はちょっと滑稽すぎて別の意味で
涙が出そうでした。いや、この演出はひどい。

その後、ゴテツから8ミリ映写機を借りてフィルムを観ながら
涙を流すあかり。いや、確かにこれは残酷な話だから涙も出るよね。

また、ある人の指摘を読んでいて激しく同意したのは
溝呂木くんとの日々の中でいつ、あかりは溝呂木くんへの
慕情に気づいたのか。どうも唐突ではないか、という話。

おそらくは二人でこたつに入っているシーンあたりなのだと
思うのだけど、そこをきっかけにあかりが抱く感情が
映画作りをした仲間に対する感情なのか
恋慕の情なのかがいまいちわかりづらかった、と。

そして、あかりが失ってしまったものの大切さあるいは
喪失感に気づいたとき涙が出てくるのは映画を観終わったときではなく、
桜の木の下を歩くときでなくてはならないのでは、という指摘。

この指摘はまさにそのとおりだと思います。
桜の木の下で一緒に歩けるといいね、と話していたわけですから
一緒に歩けない喪失感から涙が出てくる、が作劇としては
正しいように思います。

ゴテツとの関係もいまいち描ききれていないし、
(そんなんだったら、最初から描かなければよかったのに!)
この映画がやりたかったことが何だったのかがさっぱり わからなかった。

芳山和子の物語をもう一度つむぐにしては 結末が悲しすぎるし、
芳山あかりの物語としても結末が 悲劇的すぎて救いがないし
人物を魅力的に描ききれていない。

大林版や細田版とどうしても比較してしまうのですが、
大林版であれば一つの切ない物語として完結してますし、
細田版では切ないながらも元気になれるような前向きな結末が
描かれています。

対してこの谷口版はどうしてもこの作品の意義というか
カタルシスが感じられません。
敢えて言えば便乗商売・・・。アニメ版で真琴の声優を演じた
仲里依紗を配したのはいい例だと思います。
いきものがかりとのタイアップがうまくいっているだけに
映画の出来そのものが低いのはとても残念です。。。


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