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生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

Gustav Mahler  Symphonie Nr. 8  Symphonie der Tausend  マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」

2014-10-05 22:44:42 | マーラー
 神奈川県民ホールの開館40周年記念、第21回神奈川県国際芸術フェスティバルのオープニングを飾る、マーラーの交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」を歌ってきました。

 実は5月に特別編成合唱団の募集があり、一生に一度あるかないかの機会と思い直ぐに申し込み、その後練習に参加しましたが、2010年の12月に慢性疾患が一応寛解になって以降今年の夏が最も体調が悪く、しかも9月に入ってかなり重大・緊急は仕事上の問題が発生してその対応でも疲れきっていて、一時期は「千人」の参加辞退も止むを得ないと半ば諦めていました。実際問題、社外の法律系の事務所との打合せの日時がリハーサルに被ったら「千人」を辞退するしかないと諦めていました。が明日の午後になったので、どうにか本番のステージに立てました。

 想像はしていましたが、想像を上回る大曲ですね。とにかく合唱団が立つひな壇が半端な大きさではありません。神奈川県民ホール(当然大ホールです)の巨大な反響板がちょうど合唱団に覆い被さっていて、音響的にも重要な役割を果たしてくれていました。ひな壇の最上段に立ってみると、客席の2階席中央部の先端とほぼ同じぐらいの高さに感じました。ひな壇最上段で上に手を伸ばすと、反響板にもう少しで触れそうなぐらいです。なので合唱団の声が拡散して薄まらず、反響板の音響レンズ効果で声が前に飛んでゆきます。その結果、大編成のオーケストラにも全く負けません。むしろリハーサルでは合唱が大きすぎるから当該パート全員で歌わずに、3分の1位ぐらいに選抜して歌えという指示が出たくらいです(結局全員で3分の1の音量にした様ですが)。

 とにかく大編成のオーケストラが発する大音響に揺さぶれる快感ですね。コントラバス8本、ティンパニ2組、グランカッサ(=大太鼓)、オルガン。これらの低音が炸裂すると振動が足下のひな壇を伝わって、足の裏から大腿骨→骨盤→背骨→頭蓋骨と伝わります。オーケストラと歌う環境からは丸1年ほど遠ざかっていましたが、足下から伝わってくるヴァイブレーションが、天使が漕ぐゴンドラの細かい揺れの様に、凝り固まった頭脳、メンタルコンディション、体の強張りをほぐしてくれます。いやあ何という快感でしょう。リハーサルでオーケストラと合わせるまでは、「千人」を歌ったらこれを最後に合唱は辞めようと本気で思っていました。しかし最初のオケ合わせでオーケストラと歌うことの感動を思い出し、むしろオーケストラと歌う機会があるところに戻ろうかと思い始め、本番が終わった今は戻ろうかどうしようかではなく、何時どういう形で戻ろうかと考えるに至っています。

 それにしてもグスタフ・マーラーが五線紙に書き落とした精神世界の客体化物。どれほどのエネルギーを、あるいは自らの生命を削って五線紙に託したことでしょうか。その断片についてはピアノ伴奏での合唱団練習でも時々感じることは出来ていましたが、初日の通しのリハーサルでも随分と興奮しました。第九の本番が終わった時の感動と同じ程度の心の反応が既にリハーサルで生じていました。リハ二日目は問題があるところをつまんで返しながらのリハーサルですが、マエストロの指示によって細部がどんどん良くなります。水分切れでしおれかかっていた鉢植えの花に適切な水を肥料を与えたようなものです。色彩感、生命力がどんどん際立って来ます。マエストロ曰く「明日は必ず成功します。問題はどの程度成功するかです。」ステージ上で笑い声が上がりましたが、オーケストラにとっても合唱団にとってもそうそう気楽に演奏できる曲ではないことはわかっていますので、楽員・団員一人ひとりのやってやろうという気持ちが伝わってきます。あまりの大曲すぎてゲネプロは無し(やろうと思っても時間的に無理だった?無理してゲネプロ(=プログラムを全て1回なぞる)をやると特に声楽のソリストが声を消耗して本番で歌えなくなるからだと思いました。ハイ、正直に言って本番当日のつまんでのリハーサルですら、私自身は声を使いすぎて本番で少々声が足りなくなったと思いました。

 ともかくクライマックスでは合唱がトッティで歌い終わった後、結構長いオーケストラの後奏があります。全てを出し切って歌い終わり、後の流れをオーケストラに託した更にその後のフィナーレで、観客席2階の右端に立つバンダがファンファーレを高らかに吹奏します。トランペット4本とトロンボーン3本のベルがちょうど私の方を向いているように思えて、バンダ隊の音圧を顔に感じるような気がしました。これで感動するなと言われてもそれは無理と言うものでしょう。本当にこの時間、この空間を共有できた全ての人に、感謝しています。

 ちなみにチケットは完売で大入り袋が出ました。実際には空席も若干あった様ですが、これは台風が近づく中での強い雨で残念ながら足を運べなかった方がおられたと言うことだと思います。控え室の窓から見る横浜港の空は灰色で、雨脚もよく見えました。天気が悪い中を聴きに来ていただいた方にも深く感謝いたします。

 しばらくは興奮冷めやらずで余韻にも浸っていたいので、このマーラーの「千人」でこの後も何回か書きたいと思っています。

Gustav Mahler  Das Lied von der Erde   マーラー  「大地の歌」

2014-09-02 22:08:34 | マーラー
 マーラーの「大地の歌」。初めて聴いたのは合唱を始めた高校時代ですね。まだCDが出回る前で、FMラジオで聞いたのか、友人からLPレコードかカセットテープを借りて聞いたのかまでは覚えていません。自分でLPレコードを買ってはいないことは確かです。いずれにしても今日に至るまで、生演奏を聴いたことはありません。全て録音音源の再生を聞いている訳ですから、独唱者の声の音量と、伴奏のオーケストラの音量と、のバランスは録音技術者によって良い様に弄られたものです。電気的な処理無しでオーケストラをバックにどれだけソリストの声が聴こえるのか、生きている間に一度は聴いてみたいと思っています。まあ兎に角最初の頃に感じた印象は、何とも大げさな曲というものでした。合唱を始めたばかりの高校生にとっては、こんな大曲を自分が歌うなんてことは全くもって想像することも出来ないものでした。

 作曲者自身の注釈として、テノールとアルト(もしくはバリトン)とオーケストラとされていますが、圧倒的にテノールとアルトの組み合わせで演奏されています。聴く立場からすれば、テノールとアルトが交互に歌う方が、テノールとバリトンが交互に歌うよりも、高声と低声という対比だけではなく、男声と女声、燕尾服とドレスというヴィジュアルの比もあって、好ましいに決まっています。それでも低声系の男声だって「大地の歌」を歌いたい、あるいは聴きたいと思う人間だっているわけで、フィッシャー=ディースカウが歌っているCDは今でも購入できるようです。

 またマーラー自身が遺したピアノ伴奏版もあり、こちらはマーラーの死後に出版された様ですが、ピアノ伴奏版の世界初演はなんと1989年に日本の国立音大講堂だそうです(Wikipediaによる)。ということでピアノ伴奏版のCDを聴き直してみました。初めの内こそオーケストラ版に比べて音が薄い等と思っていましたが、ピアノ版はピアノ版の良さがあるといいますか、マーラーが交響曲を1曲書き上げるだけのエネルギーを注ぎ込んだものの弟分と言いますか妹分と言いますか、良くある歌曲とは出自が違うのが判ると言いましょうか、やはり只者ではない音楽密度を持っていると思います。テノールが歌う第1、5楽章はHighB♭のロングトーンがあり、今の私では逆立ちしても歌えません。第3曲はHighA止まりでしかも八分音符の音価だけなので歌うだけなら今の私の射程距離内とも言えます。低声系が歌う偶数楽章なら音域的には歌えないということはなさそうです。しかしマーラーが相当なエネルギーを注ぎ込んだこの曲を歌い上げるだけの人間力が今の私に備わっているかときかれると、自信を持ってハイとはなかなか言えません。終楽章である6楽章は、他の楽章の2倍ぐらいある長い曲となっています。先ずは6楽章を更にいくつかに分けて、フィナーレである最後部から順に勉強してみたいと感じています。つまり6楽章の抜粋という形でも良いので歌ってみたいと思っています。

 またシェーンベルグが着手しながら完成できず、音楽学者のライナー・リーンが完成させた室内楽伴奏版もあるそうで、CDも複数販売されているそうです。さっそく中古品をあさって安価なものを入手して聴いてみようと思っています。室内楽伴奏版を聴いた上で、及び/又は、自分で歌うために譜読みを含む勉強をした上で、再び「大地の歌」については取り上げてみたいと思っています。

Gustav Mahler  Des Knaben Wunderhorn  マーラー 子供の不思議な角笛

2014-09-01 22:14:15 | マーラー
 マーラーの歌曲集です。Wikipediaの見出しは「少年の魔法の角笛」となっていますが、クラシック愛好家の間では「子供の不思議な角笛」という呼び方の方が定着しているのではないでしょうか? Wikipediaの記事の中でもドイツ語のニュアンスとしては「魔法の」というよりは「不思議な」という方があっているとも記載されています。

 ピアノ伴奏版とオーケストラ伴奏版の2種類が作曲されており、オーケストラ伴奏版を単純にダイジェストしてピアノ伴奏版にしたのではなく、構成にも相違点があったりするそうです。オーケストラ版の「Urlicht」(原光、原初の光、等と訳されています。以下、「原光」と記します。)は交響曲第2番「復活」の4楽章にエクスポートされ、歌曲集「子供の不思議な角笛」から削除されたそうです。また、こちらは削除されていませんが、「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」が交響曲第2番「復活」の第3楽章スケルツォの重要なモチーフになっています。

 歌えるものなら歌ってみたいですよね、オーケストラ伴奏版で。退職金の何割かを当てればオーケストラのギャラを払って歌えないことも無いのでしょうが、私の退職金は住宅ローンに消え、下手をすれば残債が残るかもしれませんので、退職金で歌う訳にも行きません。何処かに奇特なアマチュアオーケストラが在って安く引き受けてくれたら良いのですが。しかしピアノ伴奏版であれば不可能ではありません。大分以前にネットのダウンロードサイトから「原光」と「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」の楽譜は入手していて、以前師事していたテノールの先生に歌いたいと言ったこともあります。その時は今やると発声を壊すと言われて却下されましたが、レッスンで取り上げてもらわなくても自分でさらって歌うという手もありますね。

 歌う順番は交響曲第2番「復活」の楽章の並びと同じで、先ず「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」を歌い、次に「原光」でしょう。どちらも低声系の曲だと思います。「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」はト音記号の五線譜で低域側が下第2線のAから高域側が第5線に乗っかっているGまでと、2オクターブに1音足りない音域となっています。これ、歌おうと思うと結構広いですよね。高域側のGまでは自分の守備範囲に入っていると自負しているので、何とか処理してうたう積りですが、最近はト音記号の5線譜から下にはみ出た音域は、気分的には無理に押さずにむしろ捨てるぐらいの積りで歌っています。5線譜から下にはみ出た音域を無理に響かせようとすると、響かずにポジションは落ちて鼻腔共鳴が無くなり、それを声帯を鳴らすことでカバーしようとしてますます傍鳴りの声になるという悪循環に陥り、音程もボロボロに下がってしまいます。合唱でバスパートを歌っている他人の姿を見ていて、やっと響かせている積りが鳴らしているだけになっていることを得心し、それ以来低域は無理に響かせようとするのは止め(=捨てると表現しています。)兎に角ポジションを高く維持して息を流すことにだけ注力して、それで聞えなければ仕方がないと思うようにしています。声が飛んでいるかどうかはともかく、音程がフラット気味になる悪い癖は大分改善出来てきたと思っています。また、子音を立てることで声を際立たせることもある程度できているのではないかと思っています。
 さて、マーラーも音域が広すぎると認識していたのでしょうか、楽譜を見ると下第2線のAの音符の3度上とか5度上に小さい音符が書いてあったりします。これは低域が出ない歌い手は無理をしないで上の音で歌っても構わないということだと思います。 ただ「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」の音源を捜すと、女声が歌っている音源もありますが、圧倒的に男声の、しかも低声系が多いと思います。聴いてみれば判ると思いますが、スケルツォとは冗談というニュアンスがあり、正に「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」のこっけいな雰囲気を表現するにはバスの豊かな響きに勝るものはないと思います。以前、テノールの先生に歌いたいと言って却下された理由は良く判ります。当時の歌い方であれば低域を無理に押してポジション下がりまくりの音程下がりまくりになっていたでしょう。

日本のことわざで言えば馬の耳に念仏ということなのでしょうけれど、聖人アントニウスが一生懸命ありがたい説教を聞かせても全くその意味を解さない魚たちは、実はマーラーの音楽を理解しない当時の聴衆、音楽評論家、更にはオーケストラの楽員を揶揄したものだそうです。

 「原光」の音域はト音記号の5線譜で下は第1線にぶら下がったD♯、上は第5線上のF#。音域的には常識的で、ソプラノからバスまで全ての声種で歌えると思います。しかし曲想からすれば高声系ではなく低声系でしょう。交響曲第2番「復活」の第4楽章ではアルトの独唱と指定されているので、ピアノ伴奏版でもアルトが歌っている音源が圧倒的に多いようですが、男声の音源もあります。やはりテノールではなく、ほとんどはバリトンの様です。
 あらためて楽譜を見ながら音源(バリトンの)を聞いてみましたが、技術的には歌えないことはないと思います。歌いたくなりました。明日にでも伴奏者を見つけて歌いたいです。ただ「子供の不思議な角笛」の中の曲としては詩の内容がダントツで抽象的、宗教的な曲で、詩の意味とマーラーの意図とを最低限把握した上で歌うとなると、歌唱技術の再確認とは異なる性質の勉強が必要の様です。それでも歌いたい世界がそこにはあります。絶対に歌います。今年中が無理なら一年以内に、それが無理なら来年中に。

 「原光」1曲だけ歌うという選択肢はもちろんありますが、できれば「魚に説教をするパドヴァの聖アントニウス」と続けて歌いたいものです。そうするとこの2曲だけで良いかということを考えざるを得ません。交響曲第2番「復活」が、第3楽章スケルツォ=「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」、第4楽章=「原光」の後に最終楽章としての第5楽章(ソプラノ独唱&アルト独唱+合唱)が続いて完結します。歌曲として歌うときも、「魚に説教をするパドヴァの聖アントニウス」、「原光」に続いて完結させる第3の曲が欲しいところです。今のところ「子供の不思議な角笛」の他の曲の中に、相応しいものを見つけられずにいます。何とかマーラーの歌曲の中から相応しいものを見つけるか、他の作曲家の作品との組み合わせで落とし所を見つけたいものです。そう、マーラーにはオーケストラ伴奏の歌曲とも言うべき「大地の歌」もありましたね。

魂を揺さぶられるような演奏との出会い

2014-07-17 20:52:51 | マーラー
同じようなタイトルが続きますが同じではありません。昨日は「音楽との出会い」で、今日は「演奏との出会い」です。

「トリスタンとイゾルデ」(正確にはその「前奏曲と愛の死」)との出会いから半年か1年か、友人からカセットテープを借りました。日フィル解散前の最後の定期演奏会、指揮者は若き日の小沢征爾、演目はマーラーの交響曲第2番「復活」。聴き始めて直ぐに訳が分からなくなり、気付いたら終わっていた。思いっきりぶん殴られたような衝撃を受けた。この演奏の様子を言葉で表すことはノーベル文学賞受賞者をもってしても不可能ではないだろうか。何がなんだかわからなかった、とにかくものすごいと言う事だけは感じた。曲自体マーラーの最高傑作の一つであるし、指揮の小沢征爾も無論素晴らしかったのだろうと思う。しかし、この演奏のすごさは楽員一人一人の必ず復活して見せると言う、怨念とも言うべき魂の叫びの重層構造のなせる業だったと思う。

 クラシック音楽愛好者ではない人は、よくクラシック音楽はわからないと言うような事を言うと思う。逆にクラシック音楽愛好者はロック(やそれ以外のポピュラー音楽でも何でも)はわからない、などと言ったりします。この時の”わかる””わからない”というのは、自分の中に知識や経験といった蓄積があって、その蓄積からある程度予想される想定の範囲内か想定外か、という様なことだと思う。しかし、想定の範囲内のものに感動する事はあるのだろうか? 良くも悪くも想定を裏切られ、自分の経験知の及ばない遥かな地平線(水平線でも構わないが)の向こうまで、未体験の世界を垣間見せてくれるからこそ、新たな感激に打ち震える事が出来るのではないだろうか。

 感受性が鋭敏であったであろう十代の最中に、このような演奏をテープ再生であったとしても追体験する事ができて、本当に幸せだったと思う。この原体験があったればこそ、故岡本太郎画伯の「芸術は爆発だ!」とか、「何がなんだか判らないものが芸術で、判るものは芸術ではない」というようなキャッチコピーに触れて、我が意を得たりと喜んだものです。

 今日の記事を書くに当り、ネットで「日フィル」×「解散」×「復活」で検索したところ、同じような記事が多数アップされているようです。この時の音源はさすがに見当たりませんでしたが、出来れば音源を有償でも良いので頒布してもらいたいものです。著作権の権利関係はどうなっているのでしょうか。

 その後マーラーの「復活」は、小沢征爾指揮のものを中心にいくつもCDを購入しています。非常に洗練された名演と呼べるものも複数ありますが、「復活」以外まで対象を広げたとしても、日フィル解散直前の「復活」を凌ぐ演奏にはついぞ出会えていません。自分自身の理解力が遥かに及ばない水準のものすごい演奏(楽譜に書かれた作曲者の意図を再現するという行為)があると言うことを思い知らされたからこそ、単に耳障りの良い、優しい、きれいなだけの音楽では満足しきれなくなったとも言えます。リゴレットに深く共鳴した原点もこの「復活」の演奏と言う原体験だったと思います。

 昨日紹介した音楽(=曲)との出会い;ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」(の「前奏曲と愛の死」)と、今日紹介した演奏との出会い;解散直前の日フィル(小沢征爾指揮)のマーラーの「復活」、この二つの出会いが、長らく私の音楽観、芸術観、人生観の基礎となっていました。この二つに比べると随分と最近になって、ヴェルディのオペラ「リゴレット」、この3本の柱が今の私の音楽観、芸術観の根本をなしています。

 さて、マーラーの交響曲第2番「復活」と出会った頃には、まさか自分が歌う事になろうとはこれっぽちも考えませんでした。ところがその後、マーラーのメモリアルイヤーに、音楽ホールとして評判の高い大ホールで、プロのオーケストラのバックで合唱団の一員として歌い、一般にも市販されているCDになってCDデビューも果たす事になりました。そうはいってもこの時の裏話はネガティブな話もあるので、次の機会にと思います。