渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

新原付制度、具体的検討段階始動

2023年09月11日 | open






なぜ国民生活に関わる交通手段
の立法を国民から選出された
議員が構成する政府ではなく、
国家警察が取り仕切るのか。
それは、日本が民主主義国家
ではなく、警察国家=実効支配
国家権力は民主主義制度の枠外
に存在する=だからだ。
結局、オマワリはじめ暴力装置
を掌握している部分が国の権力
を握っているし、それが国家権
力の実体となっている。
すぐに首をすげかえられる国民
が選んだ議員政府などは真の権
力は有していない。
真の国家権力は警察、自衛隊、
行政執行権力である。
仮に社会運動として民主主義

の世の中を目指そうとする場合、
反政府」運動などは的外れだ。
政府が打倒されても警察は警察
で不動だからだ。
それは、それが国家権力だから
だ。
ごく当たり前の現実を見ての
当たり前の構造解析だが、こ
の日本の構造を社会科学
的に
初めて明らかにしたのは
1960
年代末期の旧共産同マル
クス
主義戦前衛派だった。

他の左翼は日共、社会党、新左
翼全部含めて「打倒〇〇政府」
という滑りスローガンを掲げて
いた。
それは糠に釘だ。
国家権力はびくともしない。
「戦後民主主義」というアメ

リカに与えられた疑似民主主義
にどっぷりと、共産党はじめ
日本の左翼は漬かり切っていた
ので真の姿を見誤っていたと
いう戦後日本の現実が存在する。
新左翼である共産同赤軍派の
よど号北朝鮮行きグループで
さえ、「社会党が政権を取って
民主主義的な日本になったら
帰国したい」などと寝ぼけた
寝言を言っていた。
権力とは何かがまるで解って
いない。

警察機構は必要だが、国家権力

を掌握する警察統治構造などは
民主主義国家にとっては不必要
だ。
欧米先進国の場合、日本とは
かなり
政治体制と統治機構が
異なる。
本物の民主主義にかなり近い。
ただ、現在の日本の国家体制は

完全にアメリカが創作した体制
だ。
1995年の自動二輪大型免許の

簡易化転換も、アメリカ資本
の圧力により日本国家が折れて
実行したものだ。

そして、ユーロ政治パワーに

よる排ガス規制の日本への浸透
は、まさに日本の機構が何に
よって支配されているか、と
いう歴史的構造を象徴している。
排ガス規制とは「地球環境を考
えて」為されるものではない。
目的は別な国際政治力学的な
部分にある。
だが、これも上述のかつての

左翼の見当違いと同じく、モー
タージャーナリストや二輪評論
を為す中古バイク屋、業界関係
者あたりで、
真相の真実の核心
部分を衝く者
は見かけない。
全員が絡めとられている。
国家権力の思うつぼだ。
そうやって、日本の国民はずっと

権力に手玉に取られて来た。
これからもそうだろう。
そして、核心部分を指摘する者

がいたら排除する。国民が率先
して排外主義をむき出しにして
ディスりの嵐で排斥する時代に
さえなった。これは社会のあり
とあらゆる場面において。

そういう国と国民には、そういう
のに見合った世の中しかやって
来ない。
日本人は独立した自分たちの国
を未だ手に入れてはいない。

一つ確かな事がある。
警察は政治などできないよ。
国民生活の向上を模索する発想
や具体的方策などは警察は創出
できない。
警察ができる事は、統治と統制
と規制と取り締まりのみだ。
これは法絡み含める組織的能力
としても実態的資質の実力とし
ても。自分らの出世と保身のみ
しか念頭にない連中が警察の

中枢なのだから。国民の事など
はどうでもいい。

それなのに国家権力の実体と
なっている構造。
絶対矛盾が日本の国家体制には
存在している。


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