城下町の中の旧山陽道沿いにある
明治時代の建物にある食堂。
戦後感満載。
映画『地下鉄に乗って』のロケ
セットみたいだ。
金額のみ現代(笑)。
この黒電話は現役で使っている
とのことだ。
店主によると、プッシュホンは
新し過ぎて使えないという(笑)。
その時点で、1985年から時が
止まってる(笑)。
この店は戦後といっても昭和29年
1954年からやっているという。
国内ではロカビリーが流行って
いた頃ですね。
名作映画『七人の侍』が公開され
た年。
ちなみに、1972年放送のテレビ
ドラマ『ワイルド7』では七人を
「ひちにん」と発音して主題歌を
歌ってしまってます(笑)。
あれはきっと東京生まれの人が
歌っていたのでしょうね。
東京方言は「し」と「ひ」が逆転
することがあります。
広い道は「しろいみち」になり、
左は「しだり」となる。
逆に質屋は「ひちや」で、潮干狩
りは「ひおしがり」と江戸東京弁
では変化します。
あと、発音でなく発声としては
女郎は「じょうろう」と言います。
この変化は一部標準語化されて
ますよね。
「女王陛下の007」は「じょおう
へいかの〜」ではなく、「じょう
おうへいかの〜」が標準です。
女帝は「じょうてい」とは言わ
ないのに。
女郎をじょうろうというは上臈
(じょうろう)からのことだろ
うという気もしますが。
この本町食堂では、「焼き飯」
を頼みました。
焼き飯です、焼き飯!
これね、私が中学から大学の
頃までは、三原市に遊びに来て、
喫茶店でも食堂でも、「ピラフ」
という名称は存在しなかった。
全部「焼き飯」。
アイスコーヒーなどという名称
も喫茶店では存在しません。
「冷コーヒー」であり略して
「レイコ」と言ってました。
高校の時は都内では喫茶店マニア
だったので、三原に来た時も喫茶
店に行くのですが、アイスコー
ヒーと頼むと、「はあ?」と言わ
れて、「ああ、レイコですね」
と言い直された。
最初、こっちがきょとんとなり
サッパリだった(笑)
こうした方言は今では消えまし
た。ここ20年程で。
でも、先日、市内の喫茶店に
行って、レモンスカッシュを
頼んだら、「はい。レスカね」
と返された。今時、そんな言葉
残ってるんだ(笑)。
讃岐でうどんのことを子どもが
「おぴっぴ」と言ってたのが
もう消滅してる時代に、昭和戦
後言葉が一部では三原では残存
している。
本町食堂の焼き飯は、塩味のみ
での味付け。
ウスターソースがついてきます。
美味くもなく、不味くもないけ
ど、3人前くらい食べられそうな
味。
これ、数十年ぶりに食べた感。
どこか懐かしい味。
なんか、ここは気に入りました。
すごいのはね、高齢の店主の方、
カブで出前するのよ。
この城前の山陽道を江戸時代
には大名行列が通っていたの
です。
この本町食堂がある場所は、
城下街道筋の町人街になり
ます。
西を見る。
東を見る。
どんつきがお城。
毛利一門小早川隆景が戦国末期
に海を埋め立てて築城し、その
後、江戸時代に福島正則が安芸
備後両国領主で入封(にゅうほう)
し、江戸時代初期に紀州から
浅野家が安芸と備後の西部の藩主
として転封(てんぽう)して来まし
た。
備後国は二つに分けられ、備後
福山には福山藩が普代として置
かれて西国への睨みを利かせる
ようになった。淺野は外様だか
らです。
幕末の福山藩主は日米和親条約
を締結した阿部氏で有名ですよ
ね。代々福山藩は幕府要職の老
中とかを出していました。
老中は一人ではないけど、いわば
当時の日本の実権を握る職で、
今の総理大臣のようなものです。
三原は、一国一城令の例外と
して、肥後細川家が八代城を
残されたように、三原城も幕
府に廃棄処分はくらいません
でした。城ではなく要害として
の届け出。
本藩の城は広島府内広島城で
すが、三原は三万石の石高が
あり、浅野家の家老が城主と
なり、側近が城代となってい
ました。
広島藩は46万5000石で浅野家
は大大名でした。
城下山陽道の西側からのどん
つきでお城の北面の石垣と濠
に突き当たります。
そこはクランク状のシケイン
になっています。
明治以降に拡幅して作られた
道ですが、ほぼ江戸期の道割
のままです。
なぜ城下町はシケイン状にする
のか。
それは現代のサーキットと同
じ目的。そこで進行を遅らせ
るためです。
敵から攻められた時、そこに
敵を渋滞させて、一網打尽に
するのね。
日本全国どの城下町もそのよう
な都市構造になっています。