デスクナイフとして申し分のないブロー
ニングのモデル277フォールダーだが、
アウトドアでの汎用ナイフとしては短い。
特に食材を切る時に、タマネギなどは一刀
では刃が届かない。
せめてこれくらいの長さが野外調理では
欲しいところだ。
ビクトリノックス・センチネル
ブローニングのフォールダーならば、真ん
中のモデル程の長さがアウトドアでは全般
的に使い易い。
上:DA43
中:MODEL 141
下:MODEL 277
ブローニング・フォールダーのモデル141
ブローニング・フォールダーのモデル141
は長さも適度にあって使い易く、数年程
前にはかなり使っていた。
これは4本目だ。他の3本は友人が試しに
使ってみて「これ、いい!」というので
過去に進呈した。
モデル141は、食材や焼けた肉を切るの
にも適している。とても手捌きが良い。
「いいナイフ」だ。
ブローニング モデル141。
デザインといい、使い勝手といい、隠れた
名品だと思う。チタンコーティング。
ブローニングのトレードマークの鹿さん
のロゴマークが透かし彫りされている。
ワンポイントがお洒落。
南米でも東南アジアでも、刃物を人にあげ
るのは縁起が悪いとされて忌避する風習が
ある国もある。それは文化だ。
日本においても「縁を切る」に繋がると
して良くないこととされる概念も一部に
はあるのだが、物は考えようだ。
武士の間では刀剣は取り合いになる程に
求め合ったし、武士間でも刀剣のやりとり
は一つの信頼の証としても存在した。
刀剣は献上したり下賜したり、あるいは
同格間でも贈呈されたりした歴史が日本
にはある。
日本は鉄器自主生産の古代以降、世界に
比類なき徹底した「刃物の国」であったの
で、日本人の中に刃物そのものを忌避する
観念は希薄だ。
むしろ刃物に神聖な存在をさえ認めるの
が日本人の特性だ。
刃物に対する神聖視などは、聖書に出て
くるロンギヌスの槍以外西欧人には希薄
なのではとさえ思える。
フィンランドは日本に似ていて、記念す
べき日に男子にナイフを贈る文化があり、
贈られた男はそれを栄誉として誇りに思
い、そのラップナイフを大切にするとい
う風習がある。
一方、日本人も刃物切れ物に対して固有
の思いがある。日本人は刃物には聖なる
魂が宿り邪を払うという日本人独自の意識
性を持っている。
それゆえ、刀剣なども神社に奉納したり
するのだろう。忌避すべき物は奉納など
しない。
西欧や南米や東南アジアでは、刃物は自分
で買わないと縁起が悪いとして、コインを
付けて贈り、刃物を貰った人はその貨幣を
返却することで「買った」という体裁を
取る国もかなり多い。
それこそ、刃物に関して金員絡めてのやり
取り、親しき仲でも商売なのかと、私など
はいささか違和感を覚える。
何でもかんでも金銭の金額に換算して思考
を立てる方法は現代でも「金に汚い」と
か、「えげつない」とか思われる傾向が
ある。
その日本人の概念の是非はともかく、
物品の価値を値段で考えるその偏頗な
概念も視点も私は個人的には大嫌いだ。
そうした視点こそが価値がないと思って
いる。
使えない10万円のナイフよりも使える
5000円のナイフのほうが遥かに価値があ
る。
物の価値は売値の額の多寡では量れない。
私は、誰かれ構わずナイフや刀をあげたり
はしない。「この人なら」と思った近しい
人にしか刃物は渡さない。
私自身も刃物を頂くと素直に嬉しいし、
人に進呈するのも喜んで貰えると嬉しい。
笑顔があればいいではないか。
刃物とは、本来、精神的にも物理的にも
人の役に立って、人に笑顔を運ぶ存在だ
と私は思うのだ。
刃物に甲乙差別はつけられないが、私は
一番人の為になっている刃物は外科医の
メスだと思っている。
文字通り、人を救うための刃物だからだ。