渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

よく似た日本の風景 映画『砂の器』(1974年)

2021年04月20日 | open


映画『砂の器』(1974年)から。

これは映画作品で撮影された秋田県の
国鉄のとある駅の1973年撮影時の映像
だが、
私が知る1974年の埼玉県の国鉄
大宮駅
西口もまったくこのような感じ
だった。非常によく似ている。

今では埼玉県の大宮駅周辺は大都会に
なり、現在の姿からは1970年代の事
などは想像すらもできない。

これも同作品中のある国鉄の駅だが、
大宮駅のホームももろにこんな感じ
だった。広島山間部の田舎駅と東京の
ベッドタウンの人口35万人だった
国鉄大宮の駅はそっくりだったのだ。
今でも東京の山手線、京浜東北線

田端駅などはこのような風景なので
はなかろうか。
(広島県庄原市西城町「備後落合」73年)


1972年時の埼玉県の国鉄駅。
一学年上の
子たちと。


こうした事実は事実であるので、それ
の時代性をきちんと捉えないと、この
映画作品の謎解きのような地道な検証
による問題解決はできない。
事実を認識せずに脳内妄想の作り事の
思い込みに拘泥するような者には、
事実そのものや事件の真相真実は絶対に
見えてはこない。
それは、この作品が語り教えるまでも
ない事だ。

1972年当時の国鉄の駅は埼玉も東京も
広島県山間部も、つまり全国どこでも
似ていた。それが「戦後高度経済成長
期の風景」だったのである。

そして、これも、同映画作品に出てくる
ワンシーンだが、埼玉県大宮の駅前飲食
街はもろにこの感じだった。

東京五反田の東急五反田駅下の新開地
もこのような風景だったが、今は美化
整備されてしまっている。
どの駅も、首都圏はこのような小店舗

の飲み屋が立ち並ぶ駅前風景だった。


これは同作に出て来るいずも三成の
駅の1973年当時の映像。

私が1997年春に東京本社から岡山に
赴任した時の岡山市内の大元駅の駅舎
がまさにこれにそっくりだった。

現在の大元駅。


思うに、昭和時代は国鉄の駅舎も

ホームも駅周辺の繁華街も、日本
全国どこも似ていたが、ガラリと
激変したのはバブル時代だったよう
に思える。その後平成10年代から
20年代あたりに第二次激変が来る。

特に東京は第一次平成初期激変で
一気に未来都市のように
変貌した。
これはバベルの塔か?と思えた都庁
などは超突貫工事ですぐに完成した。
都庁完成後に、新宿副都心はどんどん
超高層ビル群街区となった。
それまでの1970年代は数える程しか
超高層ビルは無かった。
そして、民間地ではバブル経済による
土地の地上げが横行し、都内都心部
の一般住宅地はほぼすべて大手デベ
ロッパーの地上げ屋に地上げされ、
マンション群が立ち並ぶ街に変貌した。
寒風吹きすさぶ東京湾埋め立て地は、
仮面ライダーや特撮ドラマや刑事
ドラマの荒野のロケ地でしかなかった
のに、そこを大開発して超近代都市
のような街区が出現したのもバブル
時代だった。
東京の街の景色は1990年前後に一変
した。
昭和末期までは、日本の風景は、どこ
も似通っていた、というのは確かに
ある。

最近の事例としては、原宿駅の古い
映画ロケセットのような駅舎が
取り
壊されて全く新規ビルになった。

今の駅舎はただの官庁のようなビルで、
味も素っ気もない。一つもない。
もはや国鉄はJRとなり、いわば私鉄で
あるのに、そのあたりまだ国有鉄道
のような空気が抜けないのか、原宿
駅はまるで国の施設のようなつまらぬ
外観の駅舎になってしまった。
ここ最近のこの手の建築物建て直しで
の「ええっ?」という事例はいくつか
見られる。
東急池上線の池上駅などもそうだ。
駅ビル自体もかなり使いにくいようで、
地元民からの評判も良くないと地元の
人から私は聞く。

バブル時代に再建築された建築物群
とは異なる何かをそこには感じる。
それは、何というか、使い手の事を
一切考慮していない無機質なものを
最近の再建建造物に強く感じるのだ。
それは、建築物を建築する建築士の
人的質性の時代の中での変化が表出
しているのではなかろうか。人間不在
というような。
なんというか、自分の事しか考えて
いないような設計質性を現実の建築物
から強く感じるのである。

日本の風景は、たとえ遠隔地でも似た
風景をかつては持っていた。
それは、まるで『砂の器』の謎解きの
答えのように。


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