先日の「」の(私にとって)続きの記事になります。
これも面白い!
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ねずさんのひとりごと「漢字渡来以前」
https://nezu3344.com/blog-entry-3640.html
日本には漢字渡来以前には文字がなかったと言っている人たちがいます。
どこを見ているのかと言いたくなります。
ヒエログラフとも言いますが、欧米の学者さんたちの中には、むしろ日本が古代文字発祥の地ではないかとして研究している人もあるくらいです。
あるいは、古事記・日本書紀以前の史書や文字は、古代大和朝廷によって消されたのだという人もいます。
要するに古代の日本に激しい対立や殺し合いが行われたのだと言いたいようなのですが、ぜんぜん違うと思います。
少し脱線しますが、以前に「江戸しぐさ」をこのブログでご紹介したことがあります。
ところがその「江戸しぐさ」について、これを普及しようというあるNPOがあります。
普及してくれようとするその目的はたいへんありがたいのですが、そのNPOがなんと言っているかというと、そのまま転載するとどこと特定されてしまうので要約しますが、
「幕末戊辰戦争のときに、江戸庶民が大虐殺されて江戸っ子はほぼ全員死んでしまった。
自分たちはそのなかで生き残った僅かな江戸っ子で、江戸しぐさを継承する唯一の団体である」
と、このように主張しているわけです。
いったい、いつ江戸庶民が虐殺されたというのか。
まったくもってファンタジーとしか言いようがありません。
ちなみにその幕末期、まさに江戸で開業医をしていた「庶民」のひとりに、手塚治虫さんの祖父がいます。
我が家の曾祖父も、幕末から明治初期まで江戸住まいです。
もし本当にそのような虐殺があったのなら、手塚治虫の曾祖父も、我が家の曾祖父も生きていません。
あまりにも荒唐無稽なファンタジーですが、要するに何かを主張する際に、
1 自分たちは被害者である。
2 唯一正当な本家ないし元祖である
と、必ずそのように主張してファンタジーを繰り広げるのは、日本人のような顔をして日本に住んでいて日本語を話すけれど日本人でない人たちの、まさに伝家の宝刀です。
千年前の刀伊の入寇の時代から現代に至るまで、あまりにも彼らの言い草は毎度同じパターンすぎて、相手にするのも馬鹿らしい。
さて実は、日本には漢字渡来以前には文字がなかったという説の延長線上に、カタカナは漢字から派生したという説もあります。
これなども、あまりにも馬鹿らしい説です。
たとえば「ア」は漢字の「阿」のつくりの部分の「可」から生まれたなどとしているのですが、それならば「阿」である必要がありません。
最初から「可」を用いれば良いだけのことです。
ところが「可」では都合が悪い。
なぜなら「可」は「か」とは読みますが、「あ」とは読まないからです。
同様に「カ」は「加」の篇の部分の「力」から生まれたのだと言いますが、漢字の「力」は音読みが「リキ」、訓読みが「ちから」であって、「か」とは読みません。
要するに、これらもまた作り話でしかないということです。
では、そもそもカタカナはどこから生まれたかといえば、神代文字であるカタカムナから生まれたという説が、いちばん合理性があるように思えます。
カタカムナ文字とカタカナの派生
カタカムナが発見されたのは昭和24年(1949年)のことで、この文字は、他に八鏡文字(はっきょうもじ)とか化美津文字(かみつもじ)、あるいは上津文字(うえつもじ)とも呼ばれます。
その信憑性を疑う人もいますが、頭ごなしに否定してかかるというなら、いまの「常識」である「漢字からカタカナができた」という説も、かなり疑わしいものです。
それなら、可能性は可能性として探っていくのが良いと思います。
そもそも「漢字以外は文字として認めない」というのは、日本の戦後の敗戦利得者となった日本人のような顔をして日本に住んでいて日本語を話すけれど日本人でない人で、幸か不幸か学者となった人たちの身勝手な言い分にすぎません。
決めつけは、政治です。
探求するのが学問です。
学者の仕事は政治ではありません。
神代文字には、実に様々な種類があります。
みなさまよくご存知のホツマ文字、カタカムナ文字、アヒル(阿比留)文字の他にも、
上津文字、化美津文字、伊予文字、出雲石窟文字、トヨノ文字、山窩文字、豊国文字、春日文字、アソヤマ文字、越文字、アジチ文字、守恒文字、斎部(インべ)文字、惟足(コレタリ)文字、筑紫文字、重定石窟文字、ヤソヨ文字、阿奈伊知文字、マニナ文字、六行成文字、肥人文字、イスキリス文字 、タネマキ文字、種子文字、アイヌ文字、対馬文字、阿比留草文字、日文草書、薩人文字、阿波文字、天狗文字等々、名の知られた文字だけで34種類もあります。
探せば他にももっとたくさん出てくることでしょう。
これらの神代文字は、それぞれ毎に、文字のカタチがまったく異なります。
まるでハングルのように見える文字もあれば、円弧の向きが意味を持つ文字もあります。
まるでメソポタミアの楔形文字のようなものもあれば、アラビア語のような文字もあります。
まるで多種多様なのです。
けれど、それら神代文字に共通しているのが「五十音である」という点です。
つまり、「五十音である」という点で、神代文字は一致しています。
日本は、縄文時代から続く、とてつもなく古い歴史を持った国です、
どのくらい古いかというと、縄文時代のはじまりが今から約2万年前。
弥生時代になるのが約3千年前です。
つまり、縄文時代だけで、1万7千年も続いているのです。
もっというなら日本では、
11万年前には、石器が使われ
3万年前には、加工した石器(磨製石器)が使われ、
1万6500年前には、世界最古の土器がつくられ、
1万3000年前には、人の形をした土偶がつくられ、
1万2500年前には、漆が栽培され、使われていたのです。
漢字渡来とされる西暦552年から今年(現代)まで、まだ、たったの1463年です。
文科省指導による歴史教科書では、日本の近代を明治維新以降、現代を戦後と区分していますが、明治維新から現代まで、たったの150年です。
万年の単位にまでなる日本の歴史からみたら、明治維新はつい昨日のことでしかないし、1500年前もわずか10日前のことでしかないのです。
日本がそれだけ古い時代から続いているということは、同時にそれだけ古い時代から、様々な文字が研究され、使用されてきた可能性を否定できないということです。
めずらしく「私は」という語を使わせていただきますが、私は「だから文字は日本で生まれた」とは思っていません。
万年の単位で考えるとき、その途中にはいまとはまったく異なった地形図があったといえるからです。
近いところでは、いまから1万8000年前には、氷期の寒冷化のピークが訪れています。
そしてこの時期の海水面は、いまより140メートル前後も低かったことが知られています。
そうなると、現在、大陸棚となっているところの多くは、地上に露出します。
黄海、東シナ海、タイランド湾などの大部分は地上に露出し、日本列島も大陸と陸続きになります。
つまり海岸線が、いまとはまったく違った様子になります。
人は食べなければ死んでしまうし、縄文時代の遺跡を見れば、人は海に面したところで生活をしていた(貝塚)ことがあきらかで、しかも氷期でいまよりずっと寒くて人口も少なかった時代であれば、人々はより住みやすい南方に長く住んでいたであろうことは、十分に合理的に説明ができることです。
そしてそれが万年の単位であれば、そこで行われていた占いから文字が生まれたとしても、何ら不思議はありません。
ところがその居住地が、温暖化によって次第に海に沈む。
そうなれば、人々は、いまある海岸線の位置にまで後退して住むようになり、これによって、日本列島、琉球諸島、China、フィリピン、インドネシア、ベトナムなどに、人々が別れて住むようになったであろうことは、これまたごく自然な成り行きであったのであろうと思うのです。
そういう次第ですから、私は、「日本人がどこからきたのか論」には疑いを持っています。
日本列島には、北から来た種族と南から来た種族がいた云々という渡来説には、「なぜわざわざ渡来したのか」という素朴な疑問への答えがないからです。
むしろ、もとはいまある海上のどこかに住んでいた(ひとつだった)ものが、海岸線の変化によって分断され、自然とそれぞれの地域に分かれて住むようになったということのほうが、はるかに説得力があるように思えるのです。
そしてもとがひとつであるのなら、文字ももとはひとつであったはずです。
それが長い年月間に、地域ごとに使いやすいようにいろいろと工夫され、発達していった。
記号を組み合わせて会意文字とする(漢字にする)ということを考えた人たちもいた。
記号そのものを、もっと書きやすく筆記体化させていった人たちもいた。
記号の持つ意味を探求して、パターン化していった人たちもいた。
そしてそういうものの、すべてが、太古のままに生き残ったのが「日本に残されている」ということなのではないかと思うのです。
つい最近まで(というか最近でも)地方ごとに方言が異なるように、かつてはそれぞれの地方ごとに、その地方の文化を伝えるのに適したいわば「地方文字」もしくは「方言文字」として、様々な「神代から続く文字」があったと考えて、なんら不思議はないのです。
ここまできて、古事記序文に書かれた天武天皇の御言葉、「諸家が持っている帝紀や本辞」の意味が明らかになってきます。
諸家が、それぞれ異なる神代文字で書き残していた史書を指しているということです。
地方ごとに豪族たちが、独自の文字で文書記録を残していたと考えるべきなのです。
それらはすべて五十音である点は共通しています。
けれど文字のカタチが全然違う。
古事記の編纂を命じた天武天皇は、兄の天智天皇の改革路線を踏襲した天皇です。
その兄の天智天皇の即位は、唐と大規模な戦闘(白村江の戦い)があったわずか10年後です。
また再び、戦いがあるかもしれないのです。
実際、唐は日本遠征計画を具体的に立てていましたし、この時代(7世紀)には、鉄は倭国オリジナルではなくなっています。
古事記にある天武天皇の「いまその誤りを改めなければ、幾年も経ないうちに日本はなくなってしまうであろう」という言葉は、共通の文字を確立して日本国内の意思伝達をひとつの言語で行なうようにしなければ、日本に唐が攻め込んできた時に、日本そのものがなくなってしまうという、強烈な危機感なのです。
だから天武天皇は、太安万侶に古事記の編纂を命じたのです。
古事記は、全部、漢字で書かれています。
けれど、その漢字は、漢文として書かれたのではなくて、漢字の音だけを用いた、つまり漢字をカナとして用いたところが随所にあります。というか、むしろその方が多いくらいです。
古事記では、その都度漢字の横に「以音」と、注釈がしてあります。
「以音」というのは、漢字は使っているけれど、音だけを採用していて、その漢字には意味がないという意味です。
つまり漢字を「カナ」として用いているのです。
この時代、地方ごとに異なる文字が使われていた一方で、漢字は外国語として日本全国に共通に普及していました。
だから共通語として、外国語である漢字を使って、全国各地の神代文字で書かれた史書を統一したのだと考えるのは、ごく自然ななりゆきです。
このことがわかると、古事記と同時期に編纂された日本書紀が、なぜ綺麗な漢文で書かれたのかも説明がつきます。
日本書紀が美しい漢文で書かれ、これが子供達の教科書になれば、子供達は自国の歴史や道徳を学べるだけでなく、外国語である漢文を、普通に読み書きできるようになります。
日本に攻め込もうとする唐の人々には、日本語はわかりません。
ところが日本人は、唐の国の文書を誰もが読み書きできるのです。
これは戦略上、国防上、ものすごく有利な国家インフラです。
古事記の文章の構造を読むと明らかなのですが、常に「問題提起」した後に「その回答を示す」という書き方になっています。
つまり、すべてにおいて「目的を持ってはじめる」という姿勢が一貫しているのです。
それが日本的思考です。
外国語を共通語にするということについては、おもしろいエピソードがあります。
明治時代、大山巌は、会津藩の大山捨松に一目惚れし、二人は結婚しました。
ところが、大山巌は極端な薩摩弁、捨松は極端な会津なまりです。
両者とも日本語で話しているのに、二人はまったく言葉が通じない。
そこで二人は、大山巌が英国に、捨松が米国にそれぞれ留学経験があり、両人とも英語に堪能でした。
そこで二人は、初デートのとき、なんと英語で会話しながらデートしたのです。
古事記の時代、天智天皇、天武天皇の時代というのは、
一方に、日本語の表記が、各地方ごとに全部バラバラで、異なる神代文字が使われているという状況があり、
一方に、他国侵逼の国難が迫っているという、
国家緊急時の時代です。
そのようなときに、どの神代文字を我が国の共通語にするかで、国内で喧々諤々やっていては、もう間に合わないのです。
であれば、「外国語」として国内に広く普及している漢字を、この際、共通文字として日本語表記に使ってしまえ!というのが、実は、古事記における初の試みであったわけです。
つまり、ひらがなも、カタカナも、もともと神代文字があったからこそ生まれた文化なのだと考えた方が、明らかに歴史を合理的に説明できるのです。
そして日本に、漢字渡来以前に、すでに高度な文化文明が栄えていた事実も、これによって裏付けることができます。
神代文字は、縄文時代の土器や、弥生時代の石版や、銅鏡、銅矛にも、たくさん見出すことができます。
いまは、それらが「意味不明のただの模様」として扱われていますが、実は、それが神代文字である可能性が高いのです。
古事記には序文があります。
そこには、天武天皇の詔(みことのり)として、次の記載があります。
「天武天皇は申されました。
『諸家が持っている帝紀や本辞は、
事実と異なるし、
またその多くに虚偽の記述がある。
いまその誤りを改めなければ、
幾年も経ないうちに、
日本はなくなってしまうであろう。
歴史は国家の大本です。
そこで巷にある様々な帝紀から撰録し、
旧辞を取捨選択して、
偽りを削り、まことを定め、
後の世に伝えたいと思う。』」
この詔が発せられたのは西暦681年のことであったと、これは日本書紀にはっきりと特定があります。
つまりこれは事実であったということです。
そしてこの詔には、重大な事実の指摘があります。
「古事記の前に、諸家ごとに、さまざまな史書が伝えられていた」
という指摘です。
このことは、実は「古事記以前に書かれた史書があった」というだけにとどまりません。
古事記以前に書かれていた史書が、諸家ごとに、それぞれの地に古くから伝わる神代文字で書かれていた可能性を示唆するからです。
一般に、上代の人々には文字がなく、人々は口伝で歴史を伝えたとされています。
漢字が伝わったのは、仏教伝来と同じく、西暦552年のことであったといいます。
だから、
「それまで日本には文字がなかった」
「カタカナやひらがなは、漢字を変形させて作ったのだ」
といわれています。
しかし、仮にもしそうであるならば、
「なぜ日本語には「ア」から「ン」で終わる五十音があるのか」
「日本語の五十音は、いつどのように形成されたのか」
という素朴な疑問に、合理的な説明を行うことができません。
なぜなら漢字には50音という思想はないからです。
実は50音というのは、非常に不思議な分類といえます。
なぜなら、日本語には「が」や「ば」のような濁音もあれば、パピプペポのような半濁音もあります。
ギャ、ギュ、ギョのような拗音、他にも破裂音、摩擦音、鼻音、はじき音(巻き舌でラと言う時など)、ヤ行、ワ行の子音のように母音に近い接近音もあります。
つまり、日本語の発音は、50音だけには収まらないのです。
このことは、裏返しにいえば、50音には、音声の発音とは別に、何か特殊な用途があったことを示唆します。
このことについての合理的な説明としては、やはり古代において盛んに行われ、古事記にもその事実が記載されている鹿骨占いや亀甲占いが挙げられます。
鹿骨占いや亀甲占いは、日本に限らず広く東南アジア全体に普及していた占い手法で、鹿の骨などを焼き、このときにできるヒビ割れのパターンで、様々な御神意を得るというものです。
ヒビ割れのパターンは、「ー」であったり「|」であったり「/」であったり「\」であったり「・」であったり、様々な模様が生まれます。
長い歳月占いで用いられれば、次第にそのヒビ割れのパターンが類型化され、それぞれに名前が付いても何らおかしくありません。
そしてそのパターンが記号化されることは、ごくあたりまえに起こることです。
そして当然、ひとつひとつのパターンには、「音」での名が着いたことでしょう。
つまり、パターンに「音」が着くようになる。
すると、今度は、音をパターンで表すようになることも、ごく普通に起こりうることであろうと思います。
こうして50種の音による記号が完成する。
その完成された50の音が、それぞれの地方ごとに、図形化されて文字になる。
これもまたごく自然な行動といえます。
つまり論理的に考えれば、鹿骨占いがあり、そのヒビ割れ模様がパターン化され、そのパターンごとに一音が割り当てられることで、今度はその記号が、文字として活用されるようになると考えることができるわけです。
漢字は、象形化された記号の組み合わせによって成り立っている文字ですが、ということは漢字が生まれる以前に、「亻」なら人を表し、「尹」は手にムチを持っている姿という記号化が先に生まれ、普及していなければならないはずです。
このように考えれば、漢字以前に、一音で何らかの意味を表す記号化されたものを文字として扱う文化が、どこかで先に生まれていなければならないはずなのです。
そしてそれこそが、日本に残る神代文字なのではないかと思います。
そもそも「西暦552年の漢字渡来まで、日本には文字がなかった」という説にも疑問があるのです。
なぜなら、日本に文字を扱う文化がなかったのなら、日本に「金印」が贈られることはありえないからです。
「漢委奴国王」と記された金印は、江戸時代に福岡県の志賀島で発見されました。
この金印は、西暦57年に倭国にある奴国の国王が漢に使いを送り、漢の皇帝が授けた金印です。
このことは、Chinaの史書である『後漢書』に明確に記されています。
漢字渡来とされる年より、500年近くも前の出来事です。
みなさまよくご存知の『魏志倭人伝』にも、魏の皇帝が「親魏倭王」と記した金印と、銅鏡100枚を倭国に贈ったと記載されています。
魏が成立したのは西暦220年、滅亡が265年、つまり3世紀の出来事です。
ということは、魏から日本に金印が贈られたのは、間違いなく3世紀の出来事です。
そして「印」というものは、文書に押印するためのものです。
つまり、1〜2世紀の日本で、文字が存在しなければ、漢の皇帝も、魏の皇帝も、日本に「金印」を贈ることなどありえないのです。
とりわけChinaにおいて、金印というのは特別な意味を持っています。
Chinaの印には、玉印、金印、銀印、銅印の区分があります。
玉印は、象牙でできた印であり、これはChina皇帝だけが用いるものです。
金印、銀印、銅印は、Chinaの皇帝が下賜する印です。
これには明確な序列があります。
オリンピックのメダルと同じです。
金印をもらえる国は、一等です。それはChinaと対等もしくはそれに近い国力を持った国です。
銀印をもらえる国は、二等です。それはChina皇帝の傘下にあって郡長程度の国力のある国です。
銅印をもらえる国は、三等です。それは村長さん程度の国です。
漢や魏が、倭国を文字も扱えない遅れた国だと認識していたなら、日本には、良くて泥印しか与えられなかったことでしょう。
そもそも日本に文字を操る文化がなかったのなら、そもそも印を授ける理由さえありません。
つまり金印が贈られたということは、Chinaの王朝にとって、日本がChinaと対等な国力と文化を持った国であると認識されていたということです。
残念ながら、Korea半島では、歴史を通じてChina皇帝から金印を下賜されたことは一度もありません。
Korea半島は、ずっと銅印だけが下賜されました。
つまり、歴代のChina王朝からみて、歴史を通じてKorea半島は、明確に日本よりも劣る国とみなされていたということです。
それは、詰めていえば、文化レベルの低い国とみなされていたということです。
文化レベルの低い国が、はるか高みにある国に向けて「文字を教えてやった」とか、ありえないファンタジーです。
ちなみに、古代においては、Korea半島の南半分は倭国の領土です。
つまり倭国とChinaの大帝国は、陸続きでした。
陸続きであるということは、侵略の危険と常に隣り合わせにある、ということです。
だからこそ、贈り物をし国交を保ち、敵対したり侵略されたりすることがないように、倭国はChina王朝に気をつかっていたのです。
そしてChinaの王朝もまた、倭国と敵対することがないよう、金印を贈って倭国を懐柔していたのです。
つまり、金印授与は、対等なパートナーシップの証であり、当時のChinaにとって、倭国は「征服征圧するより、国交を持ったほうが得である」と認識されていたということです。
何が「得」だったのでしょうか。
魏志倭人伝の「魏」は、みなさま大好きな『三国志』に出てくる「魏・蜀・呉」の「魏」です。
その「魏」には、有名な曹操がいました。
三国志は、魏の曹操を、憎らしいほど強い奴として描いています。
つまり、それほどまでに、曹操の軍事力は強かったのです。
なぜ強かったのでしょうか。
理由があります。
魏軍は、鉄製の剣や楯を用いていたのです。
孫権の呉や、劉備玄徳の蜀は、青銅器製の武器です。
青銅器の剣と、鉄製の剣が打ち合えば、青銅器の太刀はポキリと折れます。
圧倒的に鉄製の武器が有利なのです。
魏軍の兵士は、呉や蜀の軍隊を、武器ごと真っ二つに切り捨てることができたし、青銅器でできた楯を、鉄の槍で貫き通すことができたのです。
強いわけです。
では、なぜこの時代に魏だけが鉄製の武器を持っていたのでしょうか。
これもまた理由があります。
倭国が鉄を産したのです。
倭国は、国内でも鉄を掘りましたが、同時にKorea半島の南部でも、さかんに鉄を掘っていました。
鉄は岩を熱して溶かし出します。
これを行なうには、高温をあやつる高い技術が必要です。
そして高い技術は古来、日本のお家芸です。
倭国は、鉄を生活用品に用いましたが、魏は、倭国から輸入した鉄を武器に使いました。
魏の国力をもってすれば、Korea半島を奪うことも可能であったかもしれません。
けれど魏がKorea半島と隣り合っていながらそれをしなかったのは、魏が半島を奪えば、鉄が補充できなくなるからです。
つまり鉄の生産技術は、倭人たちだけのものだけであったということです。
Korea半島南部の倭人たちを脅かして、倭人たちが海を渡って本土に帰ってしまえば、魏は鉄の補充ができなくなります。
それは魏の軍事力の弱化を意味します。
「ならば、征服するより、対等なパートナーとして付き合うほうが良い」
というのは当然の帰結です。
だから金印を贈ったのです。
この時代のKorea半島に倭人以外で棲息していたのは、濊(わい)族です。
濊というのは、臭くて汚なくて人間分類することがおこがましい種族という意味です。
なぜなら濊は、糞尿を意味する汚穢(おわい)の濊であり、しかもそれがサンズイです。
どれだけ汚くて臭かったかということです。
果たして、そんな濊族に文化を教えてもらわなければならないような国に、魏は金印を送るでしょうか。
要するに「漢字渡来まで文字がなかった」と考えるほうが、明らかに不自然です。
そうではなく、独自の文字を操る文化があったから金印が贈られたのです。
そして独自の文字があったからこそ、日本には五十音があるのです。
もっといえば、漢字渡来よりも先に文字があったからこそ、日本語には五十音があるのです。
それが「神代文字」です。
神代文字は、文字ではないという人もいるかもしれません。
しかし伊勢神宮には、稗田阿礼や菅原道真、あるいは源義経などが、まさにその神代文字で奉納した弊が残されています。
もっと身近にもあります。
少し古い神社に行ってお守札をいただくと、その中の紙片に、まさに神代文字が書かれています。
神代文字はファンタジーなどでは決してなく、実際にあったし、いまなお使われている文字なのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長?倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表?日本史検定講座講師&教務。
これも面白い!
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ねずさんのひとりごと「漢字渡来以前」
https://nezu3344.com/blog-entry-3640.html
日本には漢字渡来以前には文字がなかったと言っている人たちがいます。
どこを見ているのかと言いたくなります。
ヒエログラフとも言いますが、欧米の学者さんたちの中には、むしろ日本が古代文字発祥の地ではないかとして研究している人もあるくらいです。
あるいは、古事記・日本書紀以前の史書や文字は、古代大和朝廷によって消されたのだという人もいます。
要するに古代の日本に激しい対立や殺し合いが行われたのだと言いたいようなのですが、ぜんぜん違うと思います。
少し脱線しますが、以前に「江戸しぐさ」をこのブログでご紹介したことがあります。
ところがその「江戸しぐさ」について、これを普及しようというあるNPOがあります。
普及してくれようとするその目的はたいへんありがたいのですが、そのNPOがなんと言っているかというと、そのまま転載するとどこと特定されてしまうので要約しますが、
「幕末戊辰戦争のときに、江戸庶民が大虐殺されて江戸っ子はほぼ全員死んでしまった。
自分たちはそのなかで生き残った僅かな江戸っ子で、江戸しぐさを継承する唯一の団体である」
と、このように主張しているわけです。
いったい、いつ江戸庶民が虐殺されたというのか。
まったくもってファンタジーとしか言いようがありません。
ちなみにその幕末期、まさに江戸で開業医をしていた「庶民」のひとりに、手塚治虫さんの祖父がいます。
我が家の曾祖父も、幕末から明治初期まで江戸住まいです。
もし本当にそのような虐殺があったのなら、手塚治虫の曾祖父も、我が家の曾祖父も生きていません。
あまりにも荒唐無稽なファンタジーですが、要するに何かを主張する際に、
1 自分たちは被害者である。
2 唯一正当な本家ないし元祖である
と、必ずそのように主張してファンタジーを繰り広げるのは、日本人のような顔をして日本に住んでいて日本語を話すけれど日本人でない人たちの、まさに伝家の宝刀です。
千年前の刀伊の入寇の時代から現代に至るまで、あまりにも彼らの言い草は毎度同じパターンすぎて、相手にするのも馬鹿らしい。
さて実は、日本には漢字渡来以前には文字がなかったという説の延長線上に、カタカナは漢字から派生したという説もあります。
これなども、あまりにも馬鹿らしい説です。
たとえば「ア」は漢字の「阿」のつくりの部分の「可」から生まれたなどとしているのですが、それならば「阿」である必要がありません。
最初から「可」を用いれば良いだけのことです。
ところが「可」では都合が悪い。
なぜなら「可」は「か」とは読みますが、「あ」とは読まないからです。
同様に「カ」は「加」の篇の部分の「力」から生まれたのだと言いますが、漢字の「力」は音読みが「リキ」、訓読みが「ちから」であって、「か」とは読みません。
要するに、これらもまた作り話でしかないということです。
では、そもそもカタカナはどこから生まれたかといえば、神代文字であるカタカムナから生まれたという説が、いちばん合理性があるように思えます。
カタカムナ文字とカタカナの派生
カタカムナが発見されたのは昭和24年(1949年)のことで、この文字は、他に八鏡文字(はっきょうもじ)とか化美津文字(かみつもじ)、あるいは上津文字(うえつもじ)とも呼ばれます。
その信憑性を疑う人もいますが、頭ごなしに否定してかかるというなら、いまの「常識」である「漢字からカタカナができた」という説も、かなり疑わしいものです。
それなら、可能性は可能性として探っていくのが良いと思います。
そもそも「漢字以外は文字として認めない」というのは、日本の戦後の敗戦利得者となった日本人のような顔をして日本に住んでいて日本語を話すけれど日本人でない人で、幸か不幸か学者となった人たちの身勝手な言い分にすぎません。
決めつけは、政治です。
探求するのが学問です。
学者の仕事は政治ではありません。
神代文字には、実に様々な種類があります。
みなさまよくご存知のホツマ文字、カタカムナ文字、アヒル(阿比留)文字の他にも、
上津文字、化美津文字、伊予文字、出雲石窟文字、トヨノ文字、山窩文字、豊国文字、春日文字、アソヤマ文字、越文字、アジチ文字、守恒文字、斎部(インべ)文字、惟足(コレタリ)文字、筑紫文字、重定石窟文字、ヤソヨ文字、阿奈伊知文字、マニナ文字、六行成文字、肥人文字、イスキリス文字 、タネマキ文字、種子文字、アイヌ文字、対馬文字、阿比留草文字、日文草書、薩人文字、阿波文字、天狗文字等々、名の知られた文字だけで34種類もあります。
探せば他にももっとたくさん出てくることでしょう。
これらの神代文字は、それぞれ毎に、文字のカタチがまったく異なります。
まるでハングルのように見える文字もあれば、円弧の向きが意味を持つ文字もあります。
まるでメソポタミアの楔形文字のようなものもあれば、アラビア語のような文字もあります。
まるで多種多様なのです。
けれど、それら神代文字に共通しているのが「五十音である」という点です。
つまり、「五十音である」という点で、神代文字は一致しています。
日本は、縄文時代から続く、とてつもなく古い歴史を持った国です、
どのくらい古いかというと、縄文時代のはじまりが今から約2万年前。
弥生時代になるのが約3千年前です。
つまり、縄文時代だけで、1万7千年も続いているのです。
もっというなら日本では、
11万年前には、石器が使われ
3万年前には、加工した石器(磨製石器)が使われ、
1万6500年前には、世界最古の土器がつくられ、
1万3000年前には、人の形をした土偶がつくられ、
1万2500年前には、漆が栽培され、使われていたのです。
漢字渡来とされる西暦552年から今年(現代)まで、まだ、たったの1463年です。
文科省指導による歴史教科書では、日本の近代を明治維新以降、現代を戦後と区分していますが、明治維新から現代まで、たったの150年です。
万年の単位にまでなる日本の歴史からみたら、明治維新はつい昨日のことでしかないし、1500年前もわずか10日前のことでしかないのです。
日本がそれだけ古い時代から続いているということは、同時にそれだけ古い時代から、様々な文字が研究され、使用されてきた可能性を否定できないということです。
めずらしく「私は」という語を使わせていただきますが、私は「だから文字は日本で生まれた」とは思っていません。
万年の単位で考えるとき、その途中にはいまとはまったく異なった地形図があったといえるからです。
近いところでは、いまから1万8000年前には、氷期の寒冷化のピークが訪れています。
そしてこの時期の海水面は、いまより140メートル前後も低かったことが知られています。
そうなると、現在、大陸棚となっているところの多くは、地上に露出します。
黄海、東シナ海、タイランド湾などの大部分は地上に露出し、日本列島も大陸と陸続きになります。
つまり海岸線が、いまとはまったく違った様子になります。
人は食べなければ死んでしまうし、縄文時代の遺跡を見れば、人は海に面したところで生活をしていた(貝塚)ことがあきらかで、しかも氷期でいまよりずっと寒くて人口も少なかった時代であれば、人々はより住みやすい南方に長く住んでいたであろうことは、十分に合理的に説明ができることです。
そしてそれが万年の単位であれば、そこで行われていた占いから文字が生まれたとしても、何ら不思議はありません。
ところがその居住地が、温暖化によって次第に海に沈む。
そうなれば、人々は、いまある海岸線の位置にまで後退して住むようになり、これによって、日本列島、琉球諸島、China、フィリピン、インドネシア、ベトナムなどに、人々が別れて住むようになったであろうことは、これまたごく自然な成り行きであったのであろうと思うのです。
そういう次第ですから、私は、「日本人がどこからきたのか論」には疑いを持っています。
日本列島には、北から来た種族と南から来た種族がいた云々という渡来説には、「なぜわざわざ渡来したのか」という素朴な疑問への答えがないからです。
むしろ、もとはいまある海上のどこかに住んでいた(ひとつだった)ものが、海岸線の変化によって分断され、自然とそれぞれの地域に分かれて住むようになったということのほうが、はるかに説得力があるように思えるのです。
そしてもとがひとつであるのなら、文字ももとはひとつであったはずです。
それが長い年月間に、地域ごとに使いやすいようにいろいろと工夫され、発達していった。
記号を組み合わせて会意文字とする(漢字にする)ということを考えた人たちもいた。
記号そのものを、もっと書きやすく筆記体化させていった人たちもいた。
記号の持つ意味を探求して、パターン化していった人たちもいた。
そしてそういうものの、すべてが、太古のままに生き残ったのが「日本に残されている」ということなのではないかと思うのです。
つい最近まで(というか最近でも)地方ごとに方言が異なるように、かつてはそれぞれの地方ごとに、その地方の文化を伝えるのに適したいわば「地方文字」もしくは「方言文字」として、様々な「神代から続く文字」があったと考えて、なんら不思議はないのです。
ここまできて、古事記序文に書かれた天武天皇の御言葉、「諸家が持っている帝紀や本辞」の意味が明らかになってきます。
諸家が、それぞれ異なる神代文字で書き残していた史書を指しているということです。
地方ごとに豪族たちが、独自の文字で文書記録を残していたと考えるべきなのです。
それらはすべて五十音である点は共通しています。
けれど文字のカタチが全然違う。
古事記の編纂を命じた天武天皇は、兄の天智天皇の改革路線を踏襲した天皇です。
その兄の天智天皇の即位は、唐と大規模な戦闘(白村江の戦い)があったわずか10年後です。
また再び、戦いがあるかもしれないのです。
実際、唐は日本遠征計画を具体的に立てていましたし、この時代(7世紀)には、鉄は倭国オリジナルではなくなっています。
古事記にある天武天皇の「いまその誤りを改めなければ、幾年も経ないうちに日本はなくなってしまうであろう」という言葉は、共通の文字を確立して日本国内の意思伝達をひとつの言語で行なうようにしなければ、日本に唐が攻め込んできた時に、日本そのものがなくなってしまうという、強烈な危機感なのです。
だから天武天皇は、太安万侶に古事記の編纂を命じたのです。
古事記は、全部、漢字で書かれています。
けれど、その漢字は、漢文として書かれたのではなくて、漢字の音だけを用いた、つまり漢字をカナとして用いたところが随所にあります。というか、むしろその方が多いくらいです。
古事記では、その都度漢字の横に「以音」と、注釈がしてあります。
「以音」というのは、漢字は使っているけれど、音だけを採用していて、その漢字には意味がないという意味です。
つまり漢字を「カナ」として用いているのです。
この時代、地方ごとに異なる文字が使われていた一方で、漢字は外国語として日本全国に共通に普及していました。
だから共通語として、外国語である漢字を使って、全国各地の神代文字で書かれた史書を統一したのだと考えるのは、ごく自然ななりゆきです。
このことがわかると、古事記と同時期に編纂された日本書紀が、なぜ綺麗な漢文で書かれたのかも説明がつきます。
日本書紀が美しい漢文で書かれ、これが子供達の教科書になれば、子供達は自国の歴史や道徳を学べるだけでなく、外国語である漢文を、普通に読み書きできるようになります。
日本に攻め込もうとする唐の人々には、日本語はわかりません。
ところが日本人は、唐の国の文書を誰もが読み書きできるのです。
これは戦略上、国防上、ものすごく有利な国家インフラです。
古事記の文章の構造を読むと明らかなのですが、常に「問題提起」した後に「その回答を示す」という書き方になっています。
つまり、すべてにおいて「目的を持ってはじめる」という姿勢が一貫しているのです。
それが日本的思考です。
外国語を共通語にするということについては、おもしろいエピソードがあります。
明治時代、大山巌は、会津藩の大山捨松に一目惚れし、二人は結婚しました。
ところが、大山巌は極端な薩摩弁、捨松は極端な会津なまりです。
両者とも日本語で話しているのに、二人はまったく言葉が通じない。
そこで二人は、大山巌が英国に、捨松が米国にそれぞれ留学経験があり、両人とも英語に堪能でした。
そこで二人は、初デートのとき、なんと英語で会話しながらデートしたのです。
古事記の時代、天智天皇、天武天皇の時代というのは、
一方に、日本語の表記が、各地方ごとに全部バラバラで、異なる神代文字が使われているという状況があり、
一方に、他国侵逼の国難が迫っているという、
国家緊急時の時代です。
そのようなときに、どの神代文字を我が国の共通語にするかで、国内で喧々諤々やっていては、もう間に合わないのです。
であれば、「外国語」として国内に広く普及している漢字を、この際、共通文字として日本語表記に使ってしまえ!というのが、実は、古事記における初の試みであったわけです。
つまり、ひらがなも、カタカナも、もともと神代文字があったからこそ生まれた文化なのだと考えた方が、明らかに歴史を合理的に説明できるのです。
そして日本に、漢字渡来以前に、すでに高度な文化文明が栄えていた事実も、これによって裏付けることができます。
神代文字は、縄文時代の土器や、弥生時代の石版や、銅鏡、銅矛にも、たくさん見出すことができます。
いまは、それらが「意味不明のただの模様」として扱われていますが、実は、それが神代文字である可能性が高いのです。
古事記には序文があります。
そこには、天武天皇の詔(みことのり)として、次の記載があります。
「天武天皇は申されました。
『諸家が持っている帝紀や本辞は、
事実と異なるし、
またその多くに虚偽の記述がある。
いまその誤りを改めなければ、
幾年も経ないうちに、
日本はなくなってしまうであろう。
歴史は国家の大本です。
そこで巷にある様々な帝紀から撰録し、
旧辞を取捨選択して、
偽りを削り、まことを定め、
後の世に伝えたいと思う。』」
この詔が発せられたのは西暦681年のことであったと、これは日本書紀にはっきりと特定があります。
つまりこれは事実であったということです。
そしてこの詔には、重大な事実の指摘があります。
「古事記の前に、諸家ごとに、さまざまな史書が伝えられていた」
という指摘です。
このことは、実は「古事記以前に書かれた史書があった」というだけにとどまりません。
古事記以前に書かれていた史書が、諸家ごとに、それぞれの地に古くから伝わる神代文字で書かれていた可能性を示唆するからです。
一般に、上代の人々には文字がなく、人々は口伝で歴史を伝えたとされています。
漢字が伝わったのは、仏教伝来と同じく、西暦552年のことであったといいます。
だから、
「それまで日本には文字がなかった」
「カタカナやひらがなは、漢字を変形させて作ったのだ」
といわれています。
しかし、仮にもしそうであるならば、
「なぜ日本語には「ア」から「ン」で終わる五十音があるのか」
「日本語の五十音は、いつどのように形成されたのか」
という素朴な疑問に、合理的な説明を行うことができません。
なぜなら漢字には50音という思想はないからです。
実は50音というのは、非常に不思議な分類といえます。
なぜなら、日本語には「が」や「ば」のような濁音もあれば、パピプペポのような半濁音もあります。
ギャ、ギュ、ギョのような拗音、他にも破裂音、摩擦音、鼻音、はじき音(巻き舌でラと言う時など)、ヤ行、ワ行の子音のように母音に近い接近音もあります。
つまり、日本語の発音は、50音だけには収まらないのです。
このことは、裏返しにいえば、50音には、音声の発音とは別に、何か特殊な用途があったことを示唆します。
このことについての合理的な説明としては、やはり古代において盛んに行われ、古事記にもその事実が記載されている鹿骨占いや亀甲占いが挙げられます。
鹿骨占いや亀甲占いは、日本に限らず広く東南アジア全体に普及していた占い手法で、鹿の骨などを焼き、このときにできるヒビ割れのパターンで、様々な御神意を得るというものです。
ヒビ割れのパターンは、「ー」であったり「|」であったり「/」であったり「\」であったり「・」であったり、様々な模様が生まれます。
長い歳月占いで用いられれば、次第にそのヒビ割れのパターンが類型化され、それぞれに名前が付いても何らおかしくありません。
そしてそのパターンが記号化されることは、ごくあたりまえに起こることです。
そして当然、ひとつひとつのパターンには、「音」での名が着いたことでしょう。
つまり、パターンに「音」が着くようになる。
すると、今度は、音をパターンで表すようになることも、ごく普通に起こりうることであろうと思います。
こうして50種の音による記号が完成する。
その完成された50の音が、それぞれの地方ごとに、図形化されて文字になる。
これもまたごく自然な行動といえます。
つまり論理的に考えれば、鹿骨占いがあり、そのヒビ割れ模様がパターン化され、そのパターンごとに一音が割り当てられることで、今度はその記号が、文字として活用されるようになると考えることができるわけです。
漢字は、象形化された記号の組み合わせによって成り立っている文字ですが、ということは漢字が生まれる以前に、「亻」なら人を表し、「尹」は手にムチを持っている姿という記号化が先に生まれ、普及していなければならないはずです。
このように考えれば、漢字以前に、一音で何らかの意味を表す記号化されたものを文字として扱う文化が、どこかで先に生まれていなければならないはずなのです。
そしてそれこそが、日本に残る神代文字なのではないかと思います。
そもそも「西暦552年の漢字渡来まで、日本には文字がなかった」という説にも疑問があるのです。
なぜなら、日本に文字を扱う文化がなかったのなら、日本に「金印」が贈られることはありえないからです。
「漢委奴国王」と記された金印は、江戸時代に福岡県の志賀島で発見されました。
この金印は、西暦57年に倭国にある奴国の国王が漢に使いを送り、漢の皇帝が授けた金印です。
このことは、Chinaの史書である『後漢書』に明確に記されています。
漢字渡来とされる年より、500年近くも前の出来事です。
みなさまよくご存知の『魏志倭人伝』にも、魏の皇帝が「親魏倭王」と記した金印と、銅鏡100枚を倭国に贈ったと記載されています。
魏が成立したのは西暦220年、滅亡が265年、つまり3世紀の出来事です。
ということは、魏から日本に金印が贈られたのは、間違いなく3世紀の出来事です。
そして「印」というものは、文書に押印するためのものです。
つまり、1〜2世紀の日本で、文字が存在しなければ、漢の皇帝も、魏の皇帝も、日本に「金印」を贈ることなどありえないのです。
とりわけChinaにおいて、金印というのは特別な意味を持っています。
Chinaの印には、玉印、金印、銀印、銅印の区分があります。
玉印は、象牙でできた印であり、これはChina皇帝だけが用いるものです。
金印、銀印、銅印は、Chinaの皇帝が下賜する印です。
これには明確な序列があります。
オリンピックのメダルと同じです。
金印をもらえる国は、一等です。それはChinaと対等もしくはそれに近い国力を持った国です。
銀印をもらえる国は、二等です。それはChina皇帝の傘下にあって郡長程度の国力のある国です。
銅印をもらえる国は、三等です。それは村長さん程度の国です。
漢や魏が、倭国を文字も扱えない遅れた国だと認識していたなら、日本には、良くて泥印しか与えられなかったことでしょう。
そもそも日本に文字を操る文化がなかったのなら、そもそも印を授ける理由さえありません。
つまり金印が贈られたということは、Chinaの王朝にとって、日本がChinaと対等な国力と文化を持った国であると認識されていたということです。
残念ながら、Korea半島では、歴史を通じてChina皇帝から金印を下賜されたことは一度もありません。
Korea半島は、ずっと銅印だけが下賜されました。
つまり、歴代のChina王朝からみて、歴史を通じてKorea半島は、明確に日本よりも劣る国とみなされていたということです。
それは、詰めていえば、文化レベルの低い国とみなされていたということです。
文化レベルの低い国が、はるか高みにある国に向けて「文字を教えてやった」とか、ありえないファンタジーです。
ちなみに、古代においては、Korea半島の南半分は倭国の領土です。
つまり倭国とChinaの大帝国は、陸続きでした。
陸続きであるということは、侵略の危険と常に隣り合わせにある、ということです。
だからこそ、贈り物をし国交を保ち、敵対したり侵略されたりすることがないように、倭国はChina王朝に気をつかっていたのです。
そしてChinaの王朝もまた、倭国と敵対することがないよう、金印を贈って倭国を懐柔していたのです。
つまり、金印授与は、対等なパートナーシップの証であり、当時のChinaにとって、倭国は「征服征圧するより、国交を持ったほうが得である」と認識されていたということです。
何が「得」だったのでしょうか。
魏志倭人伝の「魏」は、みなさま大好きな『三国志』に出てくる「魏・蜀・呉」の「魏」です。
その「魏」には、有名な曹操がいました。
三国志は、魏の曹操を、憎らしいほど強い奴として描いています。
つまり、それほどまでに、曹操の軍事力は強かったのです。
なぜ強かったのでしょうか。
理由があります。
魏軍は、鉄製の剣や楯を用いていたのです。
孫権の呉や、劉備玄徳の蜀は、青銅器製の武器です。
青銅器の剣と、鉄製の剣が打ち合えば、青銅器の太刀はポキリと折れます。
圧倒的に鉄製の武器が有利なのです。
魏軍の兵士は、呉や蜀の軍隊を、武器ごと真っ二つに切り捨てることができたし、青銅器でできた楯を、鉄の槍で貫き通すことができたのです。
強いわけです。
では、なぜこの時代に魏だけが鉄製の武器を持っていたのでしょうか。
これもまた理由があります。
倭国が鉄を産したのです。
倭国は、国内でも鉄を掘りましたが、同時にKorea半島の南部でも、さかんに鉄を掘っていました。
鉄は岩を熱して溶かし出します。
これを行なうには、高温をあやつる高い技術が必要です。
そして高い技術は古来、日本のお家芸です。
倭国は、鉄を生活用品に用いましたが、魏は、倭国から輸入した鉄を武器に使いました。
魏の国力をもってすれば、Korea半島を奪うことも可能であったかもしれません。
けれど魏がKorea半島と隣り合っていながらそれをしなかったのは、魏が半島を奪えば、鉄が補充できなくなるからです。
つまり鉄の生産技術は、倭人たちだけのものだけであったということです。
Korea半島南部の倭人たちを脅かして、倭人たちが海を渡って本土に帰ってしまえば、魏は鉄の補充ができなくなります。
それは魏の軍事力の弱化を意味します。
「ならば、征服するより、対等なパートナーとして付き合うほうが良い」
というのは当然の帰結です。
だから金印を贈ったのです。
この時代のKorea半島に倭人以外で棲息していたのは、濊(わい)族です。
濊というのは、臭くて汚なくて人間分類することがおこがましい種族という意味です。
なぜなら濊は、糞尿を意味する汚穢(おわい)の濊であり、しかもそれがサンズイです。
どれだけ汚くて臭かったかということです。
果たして、そんな濊族に文化を教えてもらわなければならないような国に、魏は金印を送るでしょうか。
要するに「漢字渡来まで文字がなかった」と考えるほうが、明らかに不自然です。
そうではなく、独自の文字を操る文化があったから金印が贈られたのです。
そして独自の文字があったからこそ、日本には五十音があるのです。
もっといえば、漢字渡来よりも先に文字があったからこそ、日本語には五十音があるのです。
それが「神代文字」です。
神代文字は、文字ではないという人もいるかもしれません。
しかし伊勢神宮には、稗田阿礼や菅原道真、あるいは源義経などが、まさにその神代文字で奉納した弊が残されています。
もっと身近にもあります。
少し古い神社に行ってお守札をいただくと、その中の紙片に、まさに神代文字が書かれています。
神代文字はファンタジーなどでは決してなく、実際にあったし、いまなお使われている文字なのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長?倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表?日本史検定講座講師&教務。