努力している人や頑張っている人を否定するわけじゃあないんだけど、興味ないんだよなあ、そういう人たちに。いかに努力して、悩んで、頑張って、それを成し遂げたか。そういう話に、何の関心も湧かない。こんな困難があったけれども、こんなにスキルアップできました。あっそ。全く申し訳ないけれども、共感できない。
どんなに努力しても駄目でしたって話も、それほど好きなわけじゃあない。そういうのを聞くとこっちまで悔しくなってきてしまうから、嫌だ。
そういうのじゃなくて、どんなに努力しようと思っても、結局努力できませんでしたって人には共感できる。やる気がなくて、だるくて、めんどくさくて、頑張りませんでした。だから平凡な人生を歩んでいます。なりたい職業に就くことができませんでした。不平不満ばかりが溜まります。大きな壁にぶち当たったら必ず逃げるようにしています。・・・
努力する人が偉いとか、頑張っている人を応援しようとか、そういうコピーって一種の脅迫なんだよ。そんなふうにできない人たちがいるってことを忘れないでほしいんだよな。甘えだろうが卑怯だろうが、どうしても逃げ出してしまう人がいる。頑張ろうと思っても気持ちが奮い立たない人がいる。体に鞭打とうとする気力がない人がいる。
努力する人が偉いだって? 何の取り柄もなく挫折感を抱いたまま無気力に生きている人を自分は尊敬したいね。だってどう考えてもそっちの方が尊いじゃないか。自分は生きるに値しないと思って生きているんだよ。皆から「あいつは敗北者だ」と思われながら生きているんだよ。それでも生きているんだよ。
これは自明のことのように思われるんだけど、でも多くの人は頑張っている人の方が偉いと考えているみたいなんだよな。必死に英語を勉強しながら一人で会話練習を続けているサラリーマンと、無気力に打ちひしがれて机に突っ伏しながら今日も生きてしまったことを後悔する受験生と、どちらが尊いか。明らかですよ。
こういう当たり前のことが正確に認識される世界になってほしいものだと切に願う。
ところで昨晩夢を見た。旧友が何人か出てきた。君たちは、尊くなくてもいいから楽しい人生を送っていてほしい。どうか、幸せを君たちに。
どんなに努力しても駄目でしたって話も、それほど好きなわけじゃあない。そういうのを聞くとこっちまで悔しくなってきてしまうから、嫌だ。
そういうのじゃなくて、どんなに努力しようと思っても、結局努力できませんでしたって人には共感できる。やる気がなくて、だるくて、めんどくさくて、頑張りませんでした。だから平凡な人生を歩んでいます。なりたい職業に就くことができませんでした。不平不満ばかりが溜まります。大きな壁にぶち当たったら必ず逃げるようにしています。・・・
努力する人が偉いとか、頑張っている人を応援しようとか、そういうコピーって一種の脅迫なんだよ。そんなふうにできない人たちがいるってことを忘れないでほしいんだよな。甘えだろうが卑怯だろうが、どうしても逃げ出してしまう人がいる。頑張ろうと思っても気持ちが奮い立たない人がいる。体に鞭打とうとする気力がない人がいる。
努力する人が偉いだって? 何の取り柄もなく挫折感を抱いたまま無気力に生きている人を自分は尊敬したいね。だってどう考えてもそっちの方が尊いじゃないか。自分は生きるに値しないと思って生きているんだよ。皆から「あいつは敗北者だ」と思われながら生きているんだよ。それでも生きているんだよ。
これは自明のことのように思われるんだけど、でも多くの人は頑張っている人の方が偉いと考えているみたいなんだよな。必死に英語を勉強しながら一人で会話練習を続けているサラリーマンと、無気力に打ちひしがれて机に突っ伏しながら今日も生きてしまったことを後悔する受験生と、どちらが尊いか。明らかですよ。
こういう当たり前のことが正確に認識される世界になってほしいものだと切に願う。
ところで昨晩夢を見た。旧友が何人か出てきた。君たちは、尊くなくてもいいから楽しい人生を送っていてほしい。どうか、幸せを君たちに。
頑張る人・努力する人が成功する世の中というのは、一見するととても理に適っていて、報われる世の中のように思えます。社会的成功を収めるには、それなりの能力がなくてはならなくて、そしてそれなりの能力を養うには努力する必要がある。もちろん、能力があれば必ず社会的に成功するわけではないだろうけれども、でも能力を磨くことが求められている。
でもぼくは、そういう社会が嫌なんだと思います。頑張れば報われる社会っていうのは、つまり頑張らないと報われない社会です。世襲や身分制度がいいというわけではないんだけど、今の社会は残酷すぎる。
頑張る人と頑張らない人がいて、どちらも微笑ましい。「努力しろ」と強制したりはしない。努力することが尊ばれていない。努力しない人が蔑まれもしない。そういう場所で生きてみたい。
どうしても無気力な人がいる。そういう人に「努力は美徳だ」と教えて何になるでしょう。誰かが歯を食いしばって努力している姿を見せて「君もああなれるといいね」と励ますことが何になるでしょう。いや、「無気力である自分自身をそのまま愛しなさい」なんて言うつもりはないのです。だって、この社会はそんな愛をごみくずのように蹴散らすから。
実はぼく自身、何かに打ち込めたらいいのにと願っています。でもそれは社会的成功を得るためではありません。ただ充実感を得たいからです。
でも今まで書いたことは全部皮相な事柄です。嘘と言ってもいいかもしれない。ぼくはただ安らかに生きたいだけなんです。「あの子」たちだけじゃなくて、どうかぼくも救ってくれよ・・・
僕が誰かはわかると思います。あなたの直接の知り合いの方含め。
「努力する人が偉いとか、頑張っている人を応援しようとか、そういうコピーって一種の脅迫なんだよ。そんなふうにできない人たちがいるってことを忘れないでほしいんだよな。甘えだろうが卑怯だろうが、どうしても逃げ出してしまう人がいる。頑張ろうと思っても気持ちが奮い立たない人がいる。体に鞭打とうとする気力がない人がいる。」
ここは共感できます。僕もそうだったから。いや、いまもそうなのかもしれません。ですから、今僕が働いている学校なんかで、執拗に「努力賛美」をすること、「頑張って」という文句の称揚には違和感といいますか、皮相ささえ時に覚えます。
学校の誰もが発するそれら言葉のなかに、対象を想うどれほどの文脈が存在しているのか、僕にはわからない……。ただ、ひとついえることは、「どうしたって頑張れない人がいる」という厳然たる事実です。
それでも、僕の中には撞着した思いがあります。相克する感情の渦中にあり、努力し続けたいと切に願う気持です。それはわかったからです。「この世は努力できないものに無情だということが。」利用価値のない家畜が須くされてしまうように、いかなる事情の下でも、人間社会には自然淘汰の原理が働いています。
こんな世界は辛いです。僕に「頑張ることが出来ない」子を救える力がるなら、僕はその子達だけの教師になるかもしれません。それを教師と呼べるかわかりませんが、僕の価値を見出すなら、僕という存在は、いまそこに在るあの子を救うことなんじゃないか。「どうしってもできない」その嘆きを、僕も食らうことなんじゃないか。
記事を読んでかく感懐を抱きました。