行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

運命のもとに項(うなじ)を屈(かが)めるよりほかはない・・・『山椒大夫』

2016-02-03 23:35:05 | 日記
文章を読んでいて、背筋がゾクッとなる言い回しに出くわすことがある。以下は森鴎外『山椒大夫』の一節である。

姉と弟とは朝餉を食べながら、もうこうした身の上になっては、運命のもとに項を屈めるよりほかはないと、けなげにも相談した。そして姉は浜辺へ、弟は山路をさして行くのである。

父母から生き別れ、人買いの下で奴隷のように酷使される安寿(姉)と厨子王(弟)の哀しい説話をもとに鴎外が創作したものだ。不幸な星の下に生まれた子どもの姿を、これほど凝縮された言葉の中に、切実に語り得る力にはただただ圧倒されるばかりである。「項(うなじ)」を垂れることを「項垂(うなだ)れる」と言うが、それを「屈(かが)めるほかはない」と言い切ったことで、抗うことのできない運命の悲哀を表現し得た。

中国語ではネックレスを「項鏈」と言うが、「項」を使った類似の表現が見つからない。意気阻喪したさまを「垂頭喪気」と言うが、これは項垂れるに通ずるものである。「屈める」ほどの真に迫ったものがない。

小説では、安寿は弟のために自ら命を絶つが、逃げ延びた厨子王がやがて身を立て、母を訪ねる。そしてとうとう、田舎道で視力を失った老婆が詩を歌うのに出くわす。

安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生しょうあるものなれば、
疾とう疾う逃げよ、逐おわずとも。

厨子王の目から涙があふれ、母の前に倒れこむ。最後の締め括りは圧巻だ。

そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤うるおいが出た。女は目があいた。
「厨子王」という叫びが女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。

「見えぬ目でじっと前を見た」「干した貝が水にほとびるように」・・・珠玉の言葉を読んで、涙を誘われない方がおかしい。母の愛は何よりも貴い。恨みやつらみを報復するストーリーが避けられているのも、その愛を伝えんがためだと解したい。