行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア・上海発】「逃げ出した上海娘の話」と信仰の動揺

2016-02-14 09:08:49 | 日記
考えれば考えるほど、「逃げ出した上海娘の話」はよくできている。現代社会が抱える様々な問題を浮き彫りにしたからである。過酷な現実をあぶり出すためには、無垢や無知が必要なのだろう。中途半端にものを知っていると、雑念が不純物を呼び込み、真実にコーティングをしてしまう。都市と農村の格差は、政府の報告でも学者の研究でも、メディアの報道でも、いやというほど語られてきたが、これほどの反響を呼んだことはなかった。

上海の町中を歩いてみる。



不要になった衣服を回収するパンダの形をしたポストが置いてある。古着は安く販売される。資源のリサイクルとビジネスを兼ねた知恵だ。豊かになった社会の象徴である。



バスの停留所には次の到着時刻が液晶画面で掲示される。映画や新商品の広告も一緒に流れている。東京でも見かけないサービスだろう。

大都市はどんどん変化している。こういう町で何不自由なく育った女性が農村に行き、穴を掘っただけのトイレ、使い古した食器、泥で固めただけの家を見たら、さぞ驚くだろうことは十分理解できる。愛情は貧富の差や家庭環境の違いを乗り越えられると言ったところで、きれいごとにしかならないだろうことも受け入れざるを得ない。上海娘が農村から逃げ出し、恋人との関係を絶ったことに対し、賛意を示す声も多い。中国では家柄の合った男女関係を「門当戸対」という。どこの国でも同じ事情はある。

大都会で帰属意思を持てず、不安定な生活を送る地方出身者たちを、上海では「滬漂」(「滬」は上海の別称)、北京では「北漂」という。彼らの多くは都会の人々と交わることなく暮らしている。36人が圧死した上海外灘の年越しカウントダウンイベントに集まったのは、こうした若者たちだった。自分が暮らす土地とのかかわりを求める、年に一度の機会だったのである。

だが都市で大学を出て、都市で仕事を見つけ、成功の道を進もうとする農村の青年が、都市で生まれ育った女性と出会うのも自然なことだ。彼らは「鳳凰男」と呼ばれる。逆に田舎の女性が都市の男性と巡り合うケースもある。だがこの場合、2人の関係、両家の関係を規定するのは、当人たちが出会い、将来にわたって暮らし続ける都市のルールにならざるを得ない。そこで農村の伝統的なルールとの衝突が生じる。都市の「門当戸対」を定めるルールは、主として経済的な基準による。教育や文化も経済力が背景にある。そのうえで価値観を共有していかなければ関係が成り立たない。

だが都市の価値観が人々の心を荒廃させ、信仰の不在を生んでいる現実もある。都市と農村との間で、経済格差だけでなく価値観のギャップがますます深まっているのは、農村の問題よりも都市の問題ではないのか。都市の人々の目には、農村が暗愚で遅れた土地としか見えなくなってしまっている。かつての詩人が農村に生の充実を求めたことを思うとき、その落差は歴然としている。

「田園詩人」とも評される陶淵明は、『帰去来の辞』で「帰りなんいざ 田園まさに荒れなんとす なんぞ帰らざる」と詠んだ。飢えをしのぐため自らを曲げて仕官する生活を捨て、精神の解放を求め田畑で鍬を振るう清貧の道を選んだのだ。生への執着と解脱の間に苦悩し、「大化の中に縦浪し 喜ばずまたおそれず(人生の大きな変化に身を委ね、ささいなことに一喜一憂しない)」(『形影神』)との言葉を吐いた。

白楽天は生前、自らの墓碑銘『酔吟先生墓誌銘』で自分の家族や来歴を述べた後、「外に対しては儒家の教えをもって身を修め、自分の中にあっては釈迦の教をもって心を治め、その一方、山水風月歌詩琴酒をもって精神を楽しませている」と、自然への救いを語った。

信仰の不在は、都市生活が自然に包まれた農村の原初的な心象風景を失ったことから生じているのではないか。この点については、中国人の知人が「農村が素朴な純情さを失わず、貧しいながらも明るい雰囲気で歓待していれば、上海娘の心も晴れやかだったのではないか」と反面の示唆を与えてくれた。農村はほとんどが出稼ぎで、存亡の危機にある。都市の荒廃が農村の信仰をも失わせているとしたら、人々はいったいどこに救いを求めればよいのだろうか。今回の騒ぎはそんな叫びを含んでいるように思える。