渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

静かなる衝撃

2021年09月19日 | open
 
高校の時から大学3年の秋まで付き
合っていた人がいた。二つ下の子だ。
女子高1年の頃から毎日私に弁当を
作ってくれていた。私の両親は私が
高校1年の時に急に父が国許の実家
を継ぐ事になって江戸表から広島に
転居したからだ。私は随伴せずに
高1の時から両親と別居して残り、
東京の高校に通った。生まれ育った
土地は離れなかった。
高校には学食も売店もあったが、
そんな私に彼女は弁当を作ってくれ
ていた。頼んだのではなく、彼女か
らの申し入れだった。「あたしが
オベント作ったげる」と江戸弁で。
よく彼女の家にも食事に招かれたり、
互いの両親も認める仲だった。
朝、通学途中の国電と都電が重なる
駅の改札で待ち合わせして弁当を受
け取り、帰りは池袋で待ち合わ
せし
て空の弁当箱を渡す。
私の高3時代の毎日はそれだった。
大学に進学してからは、毎月毎週の
ように私の部屋に泊まりに来ていた。
東京下町生まれ育ちのはつらつとし
た人で、私の学生仲間や先輩後輩た
ちにも人気があった。
 
ある時、彼女がぽつりと言った。
「貴方の部屋は本だらけで、息が詰
まる」と。
嗚呼、これはもう駄目だな、と感じ
た。
愛が消えたとかどうとかの問題では
ない。質性の如何に関する感情の
吐露だったからだ。
私の部屋は大学の研究室や立花隆さ
んの執務室のような感じだった。
「この部屋は落ち葉に埋もれた
空き箱みたい」というものが
悲しい
響きを持つ事を私たち
二人は知らなかっ
た時を長く過
ごしていたのだ。
彼女の中に何かが生まれた事を私は
静かに覚った。
それは二人はこの先一緒には暮らせ
ない、という事を示していた。
これは、私の人生の中で、それまで
で一番の「静かなる衝撃」だった。
私と別れてからほどなく、彼女
は別な人のもとへ嫁いで行った
と風の噂で耳にした。
後年、私と苦楽を最後まで共にした
同い年の「同志」が、私を評して別
人に語ったとされる事をその別人が
私に教えてくれた事がある。
「あいつ(私)の不幸は、あいつは
が自分と同じ思いであると信じて
一つも疑わない事だ」と。
それはかなり後年になってから聞い
た。
本人はそういうつもりはなかったが、
それを聞いた時に、全てに納得が行
った。
元同志の言は、社会的運動状況の中
でのかつてラジカルだった活動家と
しての私のそれを指したものではあ
ったのだが、私はそれを何十年
も後
に聞かされた時、21才の時の
彼女と
の別れの理由さえもようやく
腑に落
ちたのであった。
しかしまあ、「同志」たちはそれ
呑んでよくついてきてくれていた
なあと思った。行き先のわからない
動力車が引く列車に全員乗り込んで。
それはあたかも舵取りがどこへ向か
うのか分からない大船に乗った感じ
だったのではなかろうか。心意気だ
けではちょちょいとは乗り込めない
大海を行く航路だったのに、よく全
員クルーで共に操船して進んで
くれ
たと思う。
 
図書室みたいな部屋は好みとしては
大好きなんですけどね(笑
神奈川の私の師匠の道場もそんな感
じだった。


でもね、数年前に気づいたのよ。
壁を埋め尽くした本棚に暖簾で目張
りすれば全く部屋の雰囲気変わるん
じゃね?と。
やってみたらそうだった(笑
部屋の雰囲気は変わる。劇的に。
これ、学生の時にやっていたら、
もしかするとかみさんになる相手は
変わっていたのかも。
いや、そんなことはない。
質性の否定は表層の同調とは同位
はないからだ。
根本的なとこでどうなの?となると
やはりやってはいけなくなる。
真実を誤魔化してはいけない。
10代〜21才までの早い時期にそれが
分かってよかった、というものだろ
う。なるべくしてなったのだ。
表面的なものを取り繕ったり、偽装
しても意味はないのだ。
真実を語ってもそれを嘘だ偽装だ作
り話だと思い込むのは、それは、そ
の人間の心が真っ暗な闇であり、目
もどん曇りで濁っているからだ。
とは住む世界が違う別な生き
物だ。
しかも、そのような質性の者は
私は
嫌悪している。
人の生き方はいくら迷彩服を着
せて
ぼやかそうとしても、それは
無理な
のだ。
無理は禁物。
無理が進むと無茶になる。
人間、無理はある程度許容できても、
無茶はきけない。
そんなもんは御免こうむりたい。
正座して言うなら、「それがしは承伏
しかねる」というやつ。
 
私の妻については面白い現象があっ
た。
それは、私の父がいたく気に入って
いて、まだ20代で付き合い始めたば
かりの頃のかみさんの事を「○○君」
と苗字で呼んでいた事だった。
それまでの過去の相手には見られな
かった事だ。
私の妻に対して父は「君はこれはど
う思うかね」と柔らかく言うような
接し方だった。
最初から「何か」が違っていたのだ。
私は妻と結婚したのは、恋人ではなく、
ごく自然に家族のように思えたからだ。

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