渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

2021年09月27日 | open



道路が無いので行くことが困難。

全く役に立たないただの山。


道路が一切存在しないから恵下谷の

道なき道の谷底から垂直登山する
しかない山だ。
大昔は生活燃料補給の為に木々を
伐採し城下の家屋まで運搬したが、
今は道さえなく、何の役にも立た
ない。
山頂の稜線には獣道のような県の
遊歩道が通っている。
平成7年-1995-正月にうちのこの
山に登頂経験あり。
非常に厳しい場所だった。

この峠のワインディングロードを
仕事やプライベートで通るたびに
思うところあり。

昔はまだ谷底に道があったが
、三原
城下から北部高原地区への抜け道は
その恵下谷の谷沿い通行しか無かっ
た。大八車が昭和戦後まで往来して
いたと聞く。
山肌にある新道の峠道は、海沿い
に昭和30年代初期に国道が初めて
開通した頃に整備が進んだと思わ
れる。それ以前から裏道としては
あったかもしれないが不知。
幅員狭く、離合不能で、1960年代
にはバス
が来ると、退避エリア
まで狭い
峠道をバックしなければ
ならなか
った。子ども時分に車に
乗っていてその状況に出くわしたが、

谷底に転落するのでは、と冷や汗
ものだった。
三原城下は戦国期には要塞海上都市
であり、その地形は江戸幕府終焉
まで続き、昭和30年代まで、三原
に行くにも三原から出るのも手段
は鉄道もしくは海路しか
ないよう
な陸の孤島だった。
港湾工業都市化されたが、輸送は

すべて海上輸送か鉄道だった。
戦国武将はそういう地形の場所に
あえて
450年前に城郭都市を作った。
天然の地形を要塞に利用した軍都
として。
東の隣町の尾道との一般道が整備

されたのも平成時代の中期以降で
あり、
それまでは獣道のような
離合不能な狭い峠
(太郎谷)を
尾道までの区間バスが通っていた。
三原という片田舎の地方の城下町
は、地形的には限り
なく周囲から
閉ざされている町だった。

道路が東西北の三方に開かれて
交通の便が良くなったのは、
ここ20年程の事なのである。

今は恵下谷下の道は廃道になって
いて一切通れない。
全く徒歩でも通行不能。空挺レン
ャーのような装備と心構えでない
踏破できない場所となっている。

ここは下を覗くと断崖絶壁。



大八車とは、江戸時代から昭和時代
まで日本で使用された貨物用の人力
車の事。私が子どもの頃の首都圏で
は、すでにリヤカーに代わっていた。
最近ではリヤカーさえ見ない。
萩原健一と水谷豊の『傷だらけの
天使』
では、オサム(萩原)が風邪
で死んだ
アキラ(水谷)をドラム缶
に入れて、
夢の島ごみ捨て埋め立て
地(現在の
お台場フジテレビ付近)
にリヤカー
に載せて捨てに行った。


日本における車は、牛車(ぎっしゃ)
と大八車しか実質運行としては存在
しなかった。
日本ではあえて馬車を作らなかった。
乗馬を許されたのは武士のみで、
庶民は「ゆっくり歩かなければなら
ない」と法規で厳格に決められた。
武士とて平時には走ってはならない。
それゆえ、江戸市民などは走り方と
泳ぎ方を習得することが禁じられた
ため、火事などの絵を見ると、全員
幽霊のように手を前に出して走って
いる様子が描かれている。水泳術
の修練も武士にしか都市部では許さ
れなかったので、入水(にゅうすい)
したら町人らは泳げず、身投げなど
の入水(じゅすい)自殺が可能成立
となった。誰でも海や川に入ったら
百姓町人たちは溺れ死んだ。漁師は別。
泳ぎは達者だったようだ。
なお、江戸期、大八車により江戸市中
交通事故を起こした者は死罪だった。


リヤカー。
1970年代の青春ドラマなどでは、
このリヤカーに家財道具を積んで
引越しをする若者たちがよく描か
れていた。
1960年代の焼き芋屋さんやお豆腐

屋さんの行商人はリヤカーを多用
していた。便利なキャリーカーだ。
通行に関しては現法規でも大八車

とリヤカーについての道交法規定
が存在する。


この記事についてブログを書く
« 阪神タイガース | トップ | 人吉のうなぎ屋さん »