渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

柳生石舟斎

2021年12月25日 | open


私は日本の歴史の中で一番好きな
剣士は柳生厳包(としかね/蓮也
1625-1964)だ。
しかし、一番惹かれるのは柳生宗厳
(むねとし-柳生読み-/むねよし-
江戸柳生読み-/石舟斎/1529-
1606)である。
新陰流一国一人の認可を受けた人。
新陰流を創始した上泉伊勢守信綱
(1508-1577)の高弟だ。
信綱は歴史上初めて武士が天覧
演武をして正親町天皇から武蔵守
従四位下を賜った傑物の仁。上野
国の小大名だったが、晩年は剣聖
として天下に名を轟かせた。
信綱の第一の弟子は神後宗治(鈴木
某)だが、生没年不詳の謎の剣士。
豊臣秀次の剣法指南番だったよう
だ。
新陰流四天王の第一人者が来歴
不明なのは今もって謎。
他の三名の高弟は著名で、疋田
文五郎景兼(1537-1605)、奥山
公重(1526-1602)、丸目蔵人
長惠(1540-1629)がいる。
三名とも各地に赴き、流門を
興し、長らく道統は続いた。

柳生の剣を完成させたのは蓮也だ
が、柳生の剣を新陰流としたのは、
悪手悪足を上泉の高弟疋田文五郎
に木剣で打たれて直された石舟斎
からだ。
そして、柳生の剣が特筆的な事は、
柳生本家である尾張柳生の現宗家
(養子)の先代延春氏まで、石舟斎
からずっと血脈が続いていた事だ。
延春氏もその先代の厳長氏も、
江戸期の尾張柳生家の当主の肖像
や江戸柳生の宗矩(但馬守)に顔が
そっくりだ。
たぶん、柳生十兵衛三厳も似た顔
だったのではなかろうか。

血脈道統として剣術流派が現代ま
で存続しているという例は稀有だ。
江戸柳生は養子に次ぐ養子で石舟
斎からの血脈は途絶えている。
尤も江戸期の武家も武士も完全血脈
主義ではなく、「家」という器を
いかに継続させるかに腐心した
システムの中に生きていた。
徳川家の将軍家などもそうで、
無縁の血脈者は後継させないが、
血縁関係者を養子として宗家の
当主としていた。なので大名は
各家で御家騒動が発生する。
次期徳川宗家の当主予定の方は
立憲民主党の議員だった50代の
人だが、徳川宗家の後継者とい
っても、松平容保の血脈子孫だ。

剣の流派の世界では、血統主義は
珍しい。
尾張柳生は、つい先代まで柳生
石舟斎の直系子孫が流派の宗家
(江戸期には尾張徳川家の剣術
指南番)を継続させていた。
これは、日本史の中でも珍しい
例としてある。

柳生というと、とかく但馬守宗矩
や十兵衛や蓮也が有名で人気があ
るが、もっと文芸作品でも石舟斎
を若き日から追う作品があっても
よいのではと私は思う。
大きな足跡を残した歴史的な人だ。
石舟斎の功績は、彼自身の業績より
彼の血脈的後継者たちが世に出て
各方面で大仕事をした、というとこ
ろにある。
柳生石舟斎は、現代風ならば、プロ
ジェクトXのような番組で取り上げ
て掘り下げてもよいような人物で
あるように私には思える。


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