渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

刃物の規矩 その2

2020年05月28日 | open



日本刀の原初は古代刀剣であり、それは
直刀だった。
エゾ地の「夷狄(いてき)」と朝廷中央が
捉えた東北においては、古代遠隔地で発生
した蕨手刀が発達した「湾刀」が登場し、
その湾刀を古代末期の叛乱軍である平将門
軍は現地で量産して配備した。
鉄器自主製造の技術があったからこそそれ
が可能だった。
斬撃では、大和朝廷軍の直刀は悉く折れ
たが、将門軍の湾刀は折れもせず、馬上
からの使用でも有効だったと記録にみら
る。
大和朝廷は、兵器による軍事的劣勢に大い
に焦り、例によって太古より繰り返した
奸計を以って将門勢力を切り崩すことを
やり、それが成功した。
軍事的には圧倒的に将門の優勢だったが、
周辺武将を寝返りさせて朝廷側につけさせ
ることで辛うじて勝利を収めた。
しかし、あまりにも将門勢力のその影響力
の存在に恐れたために、「将門の怨念」を
創作してこれを鎮めるための儀礼を設え
た。
ヤマトのやり方はいつも同じで、古くは
クマソに対しそうであり、また出雲に対
してもそうであった。
出雲に対しては、鎮めの代わりに全国の
「神々」を毎年10月に出雲に派遣させて
お伺いを立てることを形式上行なうこと
で出雲の再決起を封じ込めて傀儡とする
ことに成功した。
吉備の場合は、人員を一部朝廷に登用する
ことで収めた。(のちに吉備勢力は朝廷中央
からは当初の計画通り排除された)
そして、出雲はあやかもヤマト派であるか
のような日本の伝統と歴史を創作し、それ
を定着させることにヤマトは成功して、
それがこんにちに繋がっている。

都の中央以外はすべて「外の野蛮な地」と
するヤマトの思想はいわゆる中華思想で
あり、これは古代に中国との交易が開始
されてから日本に導入利用された中央集権
の差別排外思想だ。
日本人の極度の排外主義、ムラ意識は中国
のシステムの模倣により醸造され、それが
強固に根付いた。朝鮮でもその中華思想
が今でも強く発揮されている。
まさに日本人の差別感と排外主義的な
土着的発想は、二千年の歴史を持つもの
といえるだろう。
中華思想とは、読んで字の如く、自分たち
こそが中央の華であり、すべての文化と
知性と先進性は自分たちから発生し、それ
を外の未開地の野蛮な土地に恩恵として
施してやるのだ、という自己唯一絶対思想
であり、この思想は古代中国に発生し、
現在では国名にまでするほどに中国の主軸
を成す思想となっている。
体制が資本主義だろうが共産主義だろうが
関係ない。人間的な骨格として中国では
その中華思想が貫徹されている。
それを古代に模倣した日本と朝鮮も中華
思想の国として人民の発想の隅々に亘る
まで徹底的に浸透している。
中国、朝鮮、日本は「差別を国是とする」
国である歴史を持つ。
日本国内の中国地区のその語句の意味も、
「トヨアシワラのナカツクニ」という意味
のことであり、中華思想を反映したもの
だ。
なぜ大和地方ではなく中国地区をナカツク
としたのかは、出雲と吉備があったから
であり、傀儡懐柔策の現出としての敬称
としてあったことだろう。

東北各地で自主生産していた鉄器製造の
技術者たちは、ヤマトにより征服支配さ
れたのちに、全国各地に「俘囚」として
強制的に転住させられた。
それが全国各地の鉄器・刃物の産地鍛冶の
始祖となる。
のちに鍛冶職は刀鍛冶のみ中世末期に脱賎
するが、明治維新まで一般的な鍛冶が賎民
階級に置かれたのは、古代の朝廷による
俘囚扱いに遠い背景があったことだろう。
古代王権ある所に鉄器あり。鉄ある所に
差別統制制度の歴史あり、といえる。

これは古墳の造営や他の日本の生産活動
全般に亘り展開された。
米などの農産物が経済の主軸であったの
で、米を生産する農民のみをオオミタカラ
という「天皇の臣民である」という臣下
呼称で呼び、それ以外の生産活動に従事
する国内の人民は朝廷はすべて賎民とし
た。武士でさえ大元は賎民だ。貴種降臨
譚は後世の捏造である。
武士の発生原初において乗馬技術や戦闘
様式は、猟と野戦の特殊技術を持つ特定
技能集団によって培われたのは明白だ。
都で歌を詠んでいるような者たちに戦闘
や野外行動ができる筈もない。
そして、ヤマトの「貴族」たちは、員数
的には大多数を占めた農民を公民の良民
であるとし、それ以外は漁労民だろうが
神社の禰宜だろうが、賎民とした。禰宜
も巫女も賎民とは信じ難いだろうが事実
だ。
農作物を生産する者以外は全て賎民として
扱うのがヤマトの方式だった。
芸能や清めを執り行なったり、医療従事
や出産の職能人、陰陽師その他等、あり
とあらゆる技術職を賎民とする構造によっ
てヤマトは支えられていた。
要は、中央貴族以外は「下なるもの」と
して扱うのがヤマトのやり方だった。
日本の階級は「作られた」ものなのであ
る。
そうした動かし難い歴史が日本にはある。
そして、鉄器生産技術とその担い手たちは
ヤマト中央の掌中に「手下(てか)」として
握られて行ったのだった。

日本刀の原初はどこかと問われたなら、
それはいわゆる「俘囚」の剣であり、大和
の地から遠隔地である東北にあることだ
ろう。
古代の「中央」とは畿内のごく狭いエリア
のことであり、それより外は「外夷」であ
り「夷狄」の蛮族の地とされた。
現在の愛知県あたりでさえ夷狄の地とされ
ていたのだから、いかにヤマトが狭窄的な
中央史観でこの列島諸国をみていたかが
窺える。
極々狭いエリアのさらにごく小さな集団
のみを貴種とするピラミッド型の体制を
築き上げることがヤマトの命題であり、
それをヤマトは成功させた。
その構造的人民統治体制に基づき発生し
た日本人の意識は、千数百年を経た現在
においても、あたかもそれが当然であるか
のようにして国家意識を形成している。
現在も日本国内に多く残存する差別的な
排除意識は、それが地方であろうと東京
であろうと、古代から連綿と続く「体制」
補完の意識であるのだ。
日本人は今でも「差別と排外主義を以て
ふるまう」ことをよしとする民俗意識を
堅固に保有している。
西欧形の民主主義が定着しよう筈もない。
日本人は「お上」こそが絶対であり、また
お上に反ぱくする庶民においても、その
意識性の中には差別排外主義を除去でき
てはいないのだから。
つまり、庶民にあってもお上のやり口の
焼き直しをしているだけ、という破滅的な
図式が存在するのである。

(つづく)
この記事についてブログを書く
« 刃物の規矩 その1 | トップ | 刃物の規矩 その3 »