行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論⑯】21年の迫害に耐えた中国人記者への哀悼

2016-02-23 07:06:01 | 独立記者論
19日、元新華社記者の戴煌が亡くなった。つい1週間前、米寿を迎えたところだった。また1人、「真実を語る」ことを信念とする記者がこの世の中から消えた。彼には会う機会を逸してしまった。著書のみが手元にある。冤罪の名誉回復(平反)に取り組んだ胡耀邦の事績をたどった『胡耀邦與平反冤假錯案』(中国文聯出版公司)だ。胡耀邦を正面から扱った本が少ない中、貴重な一冊である。

戴煌は江蘇省北部の塩城出身。16歳で入党し、19歳で新華社に入社した。以後、国共内戦や朝鮮戦争に従軍したが、反右派闘争や文化大革命で1957年から21年間、極寒の地での強制労働や投獄などの迫害を受け、生死の境をさまよう苦難を経験した。党が官僚主義、事大主義に染まっていくのに対し「神話と特権に反対する」と直言したのが災いとなったのだ。毎月の給料は155.75元から28元に減額。妻子からも逃げられ、人生のどん底を味わった。

1978年、50歳で「右派」のレッテルが外され、記者職への復帰が許された。62歳で退職するまで12年間、記者の身分を通した。胡耀邦の死後9年が経過した1998年、同書を出版し、胡耀邦の業績をたたえた。戴煌は生前、「人民の記者はもっとも明晰な頭脳と骨太の精神を持たなければならない」と語っていた。直言を貫いた記者ならではの至言だった。

戴煌は2011年7月、『南都週刊』のインタビューで、新華社社長まで務めた穆青が記者時代、部下の記事を横取りして自分の署名を加えて発表したことを暴露し、「私はあいつを馬鹿にしている。私は生涯、この性格は治らない。気に入らない人間は、皇帝でも親でも恐れないし、相手にしない」と放言している。彼の冤罪が完全な名誉回復ではなく、「改正」にとどまっているのもそのためかも知れないが、あえて人に媚びてまで見かけにこだわる性格でもないのだ。そうした率直な人柄を慕う人は少なくない。

同書には、胡耀邦が党中央組織部長として名誉回復に乗り出す際、論語・憲問の一節「利を見ては義を思い、危うきを見ては命を授く」を引用し、「我々が油に手を突っ込まなければ、だれが油に手を突っ込むのか」とはっぱをかけたエピソードが紹介されている。毛沢東時代に下された結論を覆すのは、だれの目からも至難に思えたのだ。まずはみんなの思想を根本から改める必要があった。そこで持ち出されたのが「実践は真理を検証する唯一の基準」との論理だった。同書では、胡耀邦が「真理を探究する過程では、永遠にどんなタブーも設けない」と語ったことも触れられている。



折しも『炎黄春秋』最新号には、巻頭に歴史学者、韓鋼の「『二つのすべて』の一つの懸案」が掲載され、胡耀邦が提起した真理基準論争の歴史的意義が述べられている。毛沢東を神格化する二つのすべては、四人組を打倒した華国鋒が自己の権力基盤を固めるために持ち出しものである。とかく小平勢力への牽制の意味合いが強調されるが、華国鋒が二つのすべてを主張した時期はごく短く、小平がそれに批判を加えると華国鋒は言及しなくなった。だとすれば真理基準論争が二つのすべてに対抗して生じたとの定説も不完全となる。そこで韓鋼は次のように指摘する。

「二つのすべては特定の方向性を持った政治方針だが、真理基準論争の向けられた対象は、ある特定の方針ではなく、毛沢東の政治観念と毛沢東への個人盲信(迷信)の心理を全面的に守ろうとすることに対するものだった」

つまり、真理基準論争は限定された政治闘争の手段ではなく、こうしたぬぐい難い毛沢東にかかわる観念と心理を解き放つ突破口を開いた歴史的意義を有する。そのうえで韓鋼は、「この観念と心理からの解放は、今日に至ってもなお完結していない」との警句で結んでいる。個人への盲信を生む精神的土壌はなお残っているというのである。習近平の過剰な中央集権化に対する懸念が含まれていると言ってよいだろう。

戴煌は亡くなる2週間前に発行された『炎黄春秋』のこの文章に気付いたであろうか。もし読んでいたら、利益を前にして、踏みとどまって義にかなっているかを考え、危険を前に命さえなげうつ覚悟を持つ精神の衰えに思いを致したに違いない。利益に左右され、危険におびえて逃げる態度からは、独立した思考も精神も生まれない。明晰な頭脳と骨太の精神は望むべくもない。、