川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった

2023-09-14 18:12:15 | Weblog




〇 旭川第7師団歩兵第26連隊 (1939・6・20  第23師団へ配属)
  連隊長    大佐  須見新一郎
  連隊付    少佐  小沢正行
   〃   主計少尉  根上 博
   〃   軍医少佐  鈴木敏美
  副官     少佐  丸山弘一  戦死 7・3
   〃     大尉  伊香賀直臣
   〃     大尉  寺島義雄
   〃     少尉  篠田賢治  戦死 7・3
  連隊旗手   少尉  鶴見筆上  第1大隊第3中隊長転出 8・1  戦死8・20
   〃     少尉  高橋栄二

 〇 第1大隊
  大隊長    少佐  安達千賀雄 戦死 7・3
   〃(代)  大尉  近藤幸治郎 転出 7・13
   〃     少佐  生田準三  着任 7・13   戦死 8・29
   副官    少尉  渡部一雄  戦死 8・20
    付    軍医中尉  中村芳正
   第1中隊長 中尉  青木 香  転出 6・27
    〃    中尉  坂本竹雄  戦死 7・3
    〃(代) 准尉  能登与八郎
    〃(代) 少尉  野坂鉄男
    小隊長  少尉  前田正義  戦傷 7・3
     〃   中尉  牧野義勝  戦傷 7・3
     〃   准尉  井上喜一  戦傷 7・3
   第2中隊長 中尉  相田重松  戦死 7・4
    〃    中尉  中森光長  戦傷 8・25
    小隊長  少尉  古川一男  戦傷 7・5
     〃   少尉  岩崎咲雄  戦死 7・3
     〃   准尉  藤井亀次
   第3中隊長 中尉  小林司郎  戦傷 7・3
    〃    中尉  牧野竹治  転出 8・1
    〃    中尉  鶴見筆上  第3中隊長着任 8・1 戦死 8・20
    〃    中尉  平野義雄
    小隊長  少尉  安達吉治  戦傷 7・3
     〃   少尉  古川義英
     〃   准尉  伊良原義晴
   第1機関銃中隊長 中尉 近藤幸治郎 転出 7・3
    〃(代) 少尉  秋野英二  転出 8・1
    〃    中尉  小林司郎  戦死 8・25
   連隊砲小隊長 中尉 長尾雄次

   歩兵第25連隊連隊砲中隊(8・5出動 歩兵第26連隊第1大隊に配属 ) 
   連隊砲中隊長 中尉 海辺政次郎  戦死8・29
      小隊長 少尉 沢田八衛   戦傷8・20  
       〃  少尉 山田四郎   戦傷8・25
     通信隊長 少尉 片岡義市

   *第1機関銃中隊長近藤幸治郎中尉は安達第1大隊長の7月3日戦死を受けて、大尉昇進の
    うえで第1機関銃中隊長から第1大隊長代理となり、7月13日に生田準三少佐の第1大
    隊長着任を受けて大隊長代理を解かれ、生田大隊長の8月29日戦死とともに第1大隊は
    全滅した、という流れではないかと思います。全滅とはいえ、どんな場合でも 生き抜い
    た兵や負傷兵がいます。
  **第1大隊第3中隊長小林司郎中尉は7月3日負傷、後任は牧野竹治中尉。8月1日、牧野中  
    尉に替わって、  第26連隊旗手鶴見筆上少尉が中尉昇進のうえで第3中隊長着任。8月20
    日、鶴見第3中隊長戦死。
 ***ソ連軍包囲下の死守陣地消耗戦闘で隊長・隊長代理もめまぐるしく替わっています。上
    掲表は将校だけですが、この表から、戦争がいかに多くの招集兵を死なせ、い かに多く
    の健常招集兵に身体障害者として生きる人生を強いるものか、お察しください。

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P355, 356 記載の第26連隊第1大隊のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


1939年
6月  ・小野寺哲也(22才)、半年間の下士官候補者教育隊卒業
     ・ 〃 チチハル待機第7師団軍医部衛生隊所属伍長勤務
6・20  ・チチハル待機中の第7師団に出動命令 歩兵第28連隊は待機
          ・歩兵第26連隊に第23師団配属命令、即日出動
7月  ・チチハルで、26連隊がソ連軍との対戦車戦で全滅したと噂が流れた
7・3  ・歩兵第26連隊第1大隊長安達千賀雄少佐、川又攻撃中に戦死 衛生兵も
      戦死、第1大隊半減で退却、ノロ高地で兵員補充を待つことになった
      ※川又 …… ハルハ河にホルステン河が流入する合流点、ソ連軍渡河施設がある
7・13  ・生田準三少佐が歩兵第26連隊第1大隊長に着任
7・20  ・歩兵第26連隊衛生兵欠員補充のため、小野寺伍長に26連隊配属命令
     ・同じく26連隊配属の衛生兵補充井上伍長がチチハルの病院で聞いた
      「ノモンハンへ出ると、衛生兵だろうと軍医だろうと、まず生きては帰れ
       ないそうだ」

8・1    ・小野寺伍長、井上伍長、ノロ高地の歩兵第26連隊(須見部隊)本部に到着
      出頭 小野寺は第1大隊本部付、井上は第2大隊本部付になる
      ※ノロ高地はハルハ河の北東、ホルステン河の南東にある
     ※※ホルステン河は、ソ連・モンゴル側ではハイラースティン河と呼んでいる

8・5    ・第1大隊、本隊の歩兵26連隊指揮下から第23師団長直轄へ配属
           ・第1大隊(生田大隊)は、731高地~日の丸高地(ホルステン河北岸側=
      右岸側)地区に展開
           ・当日現在の第1大隊(生田大隊)兵力は第1、第2、第3中隊、連隊砲
      小隊、第1機関銃中隊、歩兵26連隊連隊砲中隊

8・7    ・日の丸高地陣地から第1大隊連隊砲が敵陣地に向けて1発試射 
      我が方1発試射に対し、敵陣地からお返しの重砲210発着弾  
     ・日の丸高地陣地ではこれ以後、ソ連軍重砲陣地から毎日08:00,14:00の
      2回各1時間、1分間に何十発もの重砲弾を浴びた。重砲が止むと、
      シュルシュルと迫撃砲弾を撃ちこまれた。

8・17  ・朝、第1大隊の連隊砲が朝30分間、連続砲撃。
    ・こちらの砲撃が終わった直後から猛烈な反撃あり、1時間ほどの砲撃を受
     けただけで、砲手・弾薬手もろともこちらの砲が吹き飛ばされた。

8・19  ・よく晴れた夜半、砲撃始まり刻々に激しさ増す 敵機編隊、他陣地爆撃
    ・連隊砲隊が砲体鏡で敵数台の戦車と数百の歩兵を視認
    ・小野寺伍長は神田軍医の指示を受けながら、壕から壕へ負傷者の応急手当
      てに追われる

8・20  ・夜明け前から敵の砲撃始まる。夜が明けて朝霧が晴れると、陣地1km前
     方に白旗の横列あり。その後ろに2陣3陣と敵歩兵の列が続く。その陣列
     の後ろの稜線の見えないところに、もっと多くの戦車・装甲車・歩兵が出
     撃待ちしているはず。

     ・生田第1大隊守備地域一帯の敵砲撃、従来にないすさまじさ。空からは爆
      撃、くり返しあり。すさまじく重なり合う砲弾爆弾の相次ぐ爆発が砂塵を
      まきあげて、まわりが暗くなった。

     ・味方の連隊砲や重機関銃も見事に戦って敵の重砲や歩兵に打撃を与えるの
      だが、彼我の兵数や砲種砲数、重機軽機数、砲弾銃弾数量の圧倒的な隔た
      り、8月戦闘における戦車・装甲車なし日本軍では、全滅するか壊滅前の
      退却しかなかった。

     ・どこも包囲されている第1大隊──731高地~日の丸高地にかけて
     ・山県部隊寄りに、第1大隊本部 ※山県64連隊長→ 5・21山県支隊長
     ・大隊本部前面に、第2中隊
     ・第2中隊から北に4km → 第1中隊
     ・第1中隊から4kmの日の丸高地の一角 → 第3中隊
     ・第3中隊の北方は、ソ連軍の自由行動地域

8・20  ・夜明け前に、第3中隊から大隊本部へ電話連絡が立て続けに入った。
      「重囲ニ陥チツツモ敢闘中」。夜が明けてまもなく電話途絶。
     そのため鶴見第3中隊長は大隊本部へ伝令3名派遣。
     伝令、1人も大隊本部に到達せず、第3中隊に帰還せず。

     ・神田軍医から小野寺伍長に第3中隊へ行ってみてくれと指示有り。
      小野寺は地下足袋に巻脚絆、六連発拳銃と手榴弾3発だけの軽装、医療嚢
      にびっしり薬品を詰め込んで直ちに壕を出た。戦車を避け、砲弾穴に身を
      隠し、砲弾や銃撃から必死で逃げ、装甲車に見つからないことを祈りなが
      ら(装甲車には歩兵が乗っているので逃げきれない)砂の陰にまわりこみ、
      第3中隊までの道のり8kmを6時間後に着いた。

     ・小野寺伍長は鶴見中隊長に大隊本部から派遣された旨を報告し、大隊長の
      激励のことばを伝えた。報告を済ませてから、小野寺伍長は分秒を惜しん
      で、壕内に収容されている多くの重傷者の手当てに取り組んだ。疲れも空
      腹も感じなかった。

     ・夕刻近く、中隊長が小野寺伍長を呼んだ。「第3中隊はただいま総攻撃を
      敢行して玉砕したと、大隊長殿に伝えてほしい。かえりみて悔いなく善戦
      した、と申し上げてくれ」と中隊長が言う。
       小野寺は「命令でこの中隊に来ました。運命を共にさせていただきま
      す」と答えた。全滅するまで負傷者の手当てをしてゆくのが衛生兵の本分
      だと思ったが、それは許されなかった。
       中隊長が命令だと言った。「だれかが状況を伝えねば、大隊長殿への任
      務が果たせない。頼む。なんとかうまく切りぬけて行ってくれ」

     ・8月20日夜、第3中隊は最期の突撃をした。歩行可能な生き残りの兵が2
     人、3人と第1中隊陣地にたどり着いて伝えた。──連隊砲も速射砲も砲
     弾がなくなった。機関銃陣地も壊滅した。連隊旗手から8月1日に赴任した
     第3中隊長鶴見筆上中尉は遂に、「最後の突撃をする、重傷者で歩行可能
     の者は、大隊本部の位置に撤退せよ」という命令を出した。そして、中隊
     長を先頭とする一団は敵陣に突入したという。第3中隊は全滅した。
                  ※全滅とは言っても負傷者その他、必ず生存者はいます。

  ※今回の小野寺伍長の経験は『静かなノモンハン』 伊藤桂一 著(講談社文庫)1986.
   5.26. 2刷に拠っています。もちろん実話です。



コメント    この記事についてブログを書く
« <ノモンハン捕虜帰還兵> ... | トップ | ノモンハン生還衛生伍長(2... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事