オールドヨットマンの残日録・ZANJITSUROKU

相模湾に育てられて60余年、ヨットレースや仲間との思い出を大切に、これからの日々を健康で明るく楽しく、絵日記に綴ろう。

暑気払い

2022-07-31 11:36:42 | 日記

 7月29日(金)いつものメンバーが集まり、「暑気払い」をしました。
 いつの間にか誰も言わなくなった「プレミアム・フライディ」です。
 暑気払いは季節の行事なのでちゃんとやらなければなりません。



 50年以上の付き合いですから話することは山ほどあります。
 「あのとき俺は・・・。」 「そのときアイツがこうでお前はこうだった。」 「いや違う・・・。」
 お互いのクセや考えは百も承知の上です。

 また8月も「残暑払い」をやります。
 お退屈さまでした。

こぼれ話・その2

2022-07-30 09:10:36 | 日記
 大儀見さんの話でもう一つ思い出しました。

 1992のケンウッドカップレースから更に遡ること15年の1977年、私はS&S54ftの「都鳥」のクルーとして「アドミラルカップレース」(イギリス)に参戦することになりました。  1国3艇、国別対抗のチームレースなので、日本代表です。
 3週間、会社を休む必要がありました。
 当時、大儀見さんは竹橋の毎日新聞の入っているビルにいて日本リーダースダイジェスト社の社長、また旧(社)日本外洋帆走協会の専務理事されていました。
 ランチタイムにレストラン街でお会いすることがたびたびあり、外洋帆走協会から会社あての文書を一通だしていただくことにしました。

 文書を持ってヨット部長(経営調査室長)を訪問して見せたところ、意外な返事が返ってきたのです。
 「この大儀見薫という男はねぇ、僕の高校の同級生だよ」・・・。 ビックリ仰天です。
 そこから話はトントンと進み、海外へ遠征するスポーツ選手の社内での処遇という話に発展しました。
 結果は、海外遠征するスポーツ選手は「特別休暇」とし給与は無給、但し給与相当をスポーツ等後援会が支給する、ということになり、私はその適用第1号となったのです。 (何という幸運)

 レースの方は、世界のトップクラスの大型艇を目の当たりにしてエキサイト、カウズのブイ回りのレースの後、各国のクルーたちがパプに集まり、レースの話で盛り上がり国際レースの楽しさを知ることができました。
 英国大使館の歓迎パーティではヒース元首相と輪になってお話しました。 (あの時の写真、誰かが持っているハズです)
 ヒースさんは「モーニングクラウド」という艇のオーナーで、パーティ会場に入るとすぐ「日本の若者と話がしたい」と真っすぐ入ってきてくれたのです。 (スゴイ人だぁ)

 当時私は33歳、多くのことを学ぶことができました。
 イギリスに限らず、諸外国におけるヨット・セーリングへの向かい方・位置づけの違いを感じたものです。

   この項おしまい。 残念ながら写真はありません。

あれから30年、江の島に集まる

2022-07-17 08:25:29 | 日記
 先ずは言い訳から、
 パソコンの調子がイマイチでアレやコレや、長い間小欄の更新が滞ってしまい、訪れていただく皆さまには申し訳ありませんでした。(大陳謝)

 さて、さる7月9日土曜日、1992年の「ケンウッドカップレース」参戦から30年がたち、当時の仲間が江の島に集まり、語り合いの一時を大いに楽しみました。
 こんなこと言うのも何ですが、当時の私にとっては楽しいことばかりではありませんでした。

 電話事業100年の社内向けとして「社員で海外のヨットレースへ参加」が数多くの企画の中から選ばれで、その実行計画の話が私のところに降りてきたのです。
 初めに私は、「ホントにやるのですか? どういうことなのか解っているのですか?」と会社に投げかけました。
 「全国から乗船クルーを募集する」・「ふさわしい艇はあたらしく造る」との回答があり、「チームキャプテンとして全権を任せる」という話でした。  ちょっと考えた上で引受けることにしました。
 それから面接を経て江の島YHに希望者50数名が集まり、3艇に分かれて基礎練習開始、小さなレースからジャパンカップレースまで多くの友人の協力を得ながらチームづくりを進めていきました。
 悲しい事故もありました。 計画中止を覚悟していましたが、原因究明・再発防止など話し合い、会社が決行を決め継続することになりました。
 会社の都合でハワイのレースに同行する選手は20名、練習の最後は私にとっては辛いツラい選手選抜・いわゆる絞り込み、選手たちの一生の思い出を左右することになります。

 そしてハワイでのレース、そこそこうまくいきました。 長短7レース、初戦はクラス2位、最も長い2オーバーナイト(2昼夜)帆走りつづける「Kaula-Race」では「クラス優勝」することができました。
 その後94年96年と2度の自主参加を経てチームは大きく成長することができたのです。
 そしてそして、1997年、「関東相模湾サーキットシリーズ」で「年間総合優勝」、相模湾のほとんどのレースで優勝できたのです。 神子元島レースの優勝はホントにうれしかったのを今でもハッキリ覚えています。

 そういう仲間が江の島に集まったのです。
 選手たちは今でも各地域のレース艇のクルーとして活躍しています。(これがうれしい)
 ハワイには行ったけれどレースには乗れなかった人、ハワイ20名には選ばれなかったけれど今も船を続けている人、このメンバーも集まってくれました。(ホントにうれしい)



 最後に「こぼれ話」を一つ、
 会社では私にキャプテンを指名する傍ら、故大儀見薫さんをチームアドバイザーとしてお願いしていました。
 都内某所での打合わせの席で私の顔を見た大儀見薫さんは「やりにくいなぁ」と一言いわれました。
 会社は大儀見さんに「私のことを知っているのか」と何度も聞いていました。  大儀見薫さんは知っているどころの話ではありません。外洋レースのいろいろな場面で会って本部の仕事をしたり、レースで競ったりもした日本のオーソリティです。 (ケンウッドカップレースの企画・運営にも大きく関わった方です)
 ハワイでのレース後、大儀見さんにお会いしたとき「ガンバッたじゃない」と褒めていただきました。

 これでひと段落ですが「これから先も続けて行こう」、「短いスパンでね」の声があがっていました。

 この項おしまい。