昨年末公開された中国映画『老炮儿』をぎりぎりで見ることができた。「老炮儿」は現代の日常語ではなかなか使われない。中国人でも翻訳に困るタイトルだが、北京の下町で暮らしてきたならず者をイメージすればよい。ケンカばかりして正業にもつかない。かといって庶民をいじめるわけではなく、弱きを助ける任侠道も心得ている。閉鎖されたコミュニティーで生き延びてきた義理人情に生きる者たちを指す北京語だ。
都市開発が進んで外観も一新し、それにつられて人の心までもが変わっていく。昔気質を捨てられない主演の馮小剛(映画監督)が扮する50過ぎの張学軍が、高級幹部の子弟たちがつくる不良グループに拉致された息子を救うため、北京のやくざ者の「掟」である野外決闘に挑むまでの人間模様を描いた作品だ。昔からの友情を固く守る仲間もいるが、功利主義に支配された社会にすっかり馴染んでしまった成金もいる。だが、末期のがんを背負いながら日本刀を片手に立ち向かっていく主人公に、昔の仲間はかつての友情を思い出し、みなが決闘場所に結集する。最後は仲間たちが拘置所から一斉に仲良く出てくるシーンで終わる。
人に道を聞くときはまず、「おじさん」「お兄さん」などと相手の敬称を呼ばなくてはならない。いきなり「どこどこへはどう行くのか?」と聞くのは失礼だ。男は女性で手を挙げてはならない。いわれのない金を受け取ってはならない。友人を助けるためには自分の命もかける。やくざ者にはやくざ者のルールがある。最初のシーンは印象的だ。スリが現金を抜き出した財布をゴミ箱に放り込む。それを見とがめた張学軍が脅しをかける。
「せめて身分証やクレジットカードは持ち主に郵送してやってもいいんじゃないか。このままではこの町から抜け出すことはできないぞ」
これが任侠の掟なのだ。
あるシーンでは、年老いた露天商の老人が警察に違法営業をとがめられている。老人のリヤカーがパトカーに接触し、バンパーが破損したのだ。若い警察が老人を殴り飛ばす。張学軍がその場に居合わせ、車の修理代200元を払い、違法はやむを得ないとリヤカーを警察に引き渡す。だが、「殴ったことは落とし前がついていない」と若い警官の頬にビンタをくらわす。老人にはもっと立派なリヤカーを作ってやるから、と慰める。やじ馬たちはみな警察をやっつける彼に喝采を送る。警察が信用されていない現代社会を風刺しているのだ。
若い不良グループには「警察には言わない」と決闘での決着を約束する。彼らの掟は法よりも大事なのだ。社会が変わるにつれ掟も廃れたが、それを大事に守ろうとする者たちがいる。そうしなければ自分たちの存在意義も失われてしまう。掟は仲間同士を結びつける絆なのだから。法や金が人の関係を決めてしまうような世の中は絶対に受け入れられないという気概がある。
ひょんなことから張学軍らは、不良グループのリーダーの父親のマネーロンダリングを証明する文書を入手する。日本円にすれば数十億円の額だ。息子の拉致監禁を警察に通報しなかった張学軍だが、証拠の文書は共産党の中央規律検査委員会に郵送する。「挙報」(不正違法行為の告発)は警察への通報とは違うというのが、彼なりの無理くりの掟だ。いきなり反腐敗運動が顔をのぞかせ、一気に白けてしまうが、警察よりも党が重いという社会の実情を物語る興味深いストーリである。
深読みをすれば警察を率いていた周永康の失脚で、公安部門の力が一気にそがれてしまった時世の反映である。党から厳しく監視を受ける警察の悲哀が感じられる。法を執行する警察よりも、法を超越する党組織の方が格が上なのだ。
ふと、習近平が党幹部に「政治の掟」を説いていることを思い出した。廃れていく掟と、新たに持ち出される掟。いろいろ考えさせられる映画だったが、政治色を取り除けば、手放しで馮小剛の演技に拍手を送ることができる。秀作である。日本でも是非、こうした人情ものの中国映画が上映されることを望む。
本日12日は春節の銭神を招くお祭りだ。あたりは花火と爆竹の音に包まれている。とはいえ老北京人からすれば昔ほどのにぎやかさはないということになるのだろうが。
都市開発が進んで外観も一新し、それにつられて人の心までもが変わっていく。昔気質を捨てられない主演の馮小剛(映画監督)が扮する50過ぎの張学軍が、高級幹部の子弟たちがつくる不良グループに拉致された息子を救うため、北京のやくざ者の「掟」である野外決闘に挑むまでの人間模様を描いた作品だ。昔からの友情を固く守る仲間もいるが、功利主義に支配された社会にすっかり馴染んでしまった成金もいる。だが、末期のがんを背負いながら日本刀を片手に立ち向かっていく主人公に、昔の仲間はかつての友情を思い出し、みなが決闘場所に結集する。最後は仲間たちが拘置所から一斉に仲良く出てくるシーンで終わる。
人に道を聞くときはまず、「おじさん」「お兄さん」などと相手の敬称を呼ばなくてはならない。いきなり「どこどこへはどう行くのか?」と聞くのは失礼だ。男は女性で手を挙げてはならない。いわれのない金を受け取ってはならない。友人を助けるためには自分の命もかける。やくざ者にはやくざ者のルールがある。最初のシーンは印象的だ。スリが現金を抜き出した財布をゴミ箱に放り込む。それを見とがめた張学軍が脅しをかける。
「せめて身分証やクレジットカードは持ち主に郵送してやってもいいんじゃないか。このままではこの町から抜け出すことはできないぞ」
これが任侠の掟なのだ。
あるシーンでは、年老いた露天商の老人が警察に違法営業をとがめられている。老人のリヤカーがパトカーに接触し、バンパーが破損したのだ。若い警察が老人を殴り飛ばす。張学軍がその場に居合わせ、車の修理代200元を払い、違法はやむを得ないとリヤカーを警察に引き渡す。だが、「殴ったことは落とし前がついていない」と若い警官の頬にビンタをくらわす。老人にはもっと立派なリヤカーを作ってやるから、と慰める。やじ馬たちはみな警察をやっつける彼に喝采を送る。警察が信用されていない現代社会を風刺しているのだ。
若い不良グループには「警察には言わない」と決闘での決着を約束する。彼らの掟は法よりも大事なのだ。社会が変わるにつれ掟も廃れたが、それを大事に守ろうとする者たちがいる。そうしなければ自分たちの存在意義も失われてしまう。掟は仲間同士を結びつける絆なのだから。法や金が人の関係を決めてしまうような世の中は絶対に受け入れられないという気概がある。
ひょんなことから張学軍らは、不良グループのリーダーの父親のマネーロンダリングを証明する文書を入手する。日本円にすれば数十億円の額だ。息子の拉致監禁を警察に通報しなかった張学軍だが、証拠の文書は共産党の中央規律検査委員会に郵送する。「挙報」(不正違法行為の告発)は警察への通報とは違うというのが、彼なりの無理くりの掟だ。いきなり反腐敗運動が顔をのぞかせ、一気に白けてしまうが、警察よりも党が重いという社会の実情を物語る興味深いストーリである。
深読みをすれば警察を率いていた周永康の失脚で、公安部門の力が一気にそがれてしまった時世の反映である。党から厳しく監視を受ける警察の悲哀が感じられる。法を執行する警察よりも、法を超越する党組織の方が格が上なのだ。
ふと、習近平が党幹部に「政治の掟」を説いていることを思い出した。廃れていく掟と、新たに持ち出される掟。いろいろ考えさせられる映画だったが、政治色を取り除けば、手放しで馮小剛の演技に拍手を送ることができる。秀作である。日本でも是非、こうした人情ものの中国映画が上映されることを望む。
本日12日は春節の銭神を招くお祭りだ。あたりは花火と爆竹の音に包まれている。とはいえ老北京人からすれば昔ほどのにぎやかさはないということになるのだろうが。