行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

本邦初公開のフェルメール《水差しを持つ女》が描いた日常の美

2016-02-26 14:19:50 | 日記
昨日、六本木の森美術館で「フェルメールとレンブラント:17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち展」を見た。オランダが世界の強国だった17世紀黄金時代の作品60点を紹介したものだ。ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵の傑作、フェルメールの《水差しを持つ女》とレンブラントの《ベローナ》は日本初公開というのが触れ込みだった。森ビルに知り合いはいるが、それとは関係なく自分でチケットを買って入場したので、本文に商業的な意図は全くない。平日だというのに入場者が多かったのにはびっくりした。

http://www.roppongihills.com/events/2016/01/macg_vermeer_rembrant/

時間を止めて絵を見たいと思ったのは、思うに学生時代以来のことではないか。スペインに留学中、マドリッドのプラド美術館にさんざん通って宗教画を見た後、パリのオルセー美術館で印象派の光を浴びたときの衝撃は忘れられない。機内でたまたまジャン・ジュネの『泥棒日記』(朝吹三吉訳)を読んでいたら、同著翻訳者の妹であるフランス文学者の朝吹登美子さんが偶然にも隣に座っていて、一時期、親交を結ばさせて頂いたのもあのころだった。記者になってから、駆け抜けるように仕事をしてきて、息をつく暇がなかったというのが正直なところだ。

フェルメールの《水差しを持つ女》の前でしばし時がたつの忘れて立ち尽くした。青いスカート着て、白いスカーフを頭にかけた女性が窓からの光を浴びている。青は年月を経て、ますます青みを増しているように見える。色が生きているのだ。「青はこれを藍より取れども藍より青く」という『荀子』冒頭の言葉を思い出した。片手に水差しを持ち、それを受ける金色の盆はテーブルクロスの柄を映し出すほど滑らかだ。光があらゆる空間の隙間に入り込み、薄手のスカーフに隠れた髪をも描き出させている。さりげない日常の美を見つけた画家の目をしっかりと感じることができた。自分の目だけが見出した美に酔いしれ、画家はさぞ誇らしかっただろう。美は表現されることによって初めて美しいものになる。

先日、長崎に出かけたときにも感じたが、当時、アジアの海に出没していたのは東インド会社を設立し、大規模な植民地経営に乗り出していたオランダだった。大航海時代に先んじたスペインから独立し、スペインに代わって世界の覇者になろうとしていたのだ。広範な富裕層が出現し、それまで文化のパトロンであった王室や貴族になりかわって、新たな文化の担い手となった。歴史や宗教を題材にした従来の作品から、庶民の日常にかかわる風景画や静物画、人物画の市場ができあがっていった。思想の解放と言ってよい現象だった。

だが今度はオランダにかわって産業革命を経た英国が世界の海を支配し始める。東アジアではアヘン戦争以後の近代史である。国力の衰えたオランダは、文化的にも衰退し、古典主義の復興に逆行する。絵画からは鮮やかな光彩が消え、憂鬱な暗色に塗り替えられる。経済と文化の相関関係は興味深い。

中国に置き換えてみれば、富裕層の出現によって文化の大衆化が進む一方、それを低俗化として攻撃し、「歴史画」や「宗教画」の推奨によって主導権を握ろうとする習近平の闘いという図式を描くことができる。文化の不毛を招いた文化大革命の教訓をいかに学び取るかが、習近平による文化政策の成否のカギを握るであろう。今年は文革50周年である。半世紀が経過し、記憶が風化を始めている。大いに議論をすべきだが、対岸からはわずかな老兵の奮闘以外、なかなか良心の声が聞こえてこない。

こちら側も見ているだけではだめだ。行動しなければならない。声を出し続けなければならない。知行合一こそが求められている。言動不一致のダブルスタンダードは許されない。


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