古写真に映っているお店を探して
みるPART20 ~かつて歴史上の
人物が2階に住んでいた場所~
私は生まれて幼児期まで育った
のは目黒区上目黒(今の目黒
区青葉台)だが、もしかする
と文京区本郷三丁目で生まれ
ていたかもしれない。
私の両親は、はじめ伯母が管
理人をやっていた本郷三丁目
の東大赤門前のアパートに住
んでいたからだ。めぞん一刻
の一刻館のようなアパート。
私の一つ上のイトコ兄と三つ
上の姉は本郷三丁目で生まれ
た。大手証券会社に勤める伯
父の家族と別部屋に私の両親
は住んでいた。
イトコの兄貴などは神戸に転
居してからも死ぬまで本籍地
を文京区本郷に置いていた。
文京区本郷三丁目界隈は文人
が多かった。これは明治の
小石川区の頃からそうだった
ようだ。新宿区早稲田が牛込
区早稲田の頃からそうだった
ように。夏目漱石などは今の
地下鉄東西線早稲田駅から歩
いてすぐの場所に住んでいた。
私の娘が生まれた時に私たち
が住んでいた場所も、地下鉄
早稲田駅から歩いて1分の所
だった。
東京という街は狭い。
だが、そこに妙があり、良い。
東京といっても、旧江戸エリア
がかなり良い。これは住んで
みれば痛い程よく分かる。
旧江戸エリアというのは、ほぼ
山手線の内側に該当する。
中目黒駅は山手線の外だが、
上目黒(現在の東急東横線中
目黒駅周辺)だけが江戸期に
は朱引き墨引きで飛び出して
いて江戸の御府内に指定され
ていた変な場所だった。
私は目黒のサンマだが、かろう
じて正真の江戸生れという事に
なる。
本郷三丁目東大前から東大の
脇の無縁坂を下ると上野不忍池
に出る。
無縁坂は森鴎外の小説『雁』
にも出てきた場所だ。
中学生の時、同作品を読んで
少なくない衝撃を受けた。
不忍池から池之端を抜けると
御徒町、上野に出る。
今の東大付近は江戸期には
大名屋敷街で、池之端は町
人街、そして御徒町はその
名の通り幕臣御家人たちの
住まいが密集していた場所
だった。
名工長曽祢虎徹興里は江戸
前期に池之端界隈に住して
鍛刀した。
いろいろないきさつがあった
のか、興里(みのすけ)の
息子(養子とも)の興正は
二代目虎徹を名乗って、父
に迫る利刀を作ったが、その
次代の子は、なにがあったの
か打ち首になっている。
まだ詳細は解明されていない。
興里の伯父は日光の東照宮の
金具を作る程の名工だったが、
やはり打ち首に処されている。
表の歴史には出て来ない裏の
力が働いたのだろう。
刀剣界も大昔から権勢の側に
うまく取り入った者とその
一味が絶対権力を行使して
いた事は記録から読み解く
のは容易だ。
そして、冤罪事件がはびこる
江戸時代には、やたらと人が
「裁き」で処刑された。
年間約2,000人が首をはねられ
たが、冤罪もかなり多かった
事だろう。
元警察庁長官でその後政治家
に転身した亀井静香氏は死刑
廃止論者だが、たぶんだが、
警察庁長官時代に知ってはな
らない事実を多く知ってしま
たのではなかろうか。
彼の説く死刑廃止論はいたっ
てごくまともだ。とにかく、
冤罪だった場合、とりかえし
がつかないというのが彼の
主張の骨子だ。抑止論にも
否定的。
「中にいた人間」だからこそ
見えるものもあるのだろう。