オールドヨットマンの残日録・ZANJITSUROKU

相模湾に育てられて60余年、ヨットレースや仲間との思い出を大切に、これからの日々を健康で明るく楽しく、絵日記に綴ろう。

こぼれ話・その2

2022-07-30 09:10:36 | 日記
 大儀見さんの話でもう一つ思い出しました。

 1992のケンウッドカップレースから更に遡ること15年の1977年、私はS&S54ftの「都鳥」のクルーとして「アドミラルカップレース」(イギリス)に参戦することになりました。  1国3艇、国別対抗のチームレースなので、日本代表です。
 3週間、会社を休む必要がありました。
 当時、大儀見さんは竹橋の毎日新聞の入っているビルにいて日本リーダースダイジェスト社の社長、また旧(社)日本外洋帆走協会の専務理事されていました。
 ランチタイムにレストラン街でお会いすることがたびたびあり、外洋帆走協会から会社あての文書を一通だしていただくことにしました。

 文書を持ってヨット部長(経営調査室長)を訪問して見せたところ、意外な返事が返ってきたのです。
 「この大儀見薫という男はねぇ、僕の高校の同級生だよ」・・・。 ビックリ仰天です。
 そこから話はトントンと進み、海外へ遠征するスポーツ選手の社内での処遇という話に発展しました。
 結果は、海外遠征するスポーツ選手は「特別休暇」とし給与は無給、但し給与相当をスポーツ等後援会が支給する、ということになり、私はその適用第1号となったのです。 (何という幸運)

 レースの方は、世界のトップクラスの大型艇を目の当たりにしてエキサイト、カウズのブイ回りのレースの後、各国のクルーたちがパプに集まり、レースの話で盛り上がり国際レースの楽しさを知ることができました。
 英国大使館の歓迎パーティではヒース元首相と輪になってお話しました。 (あの時の写真、誰かが持っているハズです)
 ヒースさんは「モーニングクラウド」という艇のオーナーで、パーティ会場に入るとすぐ「日本の若者と話がしたい」と真っすぐ入ってきてくれたのです。 (スゴイ人だぁ)

 当時私は33歳、多くのことを学ぶことができました。
 イギリスに限らず、諸外国におけるヨット・セーリングへの向かい方・位置づけの違いを感じたものです。

   この項おしまい。 残念ながら写真はありません。