稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

転載 ねずさんのひとりごと「朝鮮の歴史と日本」

2020年07月02日 | 政治や歴史など
コリアン(朝鮮民族、韓国人・北朝鮮人)が認めたがらない歴史的事実一覧
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20170501/

の、コメント欄に書き込むためにネットで調べていたら、またもや「ねずさん」の記事に当ってしまった。
なるほどなあ・・・と思うことも多く、ここに転載しておきます。

『ねずさんのひとりごと』 縄文人の反乱 日本を大事に
https://blog.goo.ne.jp/s6990714726/e/ea7a979905087e998749f74b45ffe49f

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『ねずさんのひとりごと』  「朝鮮の歴史と日本」

韓国では、日本の伝統文化はすべて「韓国が教えてあげた」ことになっています。
古代の日本には、文化は何もない野蛮な状況であり、すべての文化は韓国が教えてあげたものなのだそうです。...
実際、その通りに韓国の学校で使用する国定教科書にそのように書いてあります。

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【韓国 国定中学用国史教科書(1985)】
三国(百済、高句麗、新羅)は、互いに対立し競争する中で活発に文化を交流させた。
中国とも交流しつつ独自の美術を発展させる一方で、海を渡って日本に文化を伝え、彼らの文化の基礎を固めた。
百済では阿直岐(あじつき)と王仁(わんいん)が日本に渡って儒学を教え、段楊爾(たんやんい)、高安茂(こうあんむ)らも学問を教えた。
聖王の時代には仏教を伝えてやり、百済と高句麗の僧侶も多数、日本の仏教界を指導した。
儒学や仏教以外にも、美術、音楽、歴史、医学や農業などさまざまな技術を教えた。
ことに雲徴(たむじん)は紙、筆、墨、硯(すずり)の作り方を初めて日本人に伝え、法隆寺の壁画も残した。
日本が飛鳥文化を興し、古代王朝へと発展することができたのは、三国の文化が伝えられたからである。
(別技篤彦著『理解されない国ニッポン』祥伝社)
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時代考証も記述も、よくもまあここまで嘘を書き立てれるなあと逆の意味で感心してしまう記述ですが、これが韓国の義務教育(義務教育ということは、全国民が受ける教育ということです)で実際に使われている教科書であり、こういうデタラメが子供のうちから刷り込まれるわけですから、彼の国の国民が、確信犯的におかしな国民になってしまうのも無理からぬことです。哀れなことです。

そもそも朝鮮半島に、書かれている三国(百済、高句麗、新羅)時代から、すでに「活発で高い文化があった」というなら、その遺跡(遺物や遺構)が韓国に残っていなければなりませんが、残念ながらひとつもありません。

偉そうに「仏教や漢字を教えてあげた」というけれど、仏教も漢字も韓国が発祥ではありません。つまり韓国オリジナルではありません。
「教えた」というのなら、そこに韓国そのもののテイストが入らなければならないのですが、そうしたテイストもありません。

仏教伝来は、538年(日本書紀では552年)で、百済の聖明王の使いで訪れた使者が、欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したのが渡来のときとされています。
朝鮮半島の百済から献上され、渡来したのは事実です。

ところがこの頃の百済(くだら)は、日本の属国です。
国王の世継ぎの王子を日本に人質に出してもいました。
このことは、日本書紀だけでなく、朝鮮半島の史書である三国史記にも繰り返し出て来ます。

世継ぎを人質に出していたということは、どうみても、平等な関係ではありません。
なぜこのようなことになっていたかというと、百済は対立する新羅や高句麗から常に軍事的脅威にさらされていました。
ですから日本に常に、政治的、軍事的、経済的な庇護を求め、むしろ積極的に属国になっていたのです。

百済王は、そのための証に、我が子を人質として差し出していたわけです。
本来、庇護を受けるだけなら、謝礼として、自国の文物や特産品などを献上すれば良いのです。
ところが百済には、産業もなければ産物も特産品もない。
だから、そこで百済王が日本に差し出したのが、自分の息子だったし、支那で流行していた異国の仏教の教典や仏像だったわけです。

ということは、538年に百済が日本に「金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上した」という事実が物語るのは、当時の百済には、異国の仏像や教典、仏具以外に、献上できるだけの物産が「なにもなかった」ということです。
それを、「俺たちが日本に教えてやった」とは、おこがましいにもほどがあります。

ちなみに日本は神道の国です。仏教国ではありません。
ところが日本は海洋国であり、多神教国ですから、遠い異国深い内陸部にあるネパールあたりで生まれという「ありがたい教え」の教典や仏像、仏具などは、興味津々です。
日本人の好奇心の高さというのは、昔も今も変わりません。

ちなみに好奇心が強い国民性というのは、知的水準の高さを示しています。
好奇心が旺盛ということは、異なる文化に対しても寛容で、吸収力が高いということを意味するからです。
ですから、欽明天皇をはじめ、当時の日本の高官たちが、たいへんに喜んだであろうことは、容易に想像ができます。
けれどだからといって、仏教も、仏具も仏像も、韓国で生まれたものではないのです。

漢字や紙、筆、墨、硯(すずり)にしても、韓国が日本に「教えてやった」というけれど、彼らが言う「教えてやった」という時代は6世紀です。
ところが日本には、「漢委奴國王」の金印があります。
この金印は、後漢書の「卷八五 列傳卷七五東夷傳」に記述があり、後漢の光武帝が西暦57年に奴国からの朝賀使へ金印を贈ったとされています。
西暦57年といえば1世紀です。

印鑑というものは、行政書類に押印するために使われるものです。
文字が使用されていなければ、印は不要です。
金印が証明していることは、すでにこの時代に日本では、文字も漢字も使われていたということです。

ちなみに、支那の歴代王朝は、日本には「金印」を贈っていますが、朝鮮半島の王朝に対しては「銅印」(泥印ともいいます)しか渡していません。
金銀銅の順番は、現代オリンピックの勝者の順番だけでなく、古代においてもまったく同じです。
それだけ支那は日本に重きをおき、逆に朝鮮に対しては露骨に見下していたわけです。
それだけの国力しかなかったからです。

また、片部遺跡から出土した墨書土器は、4世紀前半のものですが、そこにはくっきりと墨痕鮮やかに「虫」という文字が墨書されています。
土器に墨で筆で書かれているのです。
悪いけれど、百済が成立したのが西暦346年で4世紀の中頃ですから、百済成立よりも以前に、日本では墨で書いた文字が出土しているわけです。

さらにいえば、種子島の広田遺跡から出土した貝札は、これは2世紀頃のものとされているのだけれど、そこにも鮮やかに「山」という字が刻まれています。
つまり、346年という4世紀どころか、それよりもはるかに古い2世紀には、日本に漢字は入って来ていて、しかもそれが使われていたということです。

そしてそういう教養と文化の下地があったからこそ、支那でヒンズー語を漢字に翻訳した仏教教典の値打ちを日本人は理解したし、遠く離れた内陸部の異国の文化を、喜んで迎え入れたわけです。

つまり、何を言いたいかというと、冷静に考えれば、「日本が百済に漢字を教えてあげたことはあったとしても、その逆はあり得ない」ということです。

そもそも朝鮮から日本が教わったことって、何があるのでしょうか。
儒学も仏教も、朝鮮で生まれたものではありません。
最近になって儒学の始祖である孔子は、朝鮮人だったなどと韓国の学者が言い出して、支那から総スカンを食っているくらいのことでしかありません。
それ以外の美術、音楽、歴史、医学、農業などにしても、日本と支那との間での様々な文化交流は確認できるものの、朝鮮発の朝鮮オリジナルの文化として日本に渡来したものは、なにひとつありません。

朝鮮半島の歴史を振り返りますと、歴史上、最初に朝鮮半島に登場するのは、衛氏朝鮮(えいしちょうせん)です。
この「衛氏朝鮮」というのは、紀元前195年頃に建国された(いちおう)国とされているもので、山東半島のあたりに生息していた実は盗賊集団です。

支那では、それ以前(紀元前403~221)の時代がいわゆる戦国時代で、有名な魏、蜀、呉(楚)や趙、斉、燕、秦、韓、櫓、宋、周、などの諸国がまさに群雄割拠して争っていました。
これを最終的に統一したのが秦の始皇帝だったわけです。
ちなみに、ここに登場する韓という国は、支那の内陸部にあったチベット系の遊牧民族で、朝鮮半島とは何の関係もない国です。

秦が初めて支那を統一したとき、山東半島のあたりにいた燕(えん)の国王は、秦の始皇帝によって、遼東半島のあたりに封じられたのですが、ほどなく秦が滅び、前漢が統一王朝を建てるわけです。これが紀元前202年のことです。

このとき、燕の末裔たちは、漢に追われて朝鮮半島北部の遼東半島の根本あたりで盗賊団を形成し、朝鮮半島を経由して漢と交易しようとする旅人を襲って飯を食っていました。
それが「衛氏朝鮮」(紀元前195~108)です。

ここで問題になるのが、衛氏朝鮮が襲って食い物にしていた旅人というのが、いったいどういう人たちだったのだろうか、ということです。
当時の朝鮮半島に住んでいたのは、「濊族(わいぞく)」と呼ばれる人たちです。

支那という国は、古来周辺民族の名に、ろくな漢字を充てていません。
たとえば、日本人なら背が低いから「倭」です。これは背の低い人とい意味です。
ですからだいたい、あまり良い字ではないけれど、同時にその国の民をもっとも良く象徴できる字を、その地方の民の名称としてあてがっていたわけです。

では、支那が朝鮮半島にいた人々を「濊族(わいぞく)」と呼んだ、その「濊(わい)」というのがどういう意味の漢字かというと、これは汚穢(おわい)の「穢」です。
汚穢(おわい)というのは、糞尿のことです。
要するに「濊」というのは、糞尿まみれの不潔で汚い奴らという意味です。

しかも、ご丁寧に、支那人たちは朝鮮族について、本来、汚穢の穢なら禾偏(のぎへん)なのに、あえてサンズイで「濊」という字を充てています。
どれだけ汚い奴らと思われていたかということです。

そして濊族たちと前漢の間の国交を示す記録は、どこにもありません。
普通に考えても、汚穢族のような不潔な連中と交易など誰もしたいと思わないし、ということは、衛氏朝鮮も、襲う相手は、どう考えても汚穢族が対象ではなかったといえます。

では、衛氏朝鮮は、いったいどういう人々を襲っていたのでしょうか。
実は、当時の朝鮮半島の南部、いまの韓国の南半分のあたりは、倭国の一部でした。
倭国は、それよりもずっと古い昔から、勾玉(まがたま)を加工して支那に献上できるほどの高い技術力を持った国でした。

このことはとても重要なことで、魏志倭人伝に出てくる魏の国に、日本は勾玉(まがたま)を献上しているのだけれど、その勾玉は、主にヒスイでできています。
ヒスイは硬度が6.5もある硬い石で、鉄の5.5よりもはるかに硬い石です。
その鉄より硬いヒスイの原石を、まだ鉄器がなかった時代に、日本は丁寧に加工して、穴まであけて、勾玉にし、これを物産としていたわけです。
ですから、勾玉はたいへん貴重なもので、倭国が魏に献上した勾玉も3つくらいしかありません。
勾玉は、それほどまでの古代における精巧な加工宝玉だったのです。

そうした倭人たちは、当時のことですから、当然、陸路で、支那に向かいます。
彼らは、まさに宝玉財宝を持った旅人たちです。
衛氏朝鮮は、これを襲っていたわけです。

時代はこれよりもずっと後になりますが、遣隋使、遣唐使の時代、毎回大型船を4〜5艘仕立てて、日本の文物財宝、特に日本は古来、世界有数の金の産出国でしたから、大量の金などを積み込んで、支那へと派遣していたわけです。
そして記録によれば、その成功率は、3割程度で、あとはみんな途中で船が沈められています。

沈んだのは嵐のせいだとかいろいろな説がありますが、嵐のこないシーズンを選んで出国し、九州から、朝鮮半島の沿岸伝いに支那まで行くわけです。
縄文時代には、すでに遠洋航海の技術を発達させ、倭国の時代には朝鮮半島南部を倭国の一部としてさかんに海上での人の行き来があった日本です。
朝鮮半島の沿岸伝いの航海が、「危険な航海であった」ということの方が、実は異常です。

ではなぜ、朝鮮半島沿いの航海が危険なものだったかと言えば、記録にはないけれど、ひとことでいえば、朝鮮族に襲われたとみることがいちばんの正解です。
それ以外に、航海の成功率の低さを納得させることができだけの理由がないからです。

ちなみに、遣唐使、遣隋使の成功率の低さが、外洋船舶の造船技術が未達だったという説を唱える学者がいますが、馬鹿なことを言わないでいただきたいものです。
弥生時代の日本産の黒曜石の分布などをみても、日本は日本海を経由して満洲あたりと盛んに交易をしていますし、外洋ルートで、北は青森から南は沖縄まで、盛んに海上交易をしているのです。
時代をもっとさかのぼれば、縄文時代には南米のエクアドルまで交易の足を伸ばしていた形跡があります。

つまり、それだけの造船技術を持っていながら、遣唐使遣隋使が不成功だったという背景には、もはや人為的な不成功原因しか考えられないということです。
そして旅人を襲って利得を図るというのは、紀元前2世紀の衛氏朝鮮もさりながら、大東亜戦争終戦直後の朝鮮半島において、多くの日本人女性が酷い目に遭わされたり、財物を奪われたり、それこそ、着ているものをふんどしまで剥がして奪ってしまう濊族の行動に、そのまま現れています。

もうひとつ、衛氏朝鮮が、誇り高い燕の国の末裔たちであるにも関わらず、遼東半島あたりで、なぜ「旅人を襲う」盗賊団を営んでいたかという点についても触れて置きます。

どいうことかというと、旅人などを襲わなくても、本来なら自分たちで農業を営み、あるいは狩猟採取、放牧などを営み、あるいはもっというなら近隣の民家を襲って食物などを提供させればよかったはずなのです。
にも関わらず衛氏朝鮮が盗賊をしていたということは、2つの理由以外あり得ません。

その2つとは、ひとつは、近隣を含むそのエリアに、略奪に足るだけの集落が育っていなかった(汚濊族では
話になりません)、もうひとつは、燕の復権を望む衛氏にとって、盗賊する旅人たちは、お家の復興のために役立つだけの充分すぎるほど十分な財宝を所持していたということです。

では、その財宝を所持していた旅人たちというのは、どこの人たちでしょうか。
ひとつは、前漢の使者たちでしょう。
それなら、国交交易のために、豊富な財物を持っていたとしてもおかしくはありません。

しかし、その前漢の使者たちが、どこに行こうとしていたかが気になります。
少なくとも、その交易相手が汚穢以外に産物の何もない濊族であるとは、到底考えられません。
ということは、使者たちの交易相手は、濊族ではない、ということです。

しかも衛氏朝鮮があったのは紀元前2世紀です。
朝鮮半島に百済や新羅が誕生するのは、衛氏朝鮮よりもずっと後の4世紀です。
高句麗は、少し早い時代ですが、それでも成立したのは紀元前37年で、衛氏朝鮮が滅んだ、ずっと後の時代のことです。

結局言えることは、いまの韓国の南半分が倭国であったこと。
その倭国との交易には、常に高価で素晴らしい献上品が漢と倭国の相互に行われていたこと。
つまり、倭国との国交上の使者を、衛氏は襲っていたということ以外には、考えられないのです。

そして、その大切な倭国との交易に、邪魔な衛氏朝鮮は、ついに漢によって紀元前108年に討伐軍が差し向けられ、完全に滅んでいます。
要するに衛氏朝鮮は、滅ぼされても仕方ないほどの、悪行を重ねていたということです。

私がこうした説明をすると、
「いやそんなことはない。朝鮮半島には衛氏朝鮮よりも前に、箕子朝鮮(きしちょうせん)や、檀君朝鮮(だんくんちょうせん)があったではないか」という人がいましたが、これこそ大爆笑です。

「箕子朝鮮(きしちょうせん)」というのは、紀元前1122年から紀元前194年、つまり衛氏朝鮮が誕生するまで、約千年続いた朝鮮王朝だというのだけれど、そもそも「朝鮮」という名称は、明の洪武帝(こうぶてい)から李氏朝鮮が与えられた名前で、これは14世紀になってからの出来事です。

では、三国志魏志伝に書かれた「箕子朝鮮」は何かというと、これあ遼東半島にいた鮮卑(せんぴ)の一族のことを指します。つまり、朝鮮半島とは何の関係もない地域にあった王朝というわけです。
もっというなら、朝鮮半島のお隣に、たまたま古代に「朝鮮」と呼ばれていた種族がいたから、これをちゃっかり拝借しているだけの話でしかありません。

さらに檀君朝鮮(たんくんちょうせん)に至っては、建国されたのが5011年前とのことですが、これは、日本でいったら明治時代に朝鮮半島で捏造された神話にすぎません。

当時、明治維新による近代化を成し遂げ、日清戦争にも勝利した日本には、支那からたくさんの留学生がやってきました。
当時の日本は、神武天皇以来2500年を皇紀として使用していました。

これに影響を受けた支那人留学生たちが、じゃあ、自分たちの国にもそういう歴史を作ろうじゃないかということになって、突然、降って湧いたように言い出したのが「中国5千年の歴史」です。
日本が2500年だから、とりあえずその倍くらいにしとけ、といって言い出しただけのものです。

そしてこれに刺激を受けた朝鮮の学生たちが、中国が5000年なら、俺たちはそれよりも11年早く、5011年の歴史にしよう、と言い出して捏造したのが壇君神話です。
なぜそこで+11年にしたのかわかりませんが、同じ嘘でも、「日本の二倍にしとけ」という、ある意味雄大な(笑)支那に対し、たった+11年という”せこさ”は、いかにも朝鮮族らしいといえるかもしれません。

要するに、「箕子朝鮮(きしちょうせん)」も、「檀君朝鮮(たんくんちょうせん)」も、捏造でしかないのです。
そして歴史上、朝鮮半島に、最初に登場する国が、泥棒国家の「衛氏朝鮮」であり、これを漢が滅ぼしたというのが歴史の事実です。

そして、衛氏朝鮮を滅ぼした(紀元前108年)漢は、朝鮮半島内に、楽浪郡(らくろうぐん)、新番郡(しんばんぐん)、臨屯郡(りんとん)、玄菟郡(げんとぐん)という4つの郡庁を置いています。
ところが、楽浪郡以外の3郡は、またたくまに閉鎖され、遼東郡よりも南側には、楽浪郡だけになってしまいます。

この楽浪郡が、どこにあったかというと、いまは北朝鮮の首都となっている平壌で、どうやら郡庁ですから、城塞都市が、ここに形成されたようです。
この城塞には、年中、濊族が攻めて来たと記録されています。

戦というものは、戦えば、たいていは双方に捕虜ができたりして、そこに一定の文化交流がなされるものなのですが、不思議なのは、平壌の城塞内からは、たくさんの文化的遺物が発見されるのに、その城外からは、支那の遺物に相当するものが、まったく発見されていないことです。

これが何を意味しているかというと、汚穢族がたむろしている未開の野蛮地帯に前漢が城塞都市を築いた。
すると、その城塞には、年中汚穢族が攻めて来た。
けれど、その都度、楽浪郡庁は、汚穢族を完全に撃退していた、ということです。
もっというなら、それほどまでに大きな文化的ギャップが、楽浪郡庁と、周辺の汚穢族の間にあった、ということでもあります。

そして、しばらくすると、この楽浪郡庁の南側に、帯方郡庁が置かれました。
これがいまのソウルです。
ここでも、やはり、周辺との文化交流の痕跡はありません。

しかし、これまた不思議なことです。
盗賊をしようと襲撃を繰り返し、その都度撃退されているだけの汚穢族しかいないエリアに、どうして漢は、郡庁などをわざわざ設置したのか、という疑問です。

その答えが、冒頭の図にある馬韓、弁韓、辰韓です。

この馬韓、弁韓、辰韓のあったあたり一体を、古代においては伽羅(から)といいました。
そしてその伽羅は、倭国の領土で、倭人たちが入植するエリアだったのです。

倭国というのが九州一帯にあったことは、いまでは疑いのない事実です。
そしてその倭国の領土は、魏志倭人伝などの記述を正確に読むと、帯方郡の南にあるとされているわけです。
海は渡りません。
馬韓、弁韓、辰韓のあたり一体、つまり伽羅も倭国であり、その倭国は海を隔てた南側に四方を海に囲まれた大きな陸地にまたがると記述されているのです。
つまり、それは九州であり、つまり、伽羅から九州にかけての一帯が、倭国だったわけです。

おもしろいことに、現代においても、朝鮮族の人たちは、自分たちのことを「韓族」と呼びます。
その「韓」は、「漢」と同じ音です。
けれど、彼らは同時に、じぶんたち民族のことを「KARA」とも呼びます。
「KARA」は、漢字で書けば伽羅です。
これは韓とは音が違います。

後に馬韓の一部に百済ができ、辰韓の一部に新羅ができますが、百済は新羅に滅ぼされ、高句麗もまた、支那と結んだ新羅に滅ぼされています。
そして新羅は、支那の属国となり、その属国が高麗、李氏朝鮮と変化して、いまの南北朝鮮となっています。

つまり、支那(漢)族の武力によって、エリアの支配をし続けてきたから、自分たちのことを「韓族(漢族)」といまだに読んでいます。
けれど、同時に、6世紀には滅んでしまった伽羅を、いまだに民衆レベルでは懐かしんで、自分たちのことを「KARA(伽羅)」とも読んでいるわけです。

現代韓国では、前朴大統領のときに漢江の奇跡を実現し、朴大統領は暗殺被害にまで遭っているけれど、いまだに国民経済に富みをもたらした前朴大統領は、国民的人気を持っているわけです。
これと同じで、朝鮮族の人々にとって、豊かで平和だった伽羅の時代、いまから1500年も昔に滅んだ伽羅の国が、いまだに、どこか本能で懐かしむ気持ちがあるのかもしれません。
そしてその伽羅は、まちがいなく、倭国、つまり日本だったところなのです。

日本の領土なら、人々は「おおみたから」ですから、民衆こそ第一とする施政が行われます。
民は富み、産業も盛んになり、だからこそ、支那は、倭国、伽羅との交易の必要上、帯方郡、楽浪郡といった郡庁までおいて、倭国との交易の安全を期したのでしょう。
それ以外に、支那が帯方郡、楽浪郡をあえて置く理由がないのです。

しかし、倭国の影響を受けた濊族の一部が、百済を興し、新羅を興しました。
そしてこの両国は、日本に朝貢し、日本の技術を導入することで富を貯えました。
そして両国は、国力を養ったものの、結局新羅が裏切って支那と結び、百済を滅ぼしたうえで、高句麗も支那の軍事力を借りて滅ぼし、新羅王朝を形成しました。

その新羅も、やはり国を裏切って支那と結んだ高麗によって滅ぼされました。
その高麗も、支那と手を組んだ李氏朝鮮に滅ぼされました。
そしてずっと朝鮮半島は、支那の属国とされ続けてきました。

代々の支那の王朝は、李氏朝鮮王から収奪をするだけです。
その朝鮮王は、部下の両班から収奪するだけです。
その両班たちは、庶民から収奪するだけです。
ところが産業もなけば特産品もない。
献上できるのは、女たちだけです。
だから、朝鮮半島では女性はまさに性の道具としてしか扱われてきませんでした。

そんな哀れな状態に、明治にはいって、やっとのことで日本が支那と手を切らて独立させてあげたのに、今度はロシアと組もうとしたり、朝鮮の独立だといって関東大震災で火付け盗賊をはたらきました。
とにかく正義や人道が理解できない。
「いまさえ良ければいい」「自分さえ儲かればよい」というその場しのぎの御都合主義しかない。

どうしても日本から独立したいというから、戦後、日本は独立を認めてあげただけでなく、総額21兆円、国民ひとりあたり45万円という莫大な資産を朝鮮に寄贈してあげたのに、彼らはせっかく受け取ったその資産を、結局は朝鮮戦争に費消してしまいました。
世界のトップくらすの富のある国から、かれらはたった3年で世界一の最貧民国に堕ちてしまったのです。

やむなく日本が、あらためて国家予算の3倍のお金をつぎ込んであげて、彼らは漢江の奇跡と呼ばれる大発展を遂げますが、それも工業化とは名ばかりで、実は、日本から部品を供給してもらい、その組み立てと包装をしただけのことです。
ひらたくいえば、実際にはできあがった製品を袋詰めしかしていないのに、「ウリたちの国の生産物だ」「ウリたちは工業国だ」と見栄を張ったわけです。
そして儲けた金は、なんと世話になった日本に対する反日工作に、全部遣ってしまった。
本来なら、国家インフラの整備のために、その儲けた金は遣われるべきだったのに、使い道が世話になった日本への裏切り工作資金です。
あきれ果てます。
それでいま、三たび経済の破綻に瀕し、また日本に助けてほしいと言い出しかねない状況です。
これが個人なら、どうみても、ただの極道者です。

日本人は、へんにやさしくて、韓国の人たちも「同じ人間じゃないか」と、すぐに思いたがるし、困っている人がいれば、なんとかして助けてあげたいと同情してしまいがちです。

けれど、これだけはいえることですが、民族の精神構造というのもは、それぞれがそれぞれごとに、その国の自然環境や政治経済環境と決して無縁ではない。
古来、何の資源もなく、山々も植林をしないから禿げ山、自然環境を壊すだけ壊して、何も手当せず、政治というのは、庶民から財を巻き上げることだとしか考えない。
そういう環境の中で、彼らはすくなくとも二千年間生き残ってきたわけです。
お隣の朝鮮族というのは、顔かたちが仮に私たちとよく似ていたとしても、その内側にあるのは、厳しい言い方になるけれど、残念ながら、まるで映画「バイオハザード」に出てくるゾンビ(汚穢族)の大軍でしかないといえるかもしれません。

もちろん個体差はあります。
積極的に真人間になろうと努力しているまっとうな朝鮮人がいることも事実です。
しかし、そのまっとうな朝鮮人も、国に帰れば、その家族を汚穢族の人質にとられているわけです。

そして、その汚穢族が、実は、なにひとつ日本に教えてくれたことなどないのに、「俺たちが兄だ、俺たちが日本にすべてを教えてやったのだ」と言い張り、それをあろうことか、学校の教科書にまで仕立てて子供たちの教育に使っているという恥知らずなことを、平然とやってのけています。

日本は、そういう朝鮮族のいかがわしさに愛想をつかしたからこそ、9世紀(894年)には、国交を断絶し、国としては明治の開闢まで、ずっと長い鎖国政策をとってきたのです。
(民間交易や将軍クラスの交易はありましたが、天皇による国交は明治まで一切ありません)。

私たちは、そういう歴史を直視し、同時に、海外においても、そういう歴史を日本人なら誰もが堂々と展開できるだけの知識を、日本人の常識として、あるいは世界に向けて真実の常識として、定着させていかなければならないと、私は思います。

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Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長?倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表?日本史検定講座講師&教務。
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